第一話
「アリス・フォン・アルクライド公爵令嬢! 本日をもって、貴様との婚約を破棄する!」
澄み渡るテノールの声が、王宮の大広間に高らかに響き渡った。
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ中、今宵の建国記念パーティーの主役である第二王子、エドワード殿下が、美しい顔を醜く歪めてわたくしを指さしている。
(ああ、やっぱり……)
彼の隣には、庇護欲をそそるように寄り添う小柄な令嬢。桜色の髪をふわりと揺らし、潤んだ瞳で殿下を見上げる彼女は、最近、殿下のお気に入りとして名を馳せているリリアナ男爵令嬢だった。
周囲の喧騒が、まるで分厚い壁の向こう側のように遠くに聞こえる。
ざわめき、嘲笑、そして憐憫。あらゆる感情を含んだ視線が、ナイフのようにわたくしの心に突き刺さった。
「な、なぜでございますか、殿下。わたくし、何か至らないことでも……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
わたくしは、次期国王妃となるべく、物心ついた頃からこの国の誰よりも厳しい教育を受けてきたはずだ。作法、歴史、政治、経済、ダンス、淑女の嗜みの全てにおいて、完璧だと太鼓判を押されてきた。
それなのに。
エドワード殿下は、リリアナ嬢の肩をこれ見よがしに抱き寄せると、心底わたくしを侮蔑するかのような目で見下ろした。
「なぜ、だと? そんなことも分からんのか! 貴様はあまりにも地味すぎるのだ!」
地味。
その一言は、まるで宣告のように重くのしかかる。
「見てくれ、このリリアナの可憐さを! 夜会に出れば花のようだと誰もが褒めそやす。それに比べて貴様はどうだ? いつも地味な紺や灰色のドレス。髪もただ後ろで結い上げただけ。化粧も薄く、まるで影のようだ! そんな女が、私の隣に立つ妃としてふさわしいと思うか!」
殿下の言葉に、リリアナ嬢がびくりと肩を震わせる。
「そんな、殿下……。アリス様は、その、知的で落ち着いていらっしゃって……」
「黙っていろ、リリアナ。君は優しすぎる。こいつは、君のその優しさにつけこんで、君を虐げていたのだろう! そうに違いない!」
(……は?)
今、なんとおっしゃいましたか?
わたくしが、このリリアナ嬢を、虐げていた?
お会いしたことすら、数えるほどしかないというのに?
あまりに突拍子もない濡れ衣に、思考が完全に停止する。
わたくしが好きで地味な格好をしていたわけではない。
「妃となる者は、見目麗しさで目立つのではなく、知性と品性で王を支えるべきである」
それは、妃教育の教師たちから、そして誰よりも、わたくしの実家であるアルクライド公爵家から、口酸っぱく言い聞かせられてきたことだった。
派手な宝飾品は慎むように。
ドレスは落ち着いた色合いのものを選ぶように。
決して、王族より目立ってはならないのだ、と。
その教えを忠実に守ってきた結果が、これ?
この、仕組まれた茶番劇の道化?
