memory 9 身体が覚えている
## memory 9 身体が覚えている
街道は、あまりにも整いすぎていた。
石畳は欠けもなく、路肩の草は均一な高さで刈り揃えられている。王都と次の町を結ぶ主要路――そう説明されれば納得できる光景のはずだった。
だが、アズルは歩き始めてすぐに違和感を覚えた。
静かすぎる。
風は吹いている。木々は揺れ、遠くで鳥の羽音も聞こえる。それなのに、街道そのものが“使われていない”。
馬車の轍はある。だが古い。重なっていない。人の足跡も、途中で途切れるように消えている。
――ここを、最後に通ったのはいつだ?
考えた瞬間、胸の奥がざらりとした。
答えが出ないのに、身体だけが「知っている」と主張してくる。背中の筋肉が無意識に引き締まり、呼吸が浅くなる。
「……この道」
言葉にしようとして、アズルは止めた。
知っている“気がする”。だが、それ以上は何も浮かばない。思い出そうとした途端、霧がかかったように意識が滑る。
背中で二本の剣が、小さく擦れ合った。
青い剣。いつも通り、手に馴染む重さ。
そして黒い剣。予備だと自分に言い聞かせているそれは、歩いているだけで存在感を主張してくる。まるで、こちらの背骨に沿って“重さ”を染み込ませてくるみたいに。
隣を歩くヴェールが、そっとこちらを見る。
「アズル、肩……また固い」
「大丈夫だ」
答えたつもりなのに、声が乾いていた。
ヴェールは心配そうに眉を寄せ、少しだけ距離を詰めてくる。彼女が近づくと、柔らかな香りと温度がふわりと寄った。
ふいに、胸元の緑の布が揺れ、視界の端で“存在感”が主張する。アズルは反射的に目を逸らし、代わりに遠くの木立を凝視した。
「……?」
ヴェールが首を傾げる。
「いや、なんでもない」
後ろから、ルージュの小さな笑い声。
「ふーん? 今の、絶対“なんでもない”じゃない顔」
「ルージュ……」
「安心しなさい。私は見てない。見てないけど――見なくても分かることってあるのよね」
からかう声は軽い。だが、その軽さが街道の静けさに吸い込まれていく。
ノワールは少し先を歩き、周囲を観察していた。振り返らず、淡々と告げる。
「会話の音が、森に届いていない。反響が薄い」
「反響?」
「普通なら、石畳の上の足音はもっと返ってくる。……空気が吸収してる」
空気が吸収する。
言葉にした瞬間、アズルの喉の奥が冷えた。
まるで世界が、音も感情も“角を丸めて”飲み込んでいる。
しばらく進んだところで、空気が変わった。
森が街道に近づき、影が濃くなる。その境界線に――それは立っていた。
ゴブリンに似た魔物。背丈は低く、痩せている。武器らしい武器も持っていない。
だが、こちらを見ている。
敵意はない。殺気もない。ただ、道の中央に立ち尽くしているだけだ。
それでも、アズルの足は止まらなかった。
考える前に、身体が前に出る。
剣が鞘から抜ける音が、やけに大きく響いた。
踏み込み。斬撃。
剣筋は迷いなく、最短距離を通って魔物の胴を断つ。力の配分、角度、速度――すべてが最適だった。
魔物は悲鳴を上げなかった。
倒れ、霧のように消える直前、微かな感情だけが残る。
――終われた。
そんな安堵に似た感覚。
切り落とされたはずの敵意や恐怖がなく、代わりに「解放」が浮かぶ。そのことが、アズルの胃の奥をきしませた。
「……今の」
ヴェールが眉をひそめる。指先が小さく震え、精霊に触れようとする癖が出かけて、途中で止まった。
「この子、戦う理由を忘れてた」
その言葉が、妙に胸に残った。
進むにつれ、魔物は増えた。
