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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 45 分からないまま、踏み出す

# memory 45 分からないまま、踏み出す


 森の中で、ノワールは立ち止まっていた。


 理由は単純だった。


 ――見えてしまう。


 足元の土に残る踏み跡。湿り具合の違い。葉の裏に残った泥の付き方。折れた枝の断面が新しいか古いか。空気の流れが、どこからどこへ向かっているか。


 それらが、勝手に意味を結び始める。


 誰が先に通り、誰が遅れ、どちらへ進み、どこで立ち止まったか。時間の流れが、頭の中で一本の線になる。


 ――これは、危ない。


 ノワールは即座にそう判断した。


 誘惑の森は、分からせない森だ。分からないから守られ、分からないから選び直せる。理解は刃で、整理は支配で、記録は固定だ。


 それを、彼女は誰よりも知っているはずだった。


 それでも、見える。


 記録用の紙も、ペンも、もう持っていない。装備は最小限。忍びとしての癖も抑えている。足音を殺し、痕跡を残さない歩き方すら、今は意識的にやめている。


 それなのに。


 情報が、向こうから飛び込んでくる。


 ノワールはしゃがみ込み、地面に指先で触れた。土は柔らかい。湿り気が強い。ここを通った者は、足を取られただろう。重心が前に流れ、速度を落としたはずだ。


 ――アズル。


 名前が、浮かびかける。


 ノワールはすぐに首を振った。


 違う。今は、名前を呼ばない。


 呼べば、輪郭が生まれる。


 輪郭が生まれれば、世界がそれを拾う。


 拾われた情報は、外へ運ばれる。


 運ばれた瞬間、ここは「場所」になる。


 場所になれば、管理できる。


 管理できるものは、捕捉される。


 ノワールは立ち上がり、わざと足跡を踏み荒らした。自分の痕跡で、他の痕跡を潰す。意味を上書きするのではなく、意味そのものを壊すために。


 忍びとしては、最悪の行為だ。


 だが、今はそれでいい。


 いい、というより、それしかない。


 進むにつれ、森の様子がおかしいことに気づく。


 足跡が、読みやすい。


 枝の折れ方が、素直だ。


 血の跡が、必要以上に語ってくる。


 まるで森が、情報を差し出しているみたいだった。


 ――使われている。


 ノワールは歯を噛みしめた。


 この森は、彼女を“観測者”として使おうとしている。理解する者に、世界を整理させようとしている。


 それは、親切だ。


 迷わずに済む。


 正しく判断できる。


 結果を予測できる。


 だからこそ、最悪だ。


 ノワールは歩きながら、頭の中に浮かぶ因果を一つずつ否定していった。


 この足跡は誰のものか。


 ――考えない。


 この血はどこで付いたのか。


 ――考えない。


 この枝はなぜ折れたのか。


 ――考えない。


 考えない、という行為は、想像以上に体力を使う。思考は勝手に走り出し、意味を結び、物語を作ろうとする。


 ノワールはそれを、一つずつ踏み潰した。


 足元で枝を折る。


 血痕を踏んで散らす。


 自分の足跡を重ねる。


 事実は消えない。


 だが、繋がらなければ意味にならない。


 意味にならなければ、固定されない。


 固定されなければ、世界は選び直せる。


 胸の奥で、かすかな痛みが生まれた。


 ――それでも、分かってしまう。


 否定しても、壊しても、全体像が浮かびかける。


 森の中に散らばる情報が、勝手に一枚の地図になろうとする。


 位置関係。


 時間差。


 進行方向。


 そして、合流点。


 ――揃う。


 その言葉が、喉の奥に引っかかった。


 ノワールは足を止め、深く息を吸った。


 揃うことは、救いじゃない。


 揃うことは、管理だ。


 管理は、優しい顔をして世界を殺す。


 彼女は理解している。


 理解しているからこそ、理解しない側に立たなければならない。


 頭の中に、一文が浮かんだ。


 ――彼らは、ここで再び揃う。


 その瞬間、森の空気が変わった。


 音が止まり、風が息を潜め、世界が“待つ”。


