表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/73

memory 53 いない朝

## memory 53 いない朝


 朝は、何事もなかったように始まった。


 焚き火の跡はきちんと消えていて、夜露に濡れた地面には争った痕跡もない。誰かが慌てて立ち去った形跡も、足を引きずった跡も見当たらなかった。野営地は、ただ一晩分の時間だけが正しく流れたあとの姿を保っている。


 にもかかわらず――


 アズルは、目を開けた瞬間に理解していた。


 不安でも違和感でもない。


 ――数が、合わない。


 視界に入る荷物の配置、眠っていた位置、焚き火を囲む距離。どれもこれまでと同じなのに、一つだけ足りない。名前を呼ばずとも、理由を考えずとも、それだけははっきりしていた。


 静かだった。


 世界が静かなのではない。


 中心が静かになっている。


 いつも朝一番に感じていた、あの「そこにいる」気配がない。誰かが笑ったわけでも、泣いたわけでもないのに、気配だけが抜け落ちている。


 アズルは起き上がり、膝の上で指を握り込んだ。握れば、剣の柄に触れたくなる。いつもの習慣がそうさせる。


 だが、手はそこで止まった。


 抜く理由が見つからなかったからではない。


 抜かないことが、今は正しかった。


 彼は剣から手を離し、代わりに周囲を見回す。


 薪の束。水袋。乾いた布。小鍋。小さな袋にまとめられた薬草。どれも昨夜のまま整っている。盗られたものはない。荒らされた跡もない。


 それなのに、空いている。


 焚き火の輪の向こう、石の上。


 そこに、一枚の紙が置かれていた。


 封はされていない。重しもなく、風に飛ばされそうなほど軽いのに、朝の風は不思議とそれを動かしていなかった。魔法の気配はない。精霊の囁きもない。ただ、紙と、文字だけがそこにある。


 アズルはその紙に手を伸ばし、拾い上げる。


 紙は、少しだけ温かかった。夜の体温が、まだ残っているような、そんな感触だった。冷たい朝の空気の中で、そこだけが取り残されたみたいに。


 文字は簡素だった。飾り気も、言い訳もない。筆圧も揺れていない。乱れないように整えたのではなく、乱れる必要がなかったような文字。


 ――自分で選びました。


 それだけで、十分だった。


 続く文も短い。


 ――誰かのせいではありません。

 ――今は、一緒にいない方がいいと思いました。


 それ以上はない。


 理由は書かれていない。

 戻るとも、戻らないとも書かれていない。


 未来は固定されていなかった。


 アズルは紙を一度だけ読み、もう一度、目でなぞり直す。読み返したのではない。文字の形を確かめただけだ。


 そして折りたたむ。


 丁寧でもなく、乱暴でもなく、ただ紙として扱う。証拠としてしまうには、軽すぎた。追跡の目印にしてしまうには、強すぎた。


 彼はそれを自分の荷物にしまう。


 保管でも、追跡でもない。


 否定しないという行為だった。


 背後で、布擦れの音。


 ヴェールが起きたらしい。寝起きの髪を指で梳きながら、焚き火の跡を見て、空いた場所を見て、アズルの手元を見る。


 声は出さなかった。


 彼女の目が「分かった」と言った。


 アズルが手紙をしまい終えたところで、ヴェールが小さく息を吐く。


「……朝、ですね」


 それは挨拶にも、確認にも、祈りにも聞こえた。


 ヴェールはもう、精霊に何かを尋ねようとはしていなかった。問いかけても、答えが返ってこないことを、どこかで分かっている。あるいは、答えが返ってきたとしても、それを「正解」にしてしまう危険を知っている。