二体、三体。いずれも似たような存在で、攻撃の意思は薄い。ただ、街道を塞ぐように現れる。避けようとすれば、どこかから同じような個体が現れて、同じ位置に立つ。
「……誘導されてる?」
ルージュが指先で空をなぞり、薄い結界を張る。
視界がほんの少し澄む。途端に、空気の“粘り”が分かった。透明な膜が街道の上を薄く覆い、進む方向を決めている。
「道が、勝手に“まっすぐ”になってる」
ルージュの声が低くなる。
「まっすぐ?」
「逃げ道を消すんじゃない。逃げ道の“意味”を薄くする。気づいたら同じ場所に戻ってる……そういう類」
ノワールが頷く。
「節点だ。ここは、歪みが集まっている」
言葉が出た瞬間、魔物たちが一斉に動いた。
今度は、足が速い。
石畳を蹴る爪の音が、こちらの鼓膜に届く直前で消える。音が消えるのに、衝撃だけが残る。矛盾した感覚が、アズルの平衡感覚を揺らした。
――来る。
身体が先に叫ぶ。
アズルは半歩引き、斜めに踏み込んだ。
青い剣が弧を描く。
一体。首が落ちる。血は出ない。霧になる。
二体目。横薙ぎを受け流し、柄で顎を打ち上げ、落ちたところを突き刺す。
効率の良い動き。
なのに、胸の奥が苛立つ。
――もっと、違うやり方がある。
その“違うやり方”の影が、背中の黒に触れようとする。
黒い剣。
予備のはずのそれに、手が伸びる。
触れた刹那、胸が締め付けられた。
重い。
物理的な重量ではない。握った途端、記憶の底から何かが浮かび上がりそうになり、同時に強烈な拒否感が走る。
――出すな。
誰かの声のような感覚だけが、はっきりとあった。
心臓が一拍遅れ、次の拍動で喉が痛む。
アズルは歯を食いしばり、手を離す。
代わりに青い剣を振るった。
動きは鈍らない。だが、効率が悪い。魔物を倒すまでに、ほんの僅かな無駄が生じる。
その“僅か”が、数が増えるほど命取りになる。
「アズル!」
ヴェールの声。
横から迫った一体を、ヴェールの風の精霊が弾く。透明な圧が空気を割り、魔物の身体が石畳に叩きつけられる。
だが、精霊の力がいつもより弱い。押し返す力が途中で薄まり、弾ききれない。
ヴェールが息を呑む。
「精霊が……近づけない」
その背中を、ルージュが支えるように回り込んだ。
「なら、私が道を作る」
ルージュの結界が広がる。赤い光は派手ではない。薄い膜となって視界の端に張り付き、世界の“丸め込み”に抵抗する。
ノワールは短剣を抜き、影のように消えた。
次の瞬間、魔物の足首が切れて崩れる。動きが鈍ったところを、アズルがまとめて薙ぐ。
連携が噛み合う。
噛み合うのに、アズルの中で何かが欠けている。
「……アズル」
ノワールが、戦闘の合間に冷静に言う。
「今の動き、片手前提じゃない」
「……?」
意味が分からない。
分からないのに、否定できない。
アズルの足運びは、何度も“空の左手”を使う前提で組み立てられている。右手の剣が斬る瞬間、左肩が僅かに沈み、腰が逆方向に切れる。
本来そこに、もう一本の刃がある――そうでなければ説明できない。
最後の一体を倒した。
霧が消え、街道は再び静かになった。
だが、その静けさは先ほどとは質が違う。
耳が詰まったような沈黙ではなく、世界の“余計な成分”だけが抜け落ちた静けさ。
先に、何かがある。
そう確信したところで、道が歪んでいるのが見えた。
地図にはない分岐。石畳は途中から波打ち、色も古い。ひび割れの形が、文字に見えそうで見えない。
空気が冷たい。だが、不快ではない。
むしろ、肌に触れる温度が“均一”すぎて気持ち悪い。冷たいはずなのに、寒くない。暑いはずなのに、汗が引かない。
