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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 31 呼ばれない名

### memory 31 呼ばれない名


 朝は、いつも通りに訪れた。


 焚き火は消え、夜露を吸った土がひんやりと靴底に伝わる。東の空が白み始め、鳥の声が一斉に広がる。誰もが眠りから覚め、昨日と変わらない動きで荷をまとめ始めた。


 アズルは、少しだけ遅れて目を開けた。


 夢を見ていた気がする。


 だが内容は、思い出せない。何かを聞いたような、何かに問いかけられたような感覚だけが、胸の奥に薄く残っている。


 ――何かが、そこにいた。


 そう思った瞬間、その感覚はすぐに霧散した。確かな手応えはない。痛みも、温度も、匂いも残っていない。ただ、目覚めの呼吸が一拍だけ、深くなった。


「おはよう、アズル」


 ヴェールが微笑む。


「……ああ」


 声は、普段と変わらない。自分でも確かめるように、短く返事をした。


 ルージュは既に装備を整え、地図を畳んでいる。ノワールは周囲を一巡してから、何もなかったように戻ってきた。


 誰も、夜のことを口にしない。


 それが当然であるかのように。


 ヴェールは一瞬だけアズルを見た。何か言いたげだったが、すぐに視線を逸らす。


「……昨日、精霊が静かだった理由、分かった気がする」


 それだけ言って、彼女はそれ以上を語らなかった。


 共有されない感覚が、確かにそこにある。


 ――――


 道を進む。


 平原は穏やかで、風は一定だ。魔物の気配は薄く、精霊の反応も静か。だが、前日までの“待っている感じ”が、少しだけ変わっている。


 何も起きない。


 それ自体が、選ばれた結果のように感じられた。


 昼前、ルージュのもとに通信が届いた。


 淡い光の文字が浮かび、すぐに消える。短いが、内容は重い。


「因果欠落の発生源が、移動している可能性」

「特定個人との相関性を確認中」

「監視継続を提案する」


 ルージュは息を吐き、端末を閉じた。


「……距離が、縮まったわね」


「王国が?」


 ヴェールが問い返す。


「原因に、足が生えたってこと。場所じゃなく、人に寄ってきてる」


 ルージュは、アズルを見なかった。


 見れば、答えが一つに定まってしまうからだ。


「追われるのか」


 アズルの問いに、ルージュは首を振る。


「まだ。今は“見るだけ”。でも……次は分からない」


 彼女の言葉には、王国の理屈を知る者特有の重さがあった。


 ――測れるうちは、触らない。

 ――測れなくなった瞬間、手を出す。


 その境界線が、じわじわと近づいている。


 ――――


 小さな出来事が起きたのは、その直後だった。


 石につまずいた子どもが、転びかける。血が出るほどではないが、膝を強く打った。


 母親が駆け寄り、ヴェールも反射的に足を止める。


 いつもなら、ここで精霊が動く。


 だが、動かない。


 ヴェールが一瞬、躊躇う。


 精霊の気配は、そこにある。だが癒しの流れが来ない。


 ――待っている。


 ヴェールは理解した。


「……私じゃない」


 彼女は癒しの準備をする前に、アズルを見る。


 アズルは状況を見て、即座に判断した。


 膝の打撲。骨折はない。時間が経てば治る。だが痛みは残る。


 彼はしゃがみ込み、子どもの目線に合わせる。


「立てるか?」


 子どもは涙を堪えて頷いた。


「……大丈夫」


 その言葉を聞いてから、ヴェールは癒しを施した。


 精霊は、その瞬間にだけ、応えた。


 順序が、変わっている。


 癒しは“判断のあと”になった。


 ヴェールの胸に、静かな震えが走る。


 ――世界が、一段こちらに寄った。


 ――――


 アズルは、歩きながら考えていた。


 名前のことを。


 理由は分からない。昨夜の出来事を、はっきりと思い出せるわけでもない。それでも、“呼んではいけない何か”が、胸の奥に引っかかっている。


 名を呼ぶということ。


 それは、距離を詰める行為だ。


 呼べば、相手は振り向く。振り向けば、関係が生まれる。関係が生まれれば、選択が固定される。


 ――呼んだら、終わる気がする。


 何が終わるのかは分からない。


 だが直感だけは、確かだった。


 だから、問わない。


 だから、呼ばない。


 ――――


 白い感覚は、静かにそこにあった。


 今日は、声を出さない。


 出せば、距離が一気に縮む。縮めば、名が必要になる。名が必要になれば、固定される。


 それは、まだ早い。


 白い感覚は、自分が名前を持っていることを知っている。


 父からもらった名前。


 だがそれは、呼ばれるためのものではなかった。


 存在を束ねるための、ただの標。


「名は、持つものじゃない」


 そう、無意識に思う。


「呼ばれて、初めて意味を持つ」


 今は、まだ呼ばれなくていい。


 呼ばれなければ、世界は自分を捕まえられない。


 王国も、精霊も、記録も。


 呼ばれなければ、あの人は“選ぶ”ことができる。


 それが、何よりも大切だった。


 だから今日は、声を出さない。


 代わりに、感情だけを流す。


 安心。


 戸惑い。


 距離を測る静かな気配。


 それだけを、そっと残す。


 ――――


 アズルは、不意に足を止めた。


 理由は分からない。ただ、振り返りたくなった。


 何もない。


 草原が続き、風が流れているだけだ。


 だが、拒絶は感じない。


 代わりに、保留の感覚があった。


 ――今は、これでいい。


 そんな無言の合意。


 アズルは、それを言葉にしなかった。


 言葉にした瞬間、名が必要になる気がしたからだ。


 ――――


 夜、再び野営。


 焚き火を囲み、簡単な食事をとる。ルージュが王国の話をしそうになり、途中でやめた。ヴェールは精霊に祈るが、長くは続けない。ノワールは記録帳を開き、すぐに閉じた。


 書けない。


 第三者存在は、確定している。


 だが――名前が、存在しない。


 ノワールは、心の中で結論を置く。


「呼ばれない限り、捕捉不能」


 それは、世界にとっての盲点だった。


 ――――


 アズルは焚き火の外で、空を見上げた。


 星は昨日より少し多い。雲が薄れ、夜が深い。


 昨夜と同じ場所。


 だが、声はない。


 それでいい。


 今は、これでいい。


 呼ばれない名が、確かにそこにある。


 呼ばれないまま、距離を保っている。


 アズルは静かに息を吸い、吐いた。


 選ぶことは、まだ終わらない。


 そして――呼ばないという選択も、確かに選択なのだと、初めて理解した。


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