memory 26 緑は、感じている
### memory 26 緑は、感じている
朝の空気は、澄んでいるはずだった。
前夜の焚き火の匂いも、湿った草の感触も、いつもと変わらない。空は薄い青にほどけ、雲はゆっくりと流れている。
それなのに、ヴェールの胸の奥には、言葉にできない重さが残っていた。
――静かすぎる。
それが最初の違和感だった。
精霊使いとして、彼女は「音」よりも「流れ」で世界を感じる。風がどう通り、光がどう留まり、命がどう呼吸しているか。
だからこそ、静けさには敏感だ。
平穏な朝は好きだ。戦場の後の静けさは、祈りの時間を与えてくれる。
けれど今朝の静けさは、祈りではない。
整いすぎた静けさ。
あらゆるものが「そうあるべき場所」に収まっていて、はみ出すものがない。
はみ出すものがない世界は、一見美しい。
でも、怖い。
ヴェールは荷をまとめながら、皆に微笑んだ。
「……おはようございます」
アズルは剣の手入れをしている。刃に朝日が薄く反射し、彼の指先が静かに動く。ルージュは外套を羽織り、眠そうに目をこすっていた。ノワールは既に記録を終えたらしく、手帳を閉じている。
いつも通りの朝。
そのはずなのに、精霊たちの気配が――薄い。
いる。
確かに、いる。
木の葉の隙間、地面の湿り、空の色の中に、ちゃんと息づいている。
だが、話しかけてこない。
通常なら、朝の準備をしているだけで、精霊たちは小さな感情を寄せてくる。風の精霊が今日の天気を教え、土の精霊が足元の危険を知らせる。水の精霊が喉の渇きを先回りして、湿り気を運ぶことさえある。
それがない。
代わりにあるのは、静かな同意のようなもの。
――大丈夫。
そう囁かれている気がする。
でも、その言葉が怖い。
精霊は、本来そんなふうに断言しない。
彼らは自然だ。
揺れて、迷って、時に怒って、時に怯える。
だから「大丈夫」と言う時は、大丈夫じゃない時だって知っている。
なのに今朝の精霊は、迷わない。
迷わないことが、ヴェールには不自然に思えた。
◇
出発の準備を終え、一行は草原の道を歩き始める。
足元の草は露で濡れ、靴の縁を冷やす。ヴェールは歩幅を合わせながら、アズルの横に自然と寄った。
寒さのせいだけではない。
精霊の声が薄いと、人の体温が恋しくなる。
彼女の胸元が、アズルの腕に軽く触れた。
それは偶然だった。
ヴェールは気づかない。
気づかないまま、さらに半歩近づき、外套の端で風を遮る。
「アズル、朝は冷えます。体、固くならないように」
「……ああ」
アズルは短く返す。
視線は前。
だが耳だけが、少し赤い。
その様子を横目で見ていたルージュが、わざと大きく咳払いした。
「はいはい、朝から仲良しね」
「え? 仲良し……?」
ヴェールが首を傾げる。
無自覚。
その無自覚が、時に攻撃力を持つ。
ルージュは唇を尖らせ、アズルの反対側に回って肩を寄せた。
胸の柔らかさが、外套越しに確かに主張する。
「こっちも冷えるのよ。ねえ、アズル?」
「……歩け」
アズルの返しは短い。
ノワールが後方から淡々と呟く。
「移動中接触、自然増加。要因:気温低下、心理的不安」
「やめなさい、ノワール!」
ルージュが怒鳴り――かけて、途中で止まった。
自分でも驚いた顔をする。
怒りの熱が、続かない。
ヴェールはその瞬間、背筋が冷えた。
今のは、村だけの話ではない。
この場にも、同じ流れがある。
◇
歩き出してしばらくすると、森の縁に差しかかった。
木々は瑞々しく、葉の色は深い緑を保っている。獣道も荒れていない。まるで、常に手入れされている庭園のようだ。
倒木は道を塞いでいない。
枯れ葉の堆積もない。
鳥の声はあるが、騒がしい群れにはならない。
自然のはずなのに、整列している。
「いい森ね」
ルージュが言う。
「はい……良すぎます」
ヴェールは小さく答えた。
森に入ると、精霊の密度が高まる。
普段ならそれは心地いい。彼女の呼吸が深くなる。
だが今は違う。
密度は高いのに、声がない。
ただ、揃っている。
森の奥、精霊の密度がさらに高まる場所に、小さな集落があった。石造りの家が数軒と、祈りのための小さな祠。
村人たちは穏やかに迎えてくれる。
水を差し出し、木の実を分け、疲れているだろうと気遣う。
誰一人、声を荒げない。
誰一人、困っていないように見える。
――困っていない、ように。
ヴェールは、祠の前で足を止めた。
ここには、精霊が集まりすぎている。
それも、守るために。
守りの気配が濃いのに、警戒の気配が薄い。
それが、歪だ。
「この村……怪我人は出ますか?」
ヴェールが尋ねると、村人は不思議そうに首を傾げた。
「最近は、ほとんどありません」
「病も?」
「精霊様が守ってくださいますから」
その言葉に、胸が締めつけられる。
守ってくれる。
その前提が、あまりにも強い。
守る存在がいることは、恵みだ。
