memory 27 白は、名を持たない
### memory 27 白は、まだ名を持たない
世界は、何事もなかったかのように続いていた。
朝の光は柔らかく、草原は露を含み、鳥は一定の間隔で鳴いている。昨日までと同じ景色。昨日までと同じ旅路。
――なのに。
アズルの胸の奥には、言葉にならない違和感が残っていた。
それは不安ではない。
恐怖でもない。
もっと曖昧で、もっと厄介な感覚。
**「何も起きなさすぎる」**という異常。
危険がないのではなく、危険になりそうなものが、最初から危険として成立していない。
それを、アズルは指先の感覚で理解してしまう。
剣士として、長く生きてきた。
危険の気配は、匂いみたいに分かる。
なのに、その匂いが「嗅いだ瞬間に消える」。
気づくと同時に、世界が何かを塗り替える。
その感覚は、戦場の技巧とも、魔法の仕組みとも違っていた。
誰かが動かしたようで、誰も動かしていない。
世界の“余白”が、いつの間にか埋まっている。
◇
一行は、川沿いの細い道を進んでいた。
春先の雪解け水で、川は普段より少しだけ水量が多い。流れは速いが、危険というほどではない。
……本来なら。
足元の石は湿り、苔が張りついている。誰かが踏み外してもおかしくない場所だ。
だが誰も転ばない。
誰も滑らない。
靴底が石に吸いつくように安定している。
歩いているのに、歩くという行為の不安定さが消えている。
「……妙ね」
ルージュが小さく呟いた。
「何がだ?」
「川沿いって、もっと事故が起きやすいでしょ。こういうところ」
彼女はあえて胸を張り、バランスを崩すような歩き方をしてみせる。
旅装の布地が揺れ、必要以上に存在を主張する。
アズルは視線を逸らしながら言った。
「……わざとやるな」
「だって、証明したくなるじゃない。私たち、今……“守られてる”みたいで気持ち悪い」
ルージュの言葉は、途中で熱を増しかけて――
ふっと薄れる。
本人がそれに気づき、唇を噛んだ。
「……ねえ、今の、私」
「続かなかったな」
アズルが短く返す。
ルージュは舌打ちしかけて、また止まる。
怒りが、最後まで届かない。
ノワールが後ろで淡々と書き留める。
「感情の立ち上がり、途中で減衰。再現性あり」
ヴェールは歩きながら、風の流れを探る仕草をした。
けれど精霊の声は、遠い。
遠いのに、消えてはいない。
それが余計に不気味だった。
世界が、先回りしている。
危険を避けているのではない。
**最初から、危険が存在しなかったかのように。**
◇
川を渡るための小さな橋が見えてきた。
古い木橋だ。板はところどころ軋み、支柱も心許ない。川面に映る影が揺れれば、橋も揺れるはずだ。
ノワールが立ち止まり、目を細める。
「記録上、この橋は三年前に一度、崩落している」
「……今は大丈夫そうだけど」
ヴェールが言いかけて、言葉を止めた。
彼女の視線が、橋の下へ向いている。
そこには、本来あるはずのものがなかった。
――崩れかけた痕跡。
補修の跡も、ひび割れもない。
ただ、**完全に安定した橋**がそこにある。
まるで三年前の崩落が「起きなかった」かのような。
「……おかしいです」
ヴェールははっきり言った。
「精霊が、何も言いません」
精霊は危険を知らせる。
けれど今は、沈黙している。
まるで、
*『この場所は安全だと決まっている』*
とでも言うように。
アズルは橋を見つめながら、一歩踏み出した。
板は軋まない。
揺れもしない。
**揺れるはずだった未来が、消えている。**
歩を進めるほど、背中が寒くなる。
安全だからではない。
安全に「固定されている」からだ。
橋の中央で、アズルは一瞬だけ立ち止まった。
喉の奥で何かが引っかかる。
この感覚を、彼は知っている。
けれど、思い出せない。
剣を握ったまま、何かを言いかけた気がする。
言葉は形にならず、胸の奥で霧になる。
そして霧は、白い方向へ流れていく。
◇
橋を渡り切った先、川原に降りる小道があった。
白い小石が敷き詰められたような場所。
水の匂いと、冷えた土の匂い。
その中央に、ひとつだけ異質なものがある。
白い羽毛。
鳥のものにしては大きすぎる。
獣のものにしては、軽すぎる。
触れれば消えてしまいそうな、淡い白。
ヴェールが膝をつき、そっと手を伸ばした。
「……温かい」
羽毛は、太陽に当たっているわけでもないのに、微かな体温を持っていた。
その温度は、焚き火の熱とは違う。
人の体温に近い。
「精霊じゃない」
ヴェールは断言する。
「でも……精霊より、近い」
ルージュが眉を寄せる。
「近いって、何に?」
「……人に」
その言葉に、空気が張り詰めた。
ノワールは無言で手帳を開き、羽毛の位置、温度、周囲の地形を書き留める。
だが、書きながら首を傾げた。
「定義不能。記録不成立」
線が途中で止まり、それ以上書けない。
手帳の紙面が、まるで拒んでいるように。
ルージュが羽毛に指を伸ばしかけ、止めた。