 ノワールは、はっきりと感じた。


 世界が、この一文を欲しがっている。


 書け、と。


 完成させろ、と。


 それを書けば、森は整う。


 整えば、管理できる。


 管理できれば、捕まえられる。


 ノワールは、唇を噛んだ。


 否定はしない。


 否定すれば、それもまた意味になる。


 だから、完成させない。


 ノワールは一歩、横へずれた。


 次に、後ろへ戻った。


 足跡を踏み潰し、枝を折り直し、血痕を擦って散らす。


 意図的に、情報を壊す。


 事実を消すのではない。


 意味を、繋がらなくする。


 頭の中の地図が、ぐにゃりと歪んだ。


 位置がずれる。


 時間が前後する。


 合流点が、霧に溶ける。


 同時に、強烈な不安が襲ってきた。


 ――分からない。


 自分が、どこにいるのか。


 どれくらい歩いたのか。


 何を目指しているのか。


 すべてが、曖昧になる。


 ノワールは膝をつき、土に手をついた。


 怖い。


 だが、この怖さは知っている。


 誘惑の森が、本来与えるべき恐怖だ。


 分からないから、怖い。


 怖いから、選べる。


 ノワールは立ち上がった。


 観測者としてではなく、参加者として。


 記録係としてではなく、一人の存在として。


 彼女は、進む。


 どこへかは、分からない。


 誰に近づいているのかも、分からない。


 それでいい。


 分からないまま、踏み出す。


 その選択だけが、今この森で許されている自由だった。


 自由。


 その言葉を思い浮かべた瞬間、ノワールは自分の胸が少しだけ軽くなるのを感じた。


 軽くなるのが、怖い。


 軽さは、油断に繋がる。


 油断は、刃になる。


 ――刃。


 かつて彼女は、刃を隠して持ち歩いていた。


 紙。


 インク。


 小さな記号。


 誰にも気づかれないように、けれど確実に世界へ刻むための道具。


 誘惑の森に入る前、彼女はそれを捨てた。


 捨てた、というより置いてきた。


 置いてきたはずだった。


 それなのに、今。


 道具がなくても、記録は始まる。


 視線が触れた瞬間、情報が並ぶ。


 並んだ瞬間、意味が生まれる。


 意味が生まれた瞬間、世界が「そうだ」と頷きたがる。


 ノワールは歩きながら、あえて視線を逸らした。


 足元の足跡を見ない。


 枝の折れ方を見ない。


 血の量を数えない。


 その代わりに、ただの色と形として受け取る。


 茶色。


 黒。


 赤。


 湿り。


 乾き。


 それだけ。


 意味にしない。


 意味にしなければ、物語にならない。


 物語にならなければ、固定されない。


 固定されなければ――選び直せる。


 選び直せる。


 その言葉は、どこかで聞いた気がした。


 誰の声だったか。


 思い出そうとすると、名前が浮かびそうになる。


 ノワールは唇を噛んだ。


 思い出さない。


 今は、思い出さない。


 森の道は、急に細くなった。


 両脇の木が近づき、枝が顔の高さをかすめる。湿った蔦が手首に絡みつき、剥がすたびに肌がひりつく。


 忍びなら、もっと静かに抜けられる。


 身を低くし、枝を避け、蔦を切り、足音を消して。


 だが、その技能を使うのもまた「整え」だ。


 整えれば、道は道になる。


 道になれば、誰かが辿る。


 辿れば、情報が繋がる。


 繋がれば、意味になる。


 意味になれば、固定される。


 固定されれば、捕まる。


 ノワールはあえて蔦に引っかかるまま進んだ。


 服が裂ける。


 肌が擦れる。


 痛い。


 痛いのに、安心した。


 痛みは、現実だ。


 現実は、選択の結果だ。


 誰かが与えた正しさではない。


 彼女はそう思いながら、指先で血の滲みを拭い、土に擦りつけた。


 痕跡を消すためではない。


 痕跡を「意味」にさせないため。


 濃い赤は目を引く。


 目を引けば、誰かが覚える。


 覚えれば、刃になる。


 ノワールは赤を薄め、茶色に混ぜた。


 土の色に戻す。


 世界に戻す。


 戻す、という言い方が、どこか優しすぎて苦い。


 森の奥から、かすかな音がした。


