memory 6:記録にない出来事
### memory 6:記録にない出来事
朝の光は、昨日と変わらず町を照らしていた。
空は澄み、風は穏やかで、家々の屋根に反射した光が道に落ちる。
——あまりにも、何事もなかったかのように。
アズルは宿屋の一階へ降り、広間をゆっくり見回した。朝食の匂い。食器の触れ合う音。笑い声。どれも平和そのものだ。
昨夜、行方不明になった少女ミラは、すでに家に戻ったと聞いている。
だが、その名を口にする者はいない。昨日の騒ぎを思わせる気配は、きれいに拭い去られていた。
「……静かすぎるな」
呟くと、近くの卓でパンを割っていた男が首を傾げた。
「何がだい?」
「いや、なんでもない」
男はそれ以上興味を示さず、再び食事に戻る。アズルは、その背中を見送りながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
ヴェールは窓際に立ち、目を閉じていた。朝の光が、胸元の青い刺繍をやさしく照らしている。
「精霊たちが……昨日のことを、覚えていません」
彼女の声は小さいが、確かな違和感を含んでいた。
「でも、不安は感じていないんです。むしろ……安心しているみたいで」
守られている。
その感覚だけが残り、理由が抜け落ちている。
アズルは背中に嫌な汗がにじむのを感じた。理由を知らない安心ほど、不安なものはない。
*
役場は町の中央にある質素な石造りの建物だった。朝だというのに人影は少ない。
ノワールは無言で書架を調べ、帳簿の背表紙を一つずつ指でなぞっていく。ルージュは机に積まれた書類を手早くめくっていた。
「……ないわね」
ルージュが低く呟く。
「昨日の件、どこにも書いてない」
ノワールが帳簿を閉じた。
「削除された形跡はありません。紙もインクも古いままです」
「つまり?」
「出来事として、ここには存在していない」
淡々とした言葉が、役場の空気を冷やす。
ルージュは別の紙束を引き寄せた。
「王国式の報告書よ。ほら、この項目」
指先が一行をなぞる。
「“民心の動揺を招く恐れのある事象は、原因を特定できない場合、省略可”……便利よね」
嘘ではない。
だが、書かれない真実が、確かに存在する。
「私、前から……こうしてたのかな」
自分に言い聞かせるような声だった。ノワールは何も言わず、ただ一度だけ視線を向ける。
*
町外れの道で、小さな騒ぎが起きていた。
「違うんだ、俺は——!」
中年の男が叫び、周囲の住民が慌てて腕を掴む。
「落ち着け」「思い出そうとするな」
その言葉に、アズルは足を止めた。
「終わったって、何がだ」
男は息を荒げ、混乱した目でアズルを見る。
「分からない……でも、胸が苦しくて……何か、大事なことを、捨てた気がして……」
忘れているのに、苦しい。
アズルは剣に手を伸ばさなかった。代わりに、男の視線と同じ高さにしゃがみ込む。
「無理に思い出さなくていい」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「でも、忘れたままで……納得できるか?」
男は唇を震わせ、言葉を失った。その場に崩れ落ち、周囲の人々が慌てて支える。
その瞬間、背中の黒い剣が、かすかに熱を帯びた。
空気が一瞬だけ張り詰める。
だが、青い剣は沈黙したままだ。
違う役割。
理由は分からないが、その感覚だけが、確かに残った。
*
騒ぎはやがて「体調不良」として処理された。住民たちは納得した顔で散り、町は再び穏やかさを取り戻す。
「……丸めたわ」
夕方、ルージュがぽつりと言った。
「王国への報告。問題なし、って」
誰も責めなかった。それが、この町を壊さない選択だと分かっているからだ。
ノワールは短く頷いた。
「記録も、その形で安定します」
安定。
その言葉が、アズルの胸に重く残る。
*
夜。
アズルは一人、町外れに立っていた。灯りは届かず、風の音だけが耳に残る。
——守られている。
——でも、何かが欠けている。
そのとき、空気がわずかに揺れた。色が滲み、輪郭が曖昧になる。
誰かが、触れたような感覚。
姿は見えない。だが、確かにそこに“意思”があった。
「……優しすぎるんだ」
守るために、忘れさせる。
平和のために、理由を消す。
それが本当に、正しいのか。
答えは出ない。
ただ、背中の二本の剣が、静かにそこにあった。
同じ道を、もう一度。
今度は、壊すためじゃない。
——引き受けるために。




