表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/73

memory 35 名を知らない視線

# 第35話 名を知らない視線


 風が、妙に静かだった。


 草原を渡るはずのざわめきが、そこだけ薄い布で包まれたように丸くなる。音は消えたわけではない。ただ、届く前に一度、ためらったような間が挟まる。


 アズルは歩幅を変えずに進みながら、視線だけを横に滑らせた。意識を向けすぎれば、そこに意味が生まれる。意味が生まれれば、世界はそれを拾ってしまう。


 だから、見る。だが、捉えない。


 隣を歩くヴェールが、肩のあたりで小さく息を吐いた。指先が胸元の飾りをなぞっている。祈りの癖――そう片づけられる動作だが、今は違う。祈りというより、確かめるような仕草だった。


「……多い」


 ヴェールの呟きは、独り言に近い。


「なにが」


 アズルが低く返す。返事というより、間を繋ぐための音だ。


「精霊。集まり方が、いつもと違う」


 言い切ると同時に、彼女の髪がふわりと揺れた。風ではない。空気そのものが、水面のように撓んだ。見えない流れが、そこに溜まっている。


 精霊――この世界の“自然の気配”は、基本的に目に見えない。だがヴェールは、それを感じ取る。あるいは、感じ取らされていると言った方が正しい。


「守ってるのか」


 アズルの問いに、ヴェールは首を振った。


「守り、じゃない……隠してる」


 その言葉で、背中の空気が冷える。


 守るなら、危険の方向に壁を作る。


 隠すなら――存在そのものを、視線の外へ押し出す。


「……誰から」


 アズルが言いかけた瞬間、ヴェールは空を見た。雲のない青空。その向こうに、何かを感じ取ろうとしている。


「“人”じゃない。視線そのもの」


 アズルは足を止めない。止めれば、そこが基準になる。基準が生まれれば、世界は座標を得る。


 だから進む。いつも通りを選ぶ。それが今の彼の剣だった。


 少し後ろを歩くルージュが、唇の端を上げる。


「なるほど。やっぱりね」


「やっぱりって言うな」


 ノワールが淡々と返す。黒い外套の影で、目だけが静かに光った。


「“見られる”が増えた、という観測だ。言葉にした時点で増える」


「観測ねえ」


 ルージュは肩をすくめた。


 その会話の“縁”に、白い気配が重なっている。


 名を呼ばれない存在。


 姿は、輪郭だけが辛うじて見える。色も質感も、視線を向けた瞬間に曖昧になる。確かなのは、そこに“いる”という感覚だけだ。


 白い気配は、アズルの少し後ろに重なっている。


 並んで歩いているように感じるのは、同じ方向へ進んでいるからではない。世界が、その位置関係を一時的に許しているだけだ。触れそうで触れない。近いのに、遠い。


 その距離が、守りになっている。


 不意に、空腹を思わせる感覚が場に滲んだ。


 誰のものかは分からない。ただ、そう感じてしまった。


 緊張が一瞬だけ緩む。


 ルージュが理由もなく笑いを含んだ息を吐いた。


 ヴェールは干し果実の袋に手を伸ばしかけ、途中で止める。迷いではない。違和感に、手が従っただけだ。


 気づくと、干し果実は地面の石の上に置かれていた。


 誰が置いたのかは、分からない。


 白い気配が触れた“ような”確信だけが、遅れて残る。指先は見えない。行為だけが、結果として存在している。


 三人は村へ向かっていた。


 白い存在は、道の少し内側に同時に存在しているだけだ。


 地図で言えば、ただの通り道の小さな集落。補給と休息のための場所。何も起きないはずの地点。


 だからこそ、起きる。


 村外れで、ひとりの青年とすれ違った。


 狩人か、薬草採りか。荷車もなく、弓を担いでいる。日に焼けた頬。疲れはあるが、警戒の色は薄い。


 会釈。


 普通の仕草。


 普通のはずだった。


 すれ違う、その瞬間。


 世界の輪郭が、白く撫でられた。


 音が半拍、遅れる。足音も、布の擦れも、呼吸も。すべてが、同時に起きることをためらう。


 青年の足が止まった。


 何かを探すように、視線が宙を彷徨う。焦点が合わない。そこにあるはずのものを、視界が拒んでいる。


 白い気配が、わずかに緊張する。


 アズルは何も言わない。


 言葉を落とせば、そこに事実が生まれる。事実が生まれれば、捕まえられる。


 青年は口を開きかけ、言葉を失った。自分の舌に戸惑うように唇を押さえ、困ったように笑う。


「……すみません」


 何を言おうとしたのか、自分でも分からないまま。


 白い存在の内側に、ただ一つの感情が浮かぶ。


 見られたくない。


 その願いが、世界の余白を撫でる。


 世界は優しい。


 優しすぎる。


 だから、消さない。


 触れさせない。


 曖昧にする。


 青年の視線が、空白を滑り落ちた。


「……気のせいか」


 青年は首を振り、歩き去る。足取りは軽いが、どこか落ち着かない。


 視線が捉えたのは、存在ではなく、捉え損ねた残像だけだった。


 風が戻る。


 草がざわめき、鳥が鳴き、世界の音が同じ速度に揃う。何事もなかったかのように。


「今の人」


 ヴェールの呟き。


「王国じゃない」


 ルージュが即座に返す。それが、なぜか救いになる。


「でも、見えかけた」


 ノワールが頷く。


「事実が生まれかけた」


 彼女は帳面を取り出しかけ、やめた。


「書かない」


 それは誓いだった。記録しないことが、刃を収める行為になる。


 干し果実が噛まれた“気がした”。


 音は、はっきりしない。それでも、生きていると感じる。


 村に入ると、畑と薪の匂いが混じった。人の暮らしの匂い。


 平和だが、整いすぎている。


 精霊たちが、入口に薄い幕を張っている。見せないための、優しい嘘だ。


 夜。


 宿の灯りが点る頃、白い輪郭はさらに薄くなる。存在はあるのに、確かめられない。


 廊下の角で、立ち止まった“ように見えた”気配。


 アズルは隣に立つが、触れない。視線も、合わせない。


 怖れと、寂しさが混じった感情だけが残る。


 見られたくない。


 だが、完全に見られないのも、少しだけ怖い。


 矛盾した感情が、個として芽生え始めている。


 アズルは手を伸ばしかけ、やめた。


 触れそうで触れない距離。


 今は、それが最適だ。


 白い存在は、頷いた“気配”だけを残し、影に溶ける。


 名を呼ばれたくないという願いが、かすかに残った。


 アズルは応えない。


 沈黙だけが、固定されない守りになる。


 夜更け。


 村外れで、昼間の青年が立ち止まる。


 白い夢を見た気がして、首を振る。説明できない何かを、思い出しそうで、思い出せない。


 精霊の幕が、一瞬だけ揺れ、すぐに散った。


 名を持たない存在が、世界に触れてしまった最初の痕跡だけが、静かに夜に残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