「アリス、聞こえているのか! リリアナに謝罪しろ! そして、速やかにこの場から立ち去るがいい!」
怒声が、再びわたくしを現実へと引き戻す。
周りを見渡せば、味方はどこにもいなかった。
父であるアルクライド公爵は、苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いている。母も、扇で顔を隠し、わたくしから視線を逸らしていた。
彼らにとって、わたくしはもう「使えない駒」でしかないのだろう。
(ああ、そうか……)
胸の奥深くで、何かがぷつりと切れる音がした。
もう、どうでもいい。
この人たちのために、自分を殺して生きてきた10年間は、一体何だったのだろう。
「……承知、いたしました」
静かに、そう答える。
膝を折り、淑女の礼を完璧にこなす。震えも、涙も、今はもうどこかへ消えていた。
「エドワード殿下、そしてリリアナ様。お二人の輝かしい未来を、心よりお祈り申し上げます。これまで、ありがとうございました」
感情を消し去った声でそう告げると、わたくしはゆっくりと背を向け、逃げるように大広間を後にした。
背後で、殿下の勝ち誇ったような声と、貴族たちのひそひそ話が聞こえた気がしたが、もう振り返ることはなかった。
◇
公爵家の馬車の中は、氷のように冷え切っていた。
向かいに座る父と母は、一言も口を開かない。その沈黙が、どんな罵声よりも雄弁に彼らの怒りを物語っていた。
屋敷に帰り着くなり、父の書斎に呼びつけられた。
「この、役立たずめが!」
重厚な執務机を叩きつける音と共に、父の怒号が飛んでくる。
「我がアルクライド家の顔に泥を塗りおって! 一体どういうつもりだ! お前がもっと、殿下の気を引く努力をしていれば、こんなことにはならなかっただろう!」
「お父様、わたくしは……」
「言い訳は聞きたくない! 妃教育にどれだけの金をかけたと思っている! 全て無駄になったではないか!」
母も、冷え冷えとした声で言葉を重ねる。
「本当に、情けない娘ですこと。リリアナ様のように、少しは愛嬌を振りまくことを覚えなさいと、あれほど言ったでしょうに」
違う。
お母様は、いつもおっしゃっていたではないか。
「公爵令嬢たるもの、男爵令嬢のような軽薄な真似をしてはいけません」と。
言いたいことは喉まで出かかっているのに、声にならない。
幼い頃から刷り込まれた「親の言うことは絶対」という呪縛が、わたくしの体を金縛りのように縛り付けていた。
「いいか、アリス。お前はもう、アルクライド家の令嬢ではない。いや、籍は残してやる。だが、二度と表舞台に出ることは許さん。北の塔の離れで、死んだように静かに暮らすがいい」
北の塔。
それは、かつて公爵家で罪を犯した者が幽閉されたという、曰く付きの古い塔だった。
「それが、我が家への最大の貢献だ。分かったな」
有無を言わさぬ父の言葉に、わたくしはただ、力なく頷くことしかできなかった。
与えられたのは、塔の最上階にある、埃っぽい小さな一部屋。
窓の外には、手入れのされていない荒れた庭が広がるだけ。
食事は一日一回、メイドが扉の前に無言で置いていく硬いパンと冷たいスープのみ。
まるで、囚人のような生活だった。
けれど、不思議と涙は出なかった。
心が、あまりにも冷え切ってしまって、何も感じなくなってしまったのかもしれない。
(わたくしは、価値のない人間……)
誰からも必要とされず、誰からも愛されない。
ただ息をしているだけの、空っぽの存在。
ベッドに倒れ込み、天井の染みをぼんやりと眺める。
これまでの人生は、一体何だったのだろう。
エドワード殿下の妃になる。
その、ただ一つの目的のために、わたくしは全てを捧げてきた。
好きだった、古い本を読むことも。
夢中になった、古代文字の解読も。
「そんなものは妃に必要ない」
その一言で、全て取り上げられた。
代わりに与えられたのは、膨大な量の妃教育の課題。
こなしてもこなしても、褒められることはない。
できて当たり前。できなければ、叱責される。
そうやって、わたくしは「アリス・フォン・アルクライド」という個性を、少しずつ削り取られていったのだ。
(もう、疲れた……)
意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。
このまま、眠るように消えてしまえたら、どれだけ楽だろうか。
そんな絶望の底で、ふと、脳裏に一つの記憶が蘇った。
それは、まだ幼かった頃。
父の書斎からこっそり持ち出した、一冊の古びた魔導書。
そこに描かれていた、複雑で、美しく、そして謎に満ちた古代魔術の魔法陣。
意味も分からないのに、なぜか心が惹きつけられて、夢中でノートに書き写した。
あの時だけは、他の誰でもない、「わたくし」でいられた気がした。
(……古代、魔術)
そうだ。
全てを失った今なら。
誰の目も気にしなくていい、この場所なら。
もう一度、あの世界に触れることができるかもしれない。
それは、深い絶望の闇の中に差し込んだ、ほんの、ほんの僅かな光の筋だった。
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