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魔王を倒した後に始まる物語  作者: nime


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memory 8:語られなかった報告

### memory 8:語られなかった報告


 町を覆っていた違和感は、朝になると綺麗に畳まれていた。

 人々は普段通りに働き、笑い、昨日の出来事を話題にすることはない。

 水桶を運ぶ音、畑を耕す鍬の音、店先で交わされる短い世間話。

 すべてが整っていて、平和で――そして、どこか不自然だった。


 まるで、最初から何も起きていなかったかのように。


 アズルは宿屋の窓から町を見下ろし、小さく息を吐いた。

 この静けさを守るために、自分は何を語らずに済ませようとしているのか。



 宿屋の一室。

 簡素な机の上に、王国式の報告書が広げられていた。

 定型文、報告項目、署名欄。

 そこには感情も、迷いも、疑問も書き込む余地はない。


 アズルは椅子に腰掛け、白紙に近いその書面を見つめている。

 書けることはある。

 だが、書いていいことは少ない。


 ——この町は平和である。

 ——小規模な体調不良は確認されたが、反乱・魔物の兆候はなし。


 それだけで、十分だった。

 それだけで、町は守られる。


 ……本当に、それでいいのか。


 ペンを取ろうとして、指が止まる。

 書かないという選択は、決して軽くない。


 そのとき――


 ――こんこん。


 控えめなノックが扉を叩いた。


「アズルさん、入ってもいいですか?」


 聞き覚えのある、柔らかな声。


「ヴェール?」


「はい」


 返事を待たず、扉が開く。


 ヴェールは湯気の立つ木杯を二つ抱えていた。

 湯気と一緒に、ほのかな薬草の香りが部屋に広がる。


「精霊が言ってたんです。アズルさん、朝からずっと考え事してるって」


「……精霊、そんなことまで分かるのか」


「分かります。だって、近くにいると落ち着かなくなるから」


 そう言って、彼女は当然のように部屋へ入ってきた。


 ——近い。


 部屋が狭いせいもあるが、距離感がおかしい。


「ほら、どうぞ」


 ヴェールは木杯を差し出し、そのままアズルの横に腰を下ろす。

 肩が触れ、体温が伝わる。


「……近くないか?」


「そうですか?」


 首を傾げるヴェール。

 その拍子に、柔らかな感触が腕に当たる。


 アズルは反射的に背筋を伸ばした。


「だ、大丈夫だ」


「よかったです」


 全然分かっていない。


 ヴェールは湯を一口飲み、ふうっと息を吐いた。


「報告書、難しそうですね」


「……ああ」


「正しいこと、書けそうですか?」


 その問いに、アズルは言葉を失う。


「正しい、か……」


 ヴェールは机の上を覗き込み、さらに身を乗り出した。

 その動きに合わせて、距離が一気に縮まる。


「空白が多いですね」


「書けないことが多い」


「じゃあ、書かなくていいんじゃないですか?」


 あまりにもあっさりした言葉。


 アズルは思わず彼女を見る。


「……それでいいのか」


「分かりません」


 即答だった。


「精霊にも、正解は分からないみたいです。でも……」


 ヴェールは少しだけ視線を伏せる。


「アズルさんが、苦しそうなのは分かります」


 そう言って、彼女は無意識に身を寄せた。


 ——完全に当たっている。


 アズルは限界だった。


「ヴェール、少し離れてくれ」


「え?」


「その……色々と……」


「?」


 まったく伝わっていない。


 そのまま、ヴェールは机の上の書面に視線を戻す。


「書かないのは、嘘ですか?」


「……分からない」


「でも、忘れるわけじゃないんですよね」


 アズルは、はっとする。


「……ああ」


「だったら、大丈夫です」


 ヴェールは微笑んだ。


「アズルさんが覚えているなら、精霊も、いつか思い出します」


 その無邪気な信頼が、胸に刺さる。


 アズルは思わず、ヴェールの頭に手を置いていた。


「……ありがとう」


「ひゃっ」


 ヴェールが驚いた声を上げる。


「な、なにするんですか」


「いや……すまない」


 慌てて手を引っ込めると、ヴェールは少し頬を赤らめた。


「……嫌じゃ、ないですけど」


 ぼそりとした呟き。


 アズルの思考が一瞬止まる。


「今、なんて?」


「な、なんでもありません!」


 ヴェールは立ち上がり、誤魔化すように笑った。


「えっと、ルージュさんたちも待ってると思います!」


 そう言って、逃げるように部屋を出ていく。


 扉が閉まり、静寂が戻った。


 アズルは深く息を吐き、報告書に向き直る。


 ——書かない。

 ——だが、忘れない。


 それが、今の自分にできる選択だった。



 その日の午後、王国への報告は正式な使者によって送られた。


 異常なし。

 反乱の兆候なし。

 視察は問題なく完了。


 嘘は書いていない。

 ただ、真実のすべてを書かなかっただけだ。


 町を発つ準備をする中、ヴェールは時折こちらを見ては、すぐに視線を逸らしていた。


 アズルが声をかけると、彼女は慌てて首を振る。


「な、なんでもありません!」


 その様子に、ルージュがにやにやと笑い、


「はいはい、ごちそうさま」


 と茶化す。


 ノワールは何も言わず、ただ一度だけアズルに視線を向け、静かに頷いた。



 町を離れる街道。


 振り返れば、穏やかな家並みが夕日に照らされている。

 誰もが守られ、誰もが何かを忘れている町。


 アズルは、胸の奥で静かに誓った。


 語らなかったことは、忘れたことじゃない。


 これは、俺が引き受けた沈黙だ。


 同じ道を、もう一度。


 今度は、この選択を抱えたまま。


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