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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 63 帰る場所を背に、進む

# memory 63 帰る場所を背に、進む


 村の音が消えるのは、思ったより早かった。


 最初は、まだ聞こえていた。


 子どもの笑い声。


 水路のせせらぎ。


 誰かが鍋を叩く音。


 風に混じる煙の匂い。


 それらが背中の方に残り、森の葉の擦れる音と混ざっている間は、まだ「歩いているだけ」で済んでいた。


 だが、一本目の大きな木を曲がった瞬間。


 村の生活音が、すっと途切れた。


 切れたというより、届かなくなった。


 届かなくなっただけなのに、胸の奥が軽くなる。


 軽くなるのに、同時に重くなる。


 矛盾が、また戻ってきた。


 ヴェールは歩きながら、足首に巻いた布の感触を確かめた。


 痛みはある。


 あるのに、悪化しない。


 昨日までの痛みは、旅の痛みだった。


 今日の痛みは、選択の痛みだ。


 選択は目に見えない。


 だから痛みが、身体のどこかに宿る。


 アズルは少し前を歩いていた。


 剣は腰にある。


 だが、手は一度も触れていない。


 剣を抜かないことが、ここでは「普通」になっている。


 境界で学んだ普通。


 精霊の村でも、剣は不要だった。


 不要だったから、余計に剣が重かった。


 ルージュは右側を歩き、何度も木々の隙間から空を見上げている。


 結界のない空。


 守られていないのに、落ち着いていた空。


 さっきまでの空が、まだ瞳の奥に残っているのだろう。


 ノワールは最後尾。


 手帳は閉じたまま。


 閉じたままなのに、彼女の視線は忙しい。


 記録ではなく、覚えるための視線。


 森は揺れている。


 揺れているだけで、押し出してこない。


 境界の揺れは、こちらの足場を削った。


 精霊の森の揺れは、こちらの呼吸を整えた。


 そして今、村を離れた森の揺れは、ただの自然に戻っていく。


 温度が、少しずつ均される。


 匂いが、少しずつ雑多になる。


 それが「外」だ。


 外は、完成していない。


 完成していないから、進まなければならない。


 進まなければ、何も起こらない。


 進めば、余計なことも起こる。


 ヴェールは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 さっきのことが、遅れて襲ってくる。


 キス。


 言葉。


 責任。


 思い出すと、頬が熱くなる。


 熱くなるのに、歩みは止めない。


 止めたら、あの選択が嘘になる。


 森を抜けるまでの間、誰も多くを話さなかった。


 沈黙は重くない。


 ただ、言葉を置く場所がない。


 言葉を置けば、村の温かさが落ちてしまいそうだった。


 落ちれば、後悔になる。


 後悔は、まだ早い。


 昼に近づくころ、森の匂いがまた変わった。


 土の匂いに、人の匂いが混じる。


 木の皮を削った匂い。


 薪を積んだ匂い。


 遠くで金属が触れる音。


 小さな人工の音が、森の中へ漏れてきた。


 道が少し広くなる。


 轍の跡が見える。


 切り株がある。


 枝に結ばれた布切れが、目印として揺れている。


 精霊の村には、目印がいらなかった。


 ここには必要だ。


 必要だから、人は結ぶ。


 結ぶという行為は、便利だ。


 便利は、管理にもつながる。


 ルージュが足を止め、布切れを見た。


 指先で触れ、すぐに離す。


「……こういうの、嫌いじゃないけど」


 独り言みたいに言う。


 誰も返事をしない。


 返事をすれば、結界の話に繋がってしまう。


 まだ早い。


 森が完全に薄くなり、木々の間が明るくなった。


 そこから先に、開けた土地が見えた。


 畑。


 人の手が入った畑。


 それだけで、空気が変わる。


 精霊の村の空気ではない。


 生活の匂いは似ているのに、温度が違う。


 ここは、守られていない。


 守られていないというより、守られ方が均一じゃない。


 家ごとに違う。


 人ごとに違う。


 それが外の雑多さ。


 雑多さは、不便だ。


 不便だから、工夫が生まれる。


 工夫は、時に管理になる。


 アズルは畑の端に立ち、遠くを見る。


 石の道が、薄く伸びている。


 人の生活圏に戻ってきた証拠。


 ヴェールはその横顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。


 村に残ってほしいと言った自分。


 言った瞬間の沈黙。


 抱き寄せられた温度。


 思い出す。


 思い出すほど、恥ずかしくなる。


 恥ずかしいのに、後悔はない。


 後悔がないことが、少し怖い。


 ヴェールは息を吸い、ぼそっと言った。