 彼女は地面に落ちていた小枝を拾い、折り、焚き火跡の灰を軽く崩した。消えている火を、もう一度「消す」仕草だ。


 ルージュが目を覚ましたのは、その少しあとだった。


 眠りが浅かったのか、すぐに状況を飲み込む。焚き火の輪を見て、空きを見て、アズルの表情を見て、そして――何も言わない。


 彼女は一度だけ唇を結び、口を開く。


「説明は、できるわ」


 言い終える前に、言葉の刃先を自分で折った。


 正解を出せる立場にいる。世界がどう調整され、何が起きたのかを、言葉にすることは可能だった。だが、彼女はそれをしなかった。ここで正解を出すことが、正しいとは限らないと、もう知っている。


「……いま欲しいのは、説明じゃない」


 そう言ったのはヴェールでもルージュでもなく、ノワールだった。


 彼女はすでに起きていた。気配の薄い目覚め方で、いつも通り、周囲を一瞥していた。


 ノワールの視線は地面へ落ちる。


 夜露の上に残る微かな足跡。草の倒れ方。石の移動。枝の擦れ。


 追える。


 判断は一瞬だった。


 追えないほど巧妙でもない。追うための痕跡をわざと残した、というほど意図的でもない。歩幅は小さく、急いだ形はない。


 だからこそ、追える。


 だからこそ、追えば追ってしまう。


 ノワールは地図を開かない。記録もしない。ペン先を宙で止め、そのまま地図を閉じた。


 紙の音が、やけに大きく聞こえた。


 誰も、「どうする?」とは言わなかった。


 話し合いは成立しなかったが、決断は一致していた。


 アズルは立ち上がる。


 剣は鞘に収まったまま。名を呼ばない。立ち止まらない。


 ただ一つだけ、彼は昨夜のことを思い出しそうになって、やめた。


 焚き火の向こうで、小さく笑った気配。


 湯気の立つ鍋を覗き込んで、手を伸ばして、指先を熱さに引っ込めた仕草。


 あの夜、世界は少しだけ「守られない」側に傾いていた。成功しすぎない、転ばなさすぎない、痛まなさすぎない。危険が危険として成立しそうな、ぎりぎりの線。


 その線の上で、彼女は何かを決めた。


 決めたことを、誰にも預けなかった。


 だから、いまここにいない。


 アズルは朝食の準備を始め、装備を整える。誰かが声を掛けることもなく、それぞれが自然に役割をこなす。まるで、これが最初から予定されていたかのように。


 ヴェールは水袋の口を結び直し、結び目を二重にした。


 ルージュは乾いたパンを割り、欠片が落ちないように掌で受けた。


 ノワールは周囲の警戒を続けながら、わざと足跡の方を見ないようにしていた。


 アズルは鍋に残った水を温めようとして、火がないことに気づく。


 昨夜、ちゃんと消した。


 当然だ。


 当然なのに、湯を沸かす手段を一瞬見失った自分に、彼は小さく息を吐いた。


 この朝は、今までの朝と同じではない。


 同じようにやれば同じように進む、という保証が消えている。


 それでも、やる。


 湯は沸かさず、冷えた水で喉を潤し、乾いたパンを噛む。味はしない。味がしないことを口にすれば、何かが始まってしまいそうで、誰も言わなかった。


 食事が終わり、布を畳み、荷をまとめる。


 そこで初めて、ヴェールが小さく首を傾げた。


「……一つ、余る」


 彼女が見ていたのは、木の杯だった。


 四つ持っていたはずの杯のうち、一つが置き去りになっている。置き去りにしたのか、置いていったのか。


 ヴェールはそれを手に取り、しばらく掌の上で転がした。


 杯は軽い。


 軽いのに、重い。


 ルージュが言いかけて、やめた。


 「持っていけば」と言えば、持っていってしまう。


 「置いていけ」と言えば、置いていってしまう。


 どちらも、誰かの選択を固定する。


 ヴェールは静かに杯を焚き火跡のそばへ置いた。


 置き方は丁寧だった。


 まるで、そこが「帰る場所」であるかのように。


 アズルはそれを止めなかった。


 止めないことが、いまの彼のやり方だった。


 空気が、少しだけ重くなっていた。


