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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 42 優しさが通じない場所

# memory 42 優しさが通じない場所


 森は、昨日までの森ではなかった。


 足を置いた瞬間、地面が「受け止める気がない」と分かる。湿った腐葉土は柔らかいのに、柔らかさが味方ではなく罠になる。沈み込み、重心が遅れて返ってくる。遅れた分だけ、次の一歩がズレる。


 アズルは呼吸を整えた。


 視界の端で、葉が揺れる。


 ――


 森は、ただ揺れた。


 揺れは主語を持たない。恐れも、願いも、誰のものでもなく、湿った空気と腐葉土の重さが、均等にずれるだけだ。見つかる。


 誰に、ではない。


 森に。


 そして、森の外に。


 アズルは一度だけ、立ち止まった。目を閉じる。耳を澄ます。


 遠くで、水音がしている。


 近い。


 水場は、獣も寄る。人も寄る。 森の奥で、暗さが一段深くなった。


 光が届かない場所が増え、葉の重なりが厚くなる。昨日までなら、足を取られそうな箇所に、偶然のように根が現れていたはずだ。だが今は違う。根は現れず、枝は道を作らない。


 怖さは、そのまま置かれている。


 誰かを守るためではない。誰かを試すためでもない。ただ、そうなっているだけだ。寄る。


 胸の奥が、小さく鳴った。


 会えるかもしれない、という期待ではない。


 会ってしまうかもしれない、という恐れだ。


 恐れは、彼女を拒むものではない。


 守りたい、という願いに、別の形を与える。


 ――触れない守り。


 アズルはその言葉を、何度も自分に刻んできた。抱き寄せることよりも、名前を呼ぶことよりも、剣を抜くことよりも、少しだけ難しい。


 進め、と心が言う。


 止まれ、と理性が言う。


 その間で、アズルは歩いた。


 枝を避ける。葉を踏まない。石を蹴らない。


 背後に気配。


 振り向くより先に、アズルは身体を沈めた。


 影が跳ぶ。


 黒い獣。狼に似ているが、目が違う。白目のない、濡れた黒。


 牙が、空気を裂く。


 アズルは鞘を握った。


 握ったまま、抜かない。


 抜けば斬れる。抜けば終わる。


 終わる、というのは獣の命だけではない。


 剣が鳴る。風が割れる。振動が走る。森がそれを「合図」にする。


 合図になった瞬間、彼女の位置が「定まる」。


 定まれば、王国が理解する。


 識別子を持たない存在が、識別子を得る。


 名は、刃になる。


 だから。


 アズルは、抜かない。


 獣が飛び込む角度に合わせ、身体を半歩ずらす。肩が擦れる。皮膚が裂ける。熱が走る。


 痛い。


 痛いのは、良い。


 痛い世界は、嘘じゃない。


 アズルは獣の腹へ、膝を叩き込んだ。骨が鳴った。獣は空中で体勢を崩し、地面に落ちた。起き上がる前に、アズルは片手で首筋を押さえつける。


 眼が合う。


 黒い濡れた眼。


 敵意はある。けれど、そこに「物語」はない。


 ただ生きるために噛む。


 アズルは、獣の耳元に低く息を吐いた。声は出さない。言葉にすると、世界がそれを拾う気がした。


 獣が怯んだ瞬間、アズルは身体を離す。


 獣は唸り、しかし深追いせずに森の闇へ消えた。


 血が、袖を濡らしている。


 包帯を巻く時間はない。


 アズルは自分の傷を見ないようにした。


 見ると、「ここにいる」という事実が濃くなる。


 濃くなると、彼女の気配が引き寄せられる。


 引き寄せられるのは、彼が望んだ再会ではない。


 彼女の「怖くない世界」を壊す再会だ。


 森の先で、崩れた音がした。


 地面が、落ちる。


 アズルは走りかけ、止まった。


 走れば音が増える。


 増えれば、彼女を呼ぶ。


 彼は歩幅を小さくし、足裏の感覚だけで進んだ。崩落箇所に着いたとき、そこには谷ができていた。昨日まで道だった場所が、裂けて消えている。


 谷底は見えない。


 見えないというだけで、心が一段深く冷える。


 対岸は、二歩先。


 二歩なのに、届かない。


 木の根が一本、橋のように伸びている。細い。湿っている。途中で割れている。


 剣を抜けば、根を切り、別の足場を作れる。


 剣を抜けば――森がそれを覚える。


 アズルは根に足をかけた。


 重心を預けた瞬間、根が軋む。


 折れる。


 折れたら落ちる。


 落ちたら、致命傷。


 けれど。


 致命傷は、起きない。


 それが今までの森だった。


 しかし今は違う。世界は先回りしない。精霊の気配は薄い。守られる側の甘さが、ここでは命取りになる。


 アズルは、片手を伸ばした。


 根の上に、もう一本。


 少し離れた場所にある蔓を掴む。引き寄せ、根と根を絡める。ほどけない結び目を作るために、指先で何度も締めた。


 時間がかかる。


 遅れる。


 それでも、抜かない。


 抜かないことで守れるものがある。


 それが、彼にとっての「勝ち」だった。


  ――


 森は何も語らない。


 主語を持たない揺れだけが残り、恐れも選択も、誰のものでもないまま散っていく。


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