精霊の気配が、遠い。
「……おかしい」
ヴェールが珍しく、はっきりとした不安を滲ませる。
「ここ、“悲しみ”がない」
「悲しみ……?」
「うん。嬉しいも、怖いも、怒りもあるのに……悲しみだけが、すっぽり抜けてる」
ヴェールの言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
だが、アズルは知っている。
悲しみがない世界は――壊れる。
何が壊れるのかまでは思い出せないのに、胃の底が冷えていく。
分岐の先、崖下に見えたのは半ば埋もれた構造物だった。
ダンジョン。
古い石で作られた入口。苔が覆い、土に押しつぶされ、片側は崩れている。
看板も碑文もない。危険を示す印すら存在しない。
ただ、入口だけが口を開けている。
――ここで、何かが終わった。
理由は分からないのに、そんな感覚だけが胸に落ちてきた。
ルージュが周囲を見回し、唇を噛む。
「王国の地図にない場所よ」
「つまり、隠されてる?」
「隠したというより……最初から“なかったこと”にされてる感じ」
ノワールが淡々と補足する。
「記録がないのは珍しい。街道の整備だけが過剰だ。ここへ導くための整備……そう考える方が自然」
導く。
誰が。
何のために。
答えは出ない。
それでも、アズルは目を逸らせなかった。
背中の黒い剣が、微かに震えている。
震えは怒りではない。警告でもない。
――帰ってきた。
そんな、迎えられているような感覚。
ヴェールが、そっとアズルの袖を掴んだ。
「アズル。……怖い?」
問いは、優しい。
アズルは首を横に振ろうとして、止めた。
「分からない」
正直な言葉が出た。
怖いのかもしれない。懐かしいのかもしれない。あるいは、両方。
ヴェールは袖を掴んだまま、少しだけ頬を寄せる。あたたかさが、確かに伝わってくる。
「じゃあ、分からないまま一緒に行こう」
ルージュが肩をすくめる。
「……はいはい。いい雰囲気は後でね。中で“何か”に噛まれたら台無しだし」
「ルージュ」
「だって。見張り役としては心配なのよ」
冗談めかした口調の奥に、ほんの少しだけ硬さが混じる。
ノワールは帳面を開き、ページを新しくした。
「節点確認。位置は不明。気配の特性――感情の偏り。精霊反応の低下。魔物の敵意希薄」
淡々と記録する音が、やけに現実味を帯びた。
誰も「入ろう」とは言わなかった。
だが、全員が同時に一歩、前に出る。
入口の闇が、口を開ける。
踏み込んだ瞬間、視界が白く弾けた。
血の匂い。
鉄と土と、熱。
祈りの声。
泣き声。
怒号。
そして――白い背中。
髪か、衣か、光か。判別できないのに、そこに“意志”だけがあると分かる。
アズルは反射的に手を伸ばし、掴み損ねた。
幻は一瞬で消え去り、代わりに残るのは確信だけ。
「……ここで、俺は剣を振った」
理由は思い出せない。
だが、身体だけが覚えている。
胸の奥で、黒い剣が低く鳴った。
それは音ではなく、骨に伝わる震え。
ヴェールが小さく息を呑む。
「……呼ばれてる」
ルージュが舌打ちを飲み込み、結界を強める。
ノワールは影を足元に落とし、いつでも消えられる構えを取る。
アズルは、青い剣の柄を握り直した。
手のひらに馴染むはずの感触が、今日だけは少し頼りない。
もう一本。
背中の黒へ意識が向かう。
だが、今はまだ抜かない。
抜いた瞬間、何かが戻る。
戻ってしまえば、今の自分は壊れるかもしれない。
それでも――。
足は前へ出た。
ダンジョンの闇が、静かに彼らを迎え入れた。