 風向きが定まらず、枝が不規則に揺れる。鳥の声が遠い。音が遠い、というより、世界が耳に届かせるものを選び直しているような感覚。


 足元の石がわずかに動き、ルージュが一度だけバランスを崩しかけた。


「っ……」


 小さな声。


 転びそうになる。転ばない。だが、転びそうになること自体が、これまでよりずっと珍しい。


 危険が、成立しかける。


 ノワールが一歩前へ出て、手を伸ばす。


 だが、触れる直前で止めた。


 助ければ助けるほど、世界は「助けることが前提」になってしまう。


 ルージュは自分で体勢を立て直し、息を吐いて笑いもしない。


「……ありがとう」


 言いかけた言葉が、喉の奥で引っかかって消えた。


 誰も責めない。


 誰も正さない。


 ただ、危険が危険として、そこにある。


 世界は、やさしさを調整し直している途中だった。


 境界の町へ戻るかどうかは、誰も口にしなかった。


 戻れば安全かもしれない。整った道があるかもしれない。説明が手に入るかもしれない。


 だが、そういうものほど疑う。


 アズルのルールは、いまも生きている。


 彼は先頭に立つが、号令はかけない。


 ヴェールが隣に並び、ルージュが少し後ろで歩き、ノワールが最後尾で静かに周囲を見張る。


 隊列が自然に決まることさえ、少し怖かった。


 自然に決まるものは、いつだって誰かの「守り」かもしれない。


 しかし、今日は違う。


 自然に決まるのは、ただ彼らが慣れているからだ。


 慣れは便利だが、危険でもある。


 それでも歩く。


 地図に載らない方向へ、自然と足が向く。境界地帯の外れ、名前のない場所。正解も、失敗も用意されていない道。


 途中、道が二つに分かれていた。


 片方は踏み跡が濃い。


 もう片方は、草が伸びている。


 いつもなら、踏み跡を選ぶのが「安全」だ。


 だが安全が安全とは限らない。


 アズルは立ち止まらず、草の方へ足を向ける。


 ヴェールも、ルージュも、ノワールも、何も言わずについてくる。


 誰かがそれを「正しい」と言ったわけではない。


 誰かがそれを「間違い」と言わなかっただけだ。


 少し歩くと、草の下に隠れた石があり、ヴェールが足を取られかけた。


 彼女は自分で踏ん張り、膝に泥をつける。


「……痛い」


 小さく言う。


 痛いと言える世界。


 痛いと言っても、世界が帳尻を合わせてくれない世界。


 アズルは振り返り、手を差し出す。


 引き上げるのではなく、差し出すだけ。


 ヴェールは一瞬迷って、自分で立ち上がり、その手には触れなかった。


 差し出された手を拒んだのでも、遠慮したのでもない。


 自分で立つことを、選んだ。


 アズルはその選択を壊さず、手を引っ込める。


 それでいい。


 それが、いま彼らが進むためのやり方だ。


 朝の光は、昨日より少し白い。


 遠くの山の輪郭が、妙にくっきりしている。くっきりしているのに、どこか現実感が薄い。輪郭があるだけで、中身がまだ定まっていないような。


 ノワールが一度だけ、肩越しに振り返った。


 そこには野営地がある。


 焚き火跡がある。


 杯がある。


 そして、彼らの数は三つだ。


 ノワールはそれ以上見ない。


 視線を前に戻す。


 アズルも前を見たままだ。


 彼の胸の中で、折りたたまれた紙が小さく擦れる。


 「自分で選びました」


 それは命令でも、頼みでもない。


 ただの事実だ。


 事実を受け取った以上、彼はそれを「取り戻す物語」にしない。


 助ける構図にしない。


 救出にしない。


 追跡劇にもしない。


 彼らは進む。


 守られないまま。


 選ばれないまま。


 そして、選ばないまま。


 それでも、誰も立ち止まらなかった。


 冒険は、続いてしまう。


 それが、今の世界だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