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魔王を倒した後に始まる物語  作者: nime


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memory 6:記録にない出来事

### memory 6:記録にない出来事


 朝の光は、昨日と変わらず町を照らしていた。

 空は澄み、風は穏やかで、家々の屋根に反射した光が道に落ちる。


 ——あまりにも、何事もなかったかのように。


 アズルは宿屋の一階へ降り、広間をゆっくり見回した。朝食の匂い。食器の触れ合う音。笑い声。どれも平和そのものだ。

 昨夜、行方不明になった少女ミラは、すでに家に戻ったと聞いている。

 だが、その名を口にする者はいない。昨日の騒ぎを思わせる気配は、きれいに拭い去られていた。


「……静かすぎるな」


 呟くと、近くの卓でパンを割っていた男が首を傾げた。


「何がだい?」


「いや、なんでもない」


 男はそれ以上興味を示さず、再び食事に戻る。アズルは、その背中を見送りながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。


 ヴェールは窓際に立ち、目を閉じていた。朝の光が、胸元の青い刺繍をやさしく照らしている。


「精霊たちが……昨日のことを、覚えていません」


 彼女の声は小さいが、確かな違和感を含んでいた。


「でも、不安は感じていないんです。むしろ……安心しているみたいで」


 守られている。

 その感覚だけが残り、理由が抜け落ちている。


 アズルは背中に嫌な汗がにじむのを感じた。理由を知らない安心ほど、不安なものはない。



 役場は町の中央にある質素な石造りの建物だった。朝だというのに人影は少ない。

 ノワールは無言で書架を調べ、帳簿の背表紙を一つずつ指でなぞっていく。ルージュは机に積まれた書類を手早くめくっていた。


「……ないわね」


 ルージュが低く呟く。


「昨日の件、どこにも書いてない」


 ノワールが帳簿を閉じた。


「削除された形跡はありません。紙もインクも古いままです」


「つまり?」


「出来事として、ここには存在していない」


 淡々とした言葉が、役場の空気を冷やす。


 ルージュは別の紙束を引き寄せた。


「王国式の報告書よ。ほら、この項目」


 指先が一行をなぞる。


「“民心の動揺を招く恐れのある事象は、原因を特定できない場合、省略可”……便利よね」


 嘘ではない。

 だが、書かれない真実が、確かに存在する。


「私、前から……こうしてたのかな」


 自分に言い聞かせるような声だった。ノワールは何も言わず、ただ一度だけ視線を向ける。



 町外れの道で、小さな騒ぎが起きていた。


「違うんだ、俺は——!」


 中年の男が叫び、周囲の住民が慌てて腕を掴む。


「落ち着け」「思い出そうとするな」


 その言葉に、アズルは足を止めた。


「終わったって、何がだ」


 男は息を荒げ、混乱した目でアズルを見る。


「分からない……でも、胸が苦しくて……何か、大事なことを、捨てた気がして……」


 忘れているのに、苦しい。


 アズルは剣に手を伸ばさなかった。代わりに、男の視線と同じ高さにしゃがみ込む。


「無理に思い出さなくていい」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「でも、忘れたままで……納得できるか?」


 男は唇を震わせ、言葉を失った。その場に崩れ落ち、周囲の人々が慌てて支える。


 その瞬間、背中の黒い剣が、かすかに熱を帯びた。


 空気が一瞬だけ張り詰める。


 だが、青い剣は沈黙したままだ。


 違う役割。

 理由は分からないが、その感覚だけが、確かに残った。



 騒ぎはやがて「体調不良」として処理された。住民たちは納得した顔で散り、町は再び穏やかさを取り戻す。


「……丸めたわ」


 夕方、ルージュがぽつりと言った。


「王国への報告。問題なし、って」


 誰も責めなかった。それが、この町を壊さない選択だと分かっているからだ。


 ノワールは短く頷いた。


「記録も、その形で安定します」


 安定。

 その言葉が、アズルの胸に重く残る。



 夜。


 アズルは一人、町外れに立っていた。灯りは届かず、風の音だけが耳に残る。


 ——守られている。

 ——でも、何かが欠けている。


 そのとき、空気がわずかに揺れた。色が滲み、輪郭が曖昧になる。


 誰かが、触れたような感覚。


 姿は見えない。だが、確かにそこに“意思”があった。


「……優しすぎるんだ」


 守るために、忘れさせる。

 平和のために、理由を消す。


 それが本当に、正しいのか。


 答えは出ない。


 ただ、背中の二本の剣が、静かにそこにあった。


 同じ道を、もう一度。


 今度は、壊すためじゃない。

 ——引き受けるために。


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