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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 38 誘いは、優しい

# memory 38 誘いは、優しい


 森は、入口からすでに森ではなかった。


 道が細くなる。足元の土が柔らかくなり、靴の音が吸い込まれていく。木々は濃い緑を重ねているのに、影は重くない。むしろ光が滲むように柔らかく、輪郭の角を削っていく。


 風が吹いた。


 草の匂いの奥に、甘い香りが混じっている。


 花ではない。


 果実でもない。


 もっと生活に近い――焼きたてのパンの匂い、温かい湯気、誰かの髪に残る石鹸。そういう「帰っていい場所」を思い出させる香り。


 アズルは立ち止まらなかった。


 立ち止まれば、そこが境界になる。


 境界は、名前がついた瞬間に扉になる。


 扉になれば、誰かが管理しようとする。


 だから歩く。


 前を。


 旧魔王城へ向かう道は、地図の上では一本の線だ。だが実際の道は、線ではない。近づくほど、世界の質感が古くなる。石が増え、音が減り、風が言葉を持ち始める。


 その先に、この森があった。


 ヴェールが、入口の手前で息を吸った。


 胸元の飾りをそっと押さえる。


「……精霊が」


 彼女は空を見ない。


 見えないものを見てしまうから。


「境界を越えたがらない」


 拒絶ではない。恐怖でもない。


 それは、躊躇に似ていた。


「行きたくない、って?」


 ルージュが軽く聞く。


 ヴェールは少し首を振る。


「行ってもいい。でも……戻れる人だけが行けばいい、って言ってる」


 ルージュが眉を上げた。


「なにそれ、優しいのに嫌な言い方」


 ノワールが淡々と補足する。


「優しい場所は、いつも危ない」


「それも嫌な言い方」


 ルージュが返し、すぐに息を吐く。冗談めかして空気を軽くする癖が、ここでは逆に引っかかる。


 三人は森に入った。


 途端に、音が増えた。


 葉擦れ。水のせせらぎ。遠くの鳥。


 それだけなら普通だ。


 だが混じっている。


 食器が触れ合う小さな音。子どもの笑い声。誰かが名前を呼ぶ声――呼ばれているのに、呼び返せない距離。


 ルージュが足を止め、眉を寄せた。


「……懐かしい匂いがする」


「匂い?」


 ヴェールが聞き返す。


「王国の厨房みたいな。嫌じゃないのが腹立つ」


 ルージュはそう言って、わざと乱暴に草を踏んだ。草は倒れない。ふわりと受け止め、元に戻る。まるで誰かに撫でられたみたいに。


 ノワールが周囲を見回す。


「罠ではない」


「罠じゃないのが、一番罠よ」


 ルージュが返す。


 アズルは歩きながら、腰の辺りを意識した。


 黒い剣。


 彼が普段使う剣とは別に、鞘に沈むように収まっている一振り。


 説明はない。


 名前もない。


 ただ、そこにある。


 黒い剣は、抜かれることを拒むように静かだ。


 その静けさが、森の甘い香りに薄く楔を打っている。


 アズルはそれを感じた。


 森は、こちらの心に触れようとしてくる。


 けれど黒い剣の周囲だけ、触れられない。


 触れられない場所がある。


 そのおかげで、アズルの視界は澄んだままだ。


 幻が来ない。


 来ない、というより――届かない。


 森が差し出す「欲しい未来」は、黒い剣の静けさの前で形を結べない。


 代わりに、森は別のやり方を選ぶ。


 アズルではなく。


 彼の周囲を。


 最初に足が止まったのは、ヴェールだった。


 何もない場所で、彼女がふっと微笑む。


 微笑みは、戦場で人を救う時の顔ではない。


 もっと柔らかい。


 家の中で、湯気の向こうから返事をするような。


「……あ」


 ヴェールの唇から、小さな吐息が漏れた。


 目が、遠い。


 アズルは立ち止まる。


 彼女が見ているのは森の奥ではない。目の前の何もない空間だ。けれどそこに、彼女にとっての「ある」が立っている。


 ヴェールの指先が、自分の前に垂れるものを掴む。


 掴んだのは空気だ。


 なのに布の感触を確かめるように指が動く。


 エプロンの紐を結ぶ仕草。


 ヴェールが小さく笑う。


「……朝って、忙しいのよ」


 誰に言うでもなく。


 けれど言葉の向こうに、確かに誰かがいる。


 窓から光が差し、台所があって、靴の音がしない床があって。そこに子どもの笑い声が混ざっている。


 ヴェールが守りたかった未来。


 守りきれた未来。


 アズルは黒い剣の静けさを背に、ヴェールへ近づいた。


「ヴェール」


 名を呼ぶ。


 呼ぶのは危険だ。


 だが彼女の名は、ここで必要だった。