だが恵みが「当然」になった時、祈りは依存に変わる。
村の子どもが転びそうになった。
足がもつれる。
――本来なら転ぶ。
膝を擦りむいて、泣く。
母が駆け寄り、叱り、抱きしめる。
痛みを知って、次に気をつける。
それが、生きるということ。
けれど子どもは転ばなかった。
見えない風が、そっと背中を支えた。
子どもは何事もなかったように走り去る。
母親は振り向きもしない。
それが日常だから。
ヴェールは喉が渇くのを感じた。
助けを求める前に助けられる世界は、優しい。
でも。
優しさの中で、人は「願う」ことを忘れる。
願うことを忘れたら、選ぶことも忘れる。
◇
昼過ぎ、村の外れで小さな出来事が起きた。
木を運んでいた若者が、足を滑らせ、腕を切ったのだ。血は少し。命に関わるものではない。
若者は顔をしかめ、言いかける。
「い、いた……」
その瞬間だった。
空気が動き、淡い光が集まる。
精霊が、先に動いた。
ヴェールが癒しの詠唱をする前に、傷口は塞がり、血は止まる。
若者は呆然と腕を見つめ、すぐに笑った。
「ほら、大丈夫だ」
誰も疑問に思わない。
それが、日常だから。
村人は「ありがとうございます」と祠に手を合わせる。
若者は痛みを忘れたまま、木を運び直す。
その姿が、ひどく軽い。
ヴェールの指先が、微かに震えた。
これは、治癒ではない。
選択の省略だ。
痛みを感じる前に、苦しみを口にする前に、世界が介入してしまう。
それは、正しいのだろうか。
彼女は思い出す。
かつて、自分がまだ未熟だった頃。
回復の祈りが間に合わず、目の前で誰かが苦しむのを見た夜。
泣きながら祈って、ようやく光が届いた時、相手が震える声で言った。
――助けて、って言えるだけで、救われる。
願う言葉が、救いになる。
それを、ヴェールは知っている。
だからこそ。
ヴェールは一歩踏み出した。
「待ってください」
声は、思ったより強く出た。
精霊の光が、わずかに揺らぐ。
村人たちが振り向く。
ルージュが息を呑み、ノワールが手帳を開く。
アズルは静かにこちらを見る。
「その方が……治りたいと、言ってからにしてください」
言い終わった瞬間、胸が痛む。
精霊を否定したようで。
村の信仰を壊したようで。
けれど、壊すためではない。
戻すためだ。
精霊が、戸惑った。
初めて見る反応だった。
迷い。
光が弱まり、傷はすでに塞がっているが、完全ではない。
若者は腕を見て、周りを見て、ヴェールを見た。
そして、恐る恐る言った。
「……治して、ほしいです」
その言葉が出た瞬間、精霊は再び動いた。
今度は、ゆっくりと。
痛みを残さないが、過程を消さない。
光が温度を持ち、呼吸を合わせる。
若者の肩が、ほんの少しだけ震える。
震えたまま、息を吐く。
「……ありがとう」
その言葉は、祠に向けた礼とは違った。
自分の言葉で、誰かに向けた礼だった。
ヴェールは、胸に手を当てた。
――選べた。
その事実に、涙が滲みそうになる。
村人の中に、戸惑いが広がる。
誰かが言いかける。
「精霊様は……」
だが、その言葉も途中で止まる。
村人自身が、言葉を続けられない。
それがまた、異常だ。
ヴェールは静かに頭を下げた。
「精霊は優しいです。だからこそ……私たちが、頼り方を間違えてはいけない」
言葉は穏やかに。
しかし芯は譲らない。
精霊が、そっと彼女の肩に触れる気配がした。
怒ってはいない。
むしろ、謝っているように。
それが、さらに胸を締めつけた。
◇
夕暮れ、村を離れる頃、精霊たちは相変わらず静かだった。
だが、完全に沈黙しているわけではない。
迷いながら、寄り添っている。
それは、信頼でもあり、依存でもある。
森を抜けると、風の精霊が一瞬だけ声を立てた。
――揺れる。
その小さな叫びに、ヴェールは胸が熱くなった。
揺れることは、生きていること。
迷うことは、選べること。
夜、焚き火を囲む。
炎は揺れている。
ちゃんと、揺れている。
ヴェールは、焚き火の向こうのアズルを見た。
彼は薪を割り、火の具合を確かめていた。
その仕草が、剣の手入れに似ている。
嘘をつかない手。
選ぶ手。
「……優しさって、誰のものなんでしょう」
珍しく、弱音だった。
ルージュが口を開きかけて、閉じる。
ノワールが手帳を閉じ、静かに耳を傾ける。
アズルはすぐには答えない。
火に薪をくべ、音を確かめる。
「選べるなら……まだ、大丈夫だ」
それだけ言った。
ヴェールは、ゆっくり頷いた。
彼女はその言葉を祈りのように受け取る。
選べるなら。
選ぶことを奪われていないなら。
まだ、戻れる。
その夜、精霊が小さく囁いた。
声ではない。
けれど、確かに伝わる。
――信じられた世界は、形になる。
ヴェールは目を閉じ、その言葉を胸に刻んだ。
それが救いにも、呪いにもなり得ると知りながら。
そして、胸の奥で小さく祈った。
――どうか、誰かの善意が、誰かの自由を奪いませんように。