 水音ではない。


 枝の折れる音でもない。


 もっと硬い。


 一定の間隔。


 数えられる。


 ノワールの背筋が冷えた。


 数えられる音は、整った世界の音だ。


 ――外縁。


 ヴェールが見かけ、引き返した光。


 ルージュが匂いだけで理解した乾いた空気。


 そこへ繋がる何かが、今この森の中にも混じっている。


 ノワールは、音の方向を見ない。


 見れば、距離が測れる。


 距離が測れれば、位置が定まる。


 位置が定まれば、地図が完成する。


 完成した地図は、刃になる。


 それでも、音は近づく。


 近づくほど、思考は勝手に働く。


 何人。


 どの歩幅。


 どの重さ。


 その問いを、ノワールは喉の奥で噛み殺した。


 分からない。


 分からないままでいい。


 分からないままにする。


 ノワールは、足元の枝をわざと踏んだ。


 乾いた音が鳴る。


 普通なら、愚行だ。


 音は位置を示す。


 だが、今の彼女が示したいのは位置ではない。


 雑音だ。


 意味のない揺れ。


 何者でもない存在の証明。


 音が森に吸われた直後、数えられる足音が一瞬だけ止まった。


 止まった。


 止まった、という事実が、また意味を持ちそうになる。


 ノワールは拳を握りしめた。


 意味にしない。


 止まったのかもしれない。


 止まらなかったのかもしれない。


 どちらでもいい。


 どちらでもいいようにする。


 彼女は木の幹に背を預け、呼吸を整えた。


 息を整えるという行為すら、いつもなら数える。


 何回吸ったか。


 何秒で吐いたか。


 心拍がどれだけ上がったか。


 そうやって自分を管理してきた。


 管理して生き残ってきた。


 だからこそ、今のこの「管理しない」が怖い。


 怖いのに、手放さない。


 手放したら、戻れなくなる。


 戻れなくなる、という恐怖が、彼女を前に押す。


 ノワールは森の中を歩き出した。


 方向は決めない。


 決めれば、線になる。


 線は、地図の最初の一筆になる。


 彼女はわざと曲がり、わざと戻り、わざと斜めに進んだ。


 自分の足跡で、自分の足跡を壊す。


 矛盾した行為。


 矛盾のまま進む。


 そうして初めて、世界は「ひとつ」に定まらない。


 定まらない世界は、生き物みたいに柔らかい。


 柔らかい世界の中で、彼らはまだ選べる。


 そのとき、背後で枝が折れた。


 今度は数えられる音ではない。


 乱暴で、焦っている。


 ノワールの胸が跳ねた。


 ――誰か。


 思考が、また勝手に走り出す。


 誰かが追われている。


 誰かが逃げている。


 誰かが――揃いかけている。


 頭の中に、また一文が浮かぶ。


 彼らは、ここで再び揃う。


 ノワールの喉が、きゅっと締まった。


 世界が待っている。


 一文を。


 完成を。


 彼女は、目を閉じた。


 否定はしない。


 否定すれば、そこに意味が生まれる。


 だから、完成させない。


 ノワールは地面に膝をつき、土を掴んだ。


 湿った土。


 冷たい。


 それを自分の掌と服に擦りつける。


 自分の輪郭を汚す。


 汚した輪郭は、記号になりにくい。


 記号になりにくいものは、捕捉しにくい。


 捕捉しにくいものは、守れる。


 守れる、という言葉がまた甘い。


 それでも、今の彼女にはそれしかない。


 ノワールは立ち上がり、わざと大きく足跡を残した。


 残すのに、同時に壊す。


 わざと泥を跳ね上げ、落ち葉を散らし、枝を折り、折った枝を別方向へ投げた。


 ここを通った者は、迷う。


 迷えば、選び直せる。


 選び直せれば、固定されない。


 固定されなければ――終わらない。


 終わらせない。


 その決意だけが、胸の奥に残った。


 ノワールは歩く。


 誰に近づいているのか、分からない。


 誰から離れているのかも、分からない。


 それでいい。


 分からないまま、踏み出す。


 その一歩が、彼女にできる最大の抵抗だった。


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