 名を呼ばなければ、彼女は森に溶けてしまう。


 ヴェールが瞬きをした。


「……アズル?」


 彼女の声が現実に戻る。


 だがまだ半歩、向こう側だ。


 アズルは手を伸ばす。


 触れる。


 指先が彼女の手首を掴んだ瞬間、森の光が一度だけ白くなる。


 ヴェールの指から、見えないエプロンがほどけた。


 ほどけて、落ちた。


 落ちたはずなのに、地面には何もない。


 ヴェールは息を呑み、頬を赤くした。


「今……」


 言いかけて、口を閉じる。


 言えば固定される。


 固定されれば、望みが刃になる。


 次に、ルージュが立ち止まった。


 彼女は森の奥へ視線を向け、眉を吊り上げる。


「……やめなさいよ」


 誰に向けた言葉か分からない。


 だが彼女の声は、苛立ちの中に揺れている。


 ルージュの足元の草が、石畳に変わった。


 変わったように見えた。


 街の匂い。乾いた石。人の足音。


 王国の制服が見える。見えるのに、嫌ではない。


 制服のない自分が、そこにいる。


 結果を出さなくていい。


 背中を預けてもいい。


 隣を歩くのは――。


 ルージュが、ほんの一瞬だけ笑った。


 その笑いが自分でも信じられないみたいに、すぐに顔が強張る。


「……ふざけてる」


 ルージュが吐き捨てる。


 だが足が動かない。


 森の優しさが、彼女の膝を掴んでいる。


 アズルはルージュの前に立った。


 黒い剣の静けさが、二人の間に薄い膜を作る。


 ルージュの視界が揺れた。


 街の石畳が、土に戻りかける。


「ルージュ」


 アズルは短く呼ぶ。


 彼女の名は、ここでは錨だ。


 ルージュが唇を噛んだ。


「……なに」


「歩く」


「命令?」


「確認」


 アズルが言うと、ルージュは一瞬だけ目を細め、そして苛立ちを隠すように笑った。


「……しょうがないわね」


 彼女が一歩、現実へ戻る。


 その瞬間、森の生活音が少しだけ遠のいた。


 最後に、ノワール。


 彼女はいつの間にか、木々の間へ半歩入り込んでいた。


 足音がない。


 息の音も薄い。


 まるで最初からそこにいなかったみたいに。


 アズルが呼ぶ前に、ノワールの指先が空中を撫でた。


 紙をめくる仕草。


 帳面。


 しかし彼女の手の中にあるはずの帳面はない。


 代わりに、白紙の感触だけがある。


 ノワールの目が、少しだけ柔らかい。


 それは戦闘中に見せる冷静さではない。


 誰にも見られていない場所で、安心する目。


 書斎。


 机。


 隣で誰かが本を読む気配。


 記録しなくていい。


 観測しなくていい。


 存在しているだけでいい。


 その未来が、ノワールの胸の奥を撫でる。


 ――だから、危ない。


 ノワールは自分からそこへ沈もうとしてしまう。


 アズルは迷わず踏み込んだ。


 黒い剣の静けさが、木々の間の甘い香りを切る。


「ノワール」


 名を呼ぶ。


 ノワールが瞬きをした。


 現実の目になる。


 だが泣きそうな色が残っている。


 アズルはそれを見ないふりをする。


 見れば、そこが固定される。


 代わりに手を伸ばし、彼女の肩に触れた。


 触れた瞬間、白紙が閉じる音がした。


 音だけ。


 実体はない。


 けれどノワールは小さく息を吐き、現実の空気を吸い直した。


「……ありがとう」


 珍しく、言葉が短い。


 それだけで十分だった。


 三人が戻った。


 戻ったのに、森は優しいままだ。


 優しさは、悪意よりしつこい。


 霧が出た。


 白い。


 雪の白ではない。


 息の白でもない。


 もっと優しい白。


 包み込む白。


 包み込むからこそ、境界が分からなくなる。


 音がばらける。


 すぐ隣の足音が、半拍遅れる。


 ヴェールの呼吸が遠くなる。


 ルージュの衣擦れが、背後に聞こえる。


 ノワールの気配が、左にいるはずなのに右にある。


 アズルは低く言った。


「手を離すな」


 三人が頷く。


 森は敵ではない。


 だからこそ、こちらの頑張りを許してくれない。


 森は「それぞれの最適」を選ぶ。


 その最適は、今の三人の形を守る最適とは限らない。


 霧の中で、手の温度がずれた。


 誰かの指が滑る。


 誰かの気配が半歩遠ざかる。


 アズルは掴み直そうとして――。


 霧が白く、世界が柔らかく、そして。


 三人の影が、ゆっくりと別々の方向へ伸び始めた。


 誘いは、優しい。


 だからこそ、抗うほどに、少しずつ離れていく。


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