「……さっきのこと、忘れてください」


 声は小さい。


 小さすぎて、風に消えそう。


 アズルは一瞬だけ歩みを緩めた。


 すぐに返事をしない。


 沈黙が長くなると、ヴェールは自分で言った言葉を後悔しそうになる。


 だが、アズルは淡々と答えた。


「無理だな」


 短い。


 短いのに、逃げ道がない。


 ヴェールの頬が熱くなる。


「……っ」


 言葉にならない。


 それを見て、ルージュが視線だけで笑う。


 笑っているのに、からかいではない。


 昨日の宿の夜とは違う。


 ここは屋根がない。


 だから軽口も、限界がある。


 ノワールが後ろから、ぽつり。


「記録しない」


 それは宣言というより、確認だった。


 ヴェールは恥ずかしさに耐えられず、話題を変える。


「……村、戻れるって言われました」


 言った瞬間、胸が少しだけ痛む。


 戻れる。


 戻れる場所がある。


 それは救いだ。


 救いは、同時に鎖になる。


 アズルは歩きながら、頷いた。


「戻れる場所があるのは、いい」


 それ以上言わない。


 評価もしない。


 安心させる言葉も足さない。


 それがアズルのやり方だ。


 ヴェールはそのやり方が、少しだけ好きになってしまっている。


 好きになってしまっていることが、また恥ずかしい。


 ルージュが空を見上げ、低く言う。


「精霊の村は……守ってなかった」


 言葉を選びながら。


「守ってないのに、安定してた」


 そこで息を吐く。


「でも、これから向かう場所は……たぶん、守りすぎてる」


 結界村。


 ルージュの故郷。


 守られた場所。


 守られた場所は、外を恐れる。


 外を恐れるから、囲う。


 囲うから、内側は安全になる。


 安全になるほど、外は未知になる。


 未知は恐怖になる。


 恐怖は管理になる。


 境界とは違う形の危険。


 ヴェールはその言葉を聞いて、足首の痛みが少しだけ増すのを感じた。


 痛みは、未来の予兆みたいだった。


 ノワールが手帳に指を置き、開くか迷う。


 迷いながら、結局開かない。


 代わりに、言う。


「今は、残さないと消える」


 誰に向けた言葉かはわからない。


 村の記憶。


 決断の記憶。


 それらは、残そうとすれば歪む。


 残さなければ消える。


 消えるのは、救いでもある。


 だが、全部消えたら、また同じことを繰り返す。


 ノワールはその中間を探している。


 選んで残す。


 選んで消す。


 それもまた、旅のやり方だ。


 日が傾き始めたころ、四人は森から完全に出た。


 開けた土地。


 道の端に、小さな石の標が立っている。


 誰かの手で削られた印。


 王都のような立派な道標ではない。


 だが、確かに人の生活の中で使われている。


 今日は屋根のある場所には辿り着けなかった。


 野営になる。


 火は小さく。


 薪を少しだけ。


 火の匂いが夜に溶ける。


 夜の冷えが戻ってくる。


 ヴェールは火の近くに座り、膝を抱えた。


 眠れるかどうかわからない。


 だが、村を夢に見る気はしなかった。


 夢に見ないということは、忘れるということではない。


 ただ、今は前を向いている。


 アズルは剣を抱えず、地面に置いた。


 置くことで、剣がただの道具になる。


 ただの道具に戻ると、剣は少し軽く見える。


 ルージュは火を見ながら、静かに呟いた。


「結界村……入れてもらえるかしら」


 問いは軽い。


 しかし、その軽さは恐怖の裏返しだ。


 入れてもらえるかどうか。


 入れてもらえなければ、外だ。


 外は守られない。


 守られない世界を、彼らはもう知っている。


 ノワールが小さく頷く。


「入れてもらえないなら、入らないだけ」


 淡々と。


 淡々としているのに、強い。


 アズルは火を見たまま言う。


「入るかどうかも、選ぶ」


 その言葉が、境界の向こうで得たものだ。


 ヴェールはそれを聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 温かいのに、火の熱とは違う。


 選択の温度。


 夜が深まり、火が小さくなる。


 ヴェールは瞼を閉じた。


 眠りは浅い。


 けれど、夢は暗くなかった。


 朝。


 遠くに人工物が見えた。


 石の道。


 そして、見張り台の影。


 結界はまだ見えない。


 だが、守りすぎる場所の匂いが、風の向こうにある。


 ルージュがその方向を見て、息を吐く。


「……次は、入れてもらえるかどうか、ですね」


 四人は荷を背負い直し、歩き出した。


 村はもう背中にない。


 背中にないのに、帰る場所として胸の中に残っている。


 それを背負ったまま、彼らは進む。


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