memory 8:語られなかった報告
### memory 8:語られなかった報告
町を覆っていた違和感は、朝になると綺麗に畳まれていた。
人々は普段通りに働き、笑い、昨日の出来事を話題にすることはない。
水桶を運ぶ音、畑を耕す鍬の音、店先で交わされる短い世間話。
すべてが整っていて、平和で――そして、どこか不自然だった。
まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
アズルは宿屋の窓から町を見下ろし、小さく息を吐いた。
この静けさを守るために、自分は何を語らずに済ませようとしているのか。
*
宿屋の一室。
簡素な机の上に、王国式の報告書が広げられていた。
定型文、報告項目、署名欄。
そこには感情も、迷いも、疑問も書き込む余地はない。
アズルは椅子に腰掛け、白紙に近いその書面を見つめている。
書けることはある。
だが、書いていいことは少ない。
——この町は平和である。
——小規模な体調不良は確認されたが、反乱・魔物の兆候はなし。
それだけで、十分だった。
それだけで、町は守られる。
……本当に、それでいいのか。
ペンを取ろうとして、指が止まる。
書かないという選択は、決して軽くない。
そのとき――
――こんこん。
控えめなノックが扉を叩いた。
「アズルさん、入ってもいいですか?」
聞き覚えのある、柔らかな声。
「ヴェール?」
「はい」
返事を待たず、扉が開く。
ヴェールは湯気の立つ木杯を二つ抱えていた。
湯気と一緒に、ほのかな薬草の香りが部屋に広がる。
「精霊が言ってたんです。アズルさん、朝からずっと考え事してるって」
「……精霊、そんなことまで分かるのか」
「分かります。だって、近くにいると落ち着かなくなるから」
そう言って、彼女は当然のように部屋へ入ってきた。
——近い。
部屋が狭いせいもあるが、距離感がおかしい。
「ほら、どうぞ」
ヴェールは木杯を差し出し、そのままアズルの横に腰を下ろす。
肩が触れ、体温が伝わる。
「……近くないか?」
「そうですか?」
首を傾げるヴェール。
その拍子に、柔らかな感触が腕に当たる。
アズルは反射的に背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫だ」
「よかったです」
全然分かっていない。
ヴェールは湯を一口飲み、ふうっと息を吐いた。
「報告書、難しそうですね」
「……ああ」
「正しいこと、書けそうですか?」
その問いに、アズルは言葉を失う。
「正しい、か……」
ヴェールは机の上を覗き込み、さらに身を乗り出した。
その動きに合わせて、距離が一気に縮まる。
「空白が多いですね」
「書けないことが多い」
「じゃあ、書かなくていいんじゃないですか?」
あまりにもあっさりした言葉。
アズルは思わず彼女を見る。
「……それでいいのか」
「分かりません」
即答だった。
「精霊にも、正解は分からないみたいです。でも……」
ヴェールは少しだけ視線を伏せる。
「アズルさんが、苦しそうなのは分かります」
そう言って、彼女は無意識に身を寄せた。
——完全に当たっている。
アズルは限界だった。
「ヴェール、少し離れてくれ」
「え?」
「その……色々と……」
「?」
まったく伝わっていない。
そのまま、ヴェールは机の上の書面に視線を戻す。
「書かないのは、嘘ですか?」
「……分からない」
「でも、忘れるわけじゃないんですよね」
アズルは、はっとする。
「……ああ」
「だったら、大丈夫です」
ヴェールは微笑んだ。
「アズルさんが覚えているなら、精霊も、いつか思い出します」
その無邪気な信頼が、胸に刺さる。
アズルは思わず、ヴェールの頭に手を置いていた。
「……ありがとう」
「ひゃっ」
ヴェールが驚いた声を上げる。
「な、なにするんですか」
「いや……すまない」
慌てて手を引っ込めると、ヴェールは少し頬を赤らめた。
「……嫌じゃ、ないですけど」
ぼそりとした呟き。
アズルの思考が一瞬止まる。
「今、なんて?」
「な、なんでもありません!」
ヴェールは立ち上がり、誤魔化すように笑った。
「えっと、ルージュさんたちも待ってると思います!」
そう言って、逃げるように部屋を出ていく。
扉が閉まり、静寂が戻った。
アズルは深く息を吐き、報告書に向き直る。
——書かない。
——だが、忘れない。
それが、今の自分にできる選択だった。
*
その日の午後、王国への報告は正式な使者によって送られた。
異常なし。
反乱の兆候なし。
視察は問題なく完了。
嘘は書いていない。
ただ、真実のすべてを書かなかっただけだ。
町を発つ準備をする中、ヴェールは時折こちらを見ては、すぐに視線を逸らしていた。
アズルが声をかけると、彼女は慌てて首を振る。
「な、なんでもありません!」
その様子に、ルージュがにやにやと笑い、
「はいはい、ごちそうさま」
と茶化す。
ノワールは何も言わず、ただ一度だけアズルに視線を向け、静かに頷いた。
*
町を離れる街道。
振り返れば、穏やかな家並みが夕日に照らされている。
誰もが守られ、誰もが何かを忘れている町。
アズルは、胸の奥で静かに誓った。
語らなかったことは、忘れたことじゃない。
これは、俺が引き受けた沈黙だ。
同じ道を、もう一度。
今度は、この選択を抱えたまま。