「触ったら、消えそう」
「消えるなら……誰かが消したいと思ってる」
ノワールの言い方は冷静だ。
冷静すぎて、背筋がぞわりとする。
ヴェールは羽毛の傍に耳を寄せた。
音はない。
けれど、気配はある。
まるで、祈りのあと。
あるいは――誰かが眠ったあと。
アズルは、白い羽毛を見つめていた。
胸の奥が、妙にざわつく。
懐かしい。
理由は分からない。
だが確かに、知っている感覚だ。
「……これを」
言いかけて、言葉が途切れる。
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
**知っているのに、思い出せない。**
その断絶が、頭を鈍く締めつける。
剣を握る手が、ほんの少しだけ震えた。
戦場で震えたことなど、滅多にないのに。
◇
その時、川上から低い音が響いた。
岩が擦れる音。
流れが変わる音。
小規模な崩落――の、はずだった。
ヴェールが息を呑む。
精霊が、動かない。
いつもなら、水の精霊が流れを逸らし、土の精霊が支える。
だが今回は、**何もしない。**
沈黙。
様子見。
まるで世界が、「試している」ような。
「アズル!」
ルージュが叫ぶ。
アズルは即座に剣を抜いた。
久しぶりの、明確な選択。
剣は、嘘をつかない。
だから剣を抜くということは、守ると決めたということだ。
彼は前に出る。
崩れかけた岩に向かって――
次の瞬間。
**崩落は、起きなかった。**
音も、振動も、消えている。
岩は最初から、安定していたかのように静止している。
時間が、巻き戻ったわけではない。
**選び直された。**
世界が、別の可能性を選んだ。
アズルは剣を構えたまま、息を整える。
精霊が、ようやくざわめいた。
遅れて、困惑するように。
ヴェールの胸に、冷たい汗が滲む。
精霊が動かなかったことより、
“世界が選び直せた”ことが、怖い。
それは誰かの意思。
だが、誰もここにいない。
「……今の、見た?」
ルージュが呟く。
「見ました」
ヴェールの声は震えていた。
「でも……助けたのは、精霊じゃありません」
ノワールが静かに言う。
「世界そのものでもない」
彼女は川上と羽毛とを交互に見て、結論を落とした。
「第三者」
視線が、白い羽毛に集まる。
◇
誰もいないはずの場所で、
**感情だけが残っていた。**
声はない。
姿もない。
けれど、確かに伝わる。
*こわくなかった。*
*この人が、いたから。*
それは幼い安心。
無条件の信頼。
そして、善意。
善意は、軽い。
軽いからこそ、世界を動かせてしまう。
ヴェールは胸を押さえた。
「……信じている」
誰かが。
世界を。
そして――
**アズルを。**
ルージュは唇を噛み、言葉を探す。
「こんなの、資料にない……あるはずがない」
それは恐怖よりも、焦りに近い。
王国は「制御できるか」を見ている。
制御できないものは、怖い。
だからこそ、消したくなる。
ルージュはそこまで考えて、喉の奥が冷えた。
――もし、王国がこれを知ったら。
アズルは、無意識のまま前に出ていた。
誰もいない空間に向かって、剣を収める。
「……大丈夫だ」
自分でも、なぜそう言ったのか分からない。
だが、言わずにはいられなかった。
白い感情が、こちらを見ている気がしたから。
「ここにいる」
その言葉に、空気がわずかに和らぐ。
冷たさが溶け、川の匂いが戻る。
白い羽毛が、風もないのにふわりと浮き、
静かに消えた。
消え方は、焼けるようではなく、溶けるようだった。
――安心して、消えた。
ヴェールの喉が鳴る。
その消え方が、あまりにも「人の仕草」に似ていた。
◇
しばらくの沈黙のあと、ルージュが息を吐く。
「……想定外、ね」
「王国の資料には、絶対にない」
ノワールが頷く。
「観測不能。制御不可」
「なら、なおさら危ない」
ルージュが言いかけて――止めた。
言葉が最後まで続かない。
怒りでも恐怖でもなく、結論が削られていく。
ヴェールはアズルを見る。
アズルは前を向いたまま、剣の柄に手を置いている。
抜かない。
だが、守る。
その姿勢だけが、世界に楔を打つ。
「でも……優しい」
ヴェールの言葉が、何よりも重かった。
優しさが、世界を選び直した。
優しさが、危険を消した。
優しさが、誰かの選択を飛び越えた。
その優しさを、憎めない。
だからこそ、守り方を間違えたらいけない。
アズルは小さく息を吐いた。
「……俺は、誰かの優しさを否定できない」
それは独り言のようだった。
だが続く。
「でも、優しさが誰かを縛るなら……俺は、剣を持つ」
剣を抜くためではない。
選ぶために持つ。
そして一行は、再び歩き出す。
川沿いの道は続いている。
鳥は鳴いている。
草は揺れている。
それでも。
白は、まだ名を持たない。
けれど確かに、そこにいた。
そして、確かに――アズルに返事をもらった。
それが、どれほど危険で、どれほど救いかを。
この時の彼らは、まだ知らなかった。




