memory 25 赤は、知っている
### memory 25 赤は、知っている
夜明け前の空気は、ひどく澄んでいた。
草原の夜は冷える。焚き火の熱が薄れたぶん、肌の上に霜の気配が乗ってくる。遠くで梟が一度鳴き、すぐに黙った。
焚き火はすでに熾火になり、赤い光だけが静かに残っている。薪がはぜる音もしない。ただ、温度だけがそこにある。
ルージュは、その残り火をじっと見つめていた。
眠れなかったわけではない。
眠ろうと思えば、眠れた。
瞼を閉じれば、いつものように意識を沈める術もある。騎士団にいた頃、眠れない夜は何度でもあった。戦の前夜、報告書の締切、上官の叱責――。
でも今夜は違う。
眠りに落ちる直前、必ず思い出してしまう。
昼間の村の光景を。
怒りかけて、やめてしまった声。
拳を振り上げて、下ろしてしまった腕。
魔物でさえ、襲うのを途中でやめた。
それは「優しい世界」だった。
だからこそ、息が詰まる。
優しさは、望んだ形で来るとは限らない。
「……やっぱり、似てる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
王国で見た資料。
分厚い報告書の束。封蝋のされた頁。許可を得た者しか読めない項目。
赤い封蝋には王冠の刻印があった。剥がすとき、爪が痛むほど固かったのを覚えている。
そこに並んでいた言葉が、脳裏をよぎる。
――感情沈静化傾向。
――衝突未成立事例。
――民衆満足度、上昇。
――治安維持コスト、減少。
最後の一行だけ、妙に生々しかった。
原因欄は、いつも空白だった。
正確には、空白ではない。
塗りつぶされていた。
黒いインクで。
「知らなくていい」と言われた部分だ。
――赤が知るべきは、結果だけ。
上官の声が、耳の奥で反響する。
そう、あの人は言った。
ルージュは唇を噛む。
知っている。
完全には知らない。
でも、気づいてしまった。
――これは、自然じゃない。
自分の胸の内側に、冷たい針が一本、刺さっているような感覚。
その針は「王国」という名前をしている。
胸元に手を当てる。旅装の布越しに、心臓の鼓動が伝わる。大きめの胸は、こういうときだけ邪魔だ。呼吸と一緒に揺れて、落ち着けるはずの動作まで落ち着かない。
ルージュは小さく舌打ちして、外套の襟を直した。
焚き火の向こうで、布が擦れる音がした。
「起きてたのか」
低い声。
振り向くと、アズルが立っていた。剣を抱えたまま、静かにこちらを見ている。
寝起きのはずなのに、目が澄んでいる。
それが、怖い。
真っ直ぐな瞳は、隠したものを照らす。
「……あんたも?」
「目が覚めた」
それだけ言って、彼はルージュの隣に腰を下ろす。距離は近いが、触れない。
先日の夜とは違う距離感。
それが、今はありがたかった。
甘い熱は、今夜の話を曇らせる。
ルージュは自分の膝を抱え込む。外套の下で、太腿が冷えていく。
しばらく、二人とも黙って火を見る。
熾火の赤が、少しずつ暗くなる。光は弱いのに、見つめていると視界だけは焼ける。
ルージュの胸元が、呼吸に合わせて上下する。旅装でも隠しきれない膨らみが、赤い光に縁取られる。
だがアズルは視線を向けない。
今は、そういう空気じゃない。
――分かってる。
その「分かってる」が、余計に心を乱す。
「……昨日の村」
先に口を開いたのは、アズルだった。
「どう思った?」
直球すぎる問い。
ルージュは一瞬だけ笑って、すぐに視線を落とした。
「嫌な聞き方ね」
「知ってるなら、教えてほしい」
アズルは嘘をつかない。
だから、問いも真っ直ぐだ。
ルージュは指先を絡める。爪の形を確かめるように。
「全部じゃない」
「それでいい」
「……優しいわね」
そう言ってから、息を吸った。
吐く息が白い。
白い息は、嘘をつけない。
「王国にはね。ああいう現象の報告が、前からあった」
アズルの視線が、わずかに鋭くなる。
「争いが起きない。感情が続かない。結果として、平和が保たれる」
言葉にした途端、焚き火の赤が少し強く見えた。
「原因は?」
「書いてない」
ルージュは首を振る。
「正確には、“書けない”って空気だった」
それは、説明よりも重い。
アズルは焚き火に薪を一本足した。
火が、少しだけ大きくなる。
炎は揺れる。
ちゃんと、揺れる。
その揺れが、昨日の“止まった火”を際立たせて、ルージュは思わず拳を握った。
「王国は、それを良しとしているのか」
「してる人も、してない人もいる」
ルージュは正直に言った。
「下の現場はね、怖がってた。『何かが変だ』って」
騎士団で巡回していた頃、町の兵がぼそりと零した言葉を思い出す。
――最近、子どもが泣きやむのが早すぎる。
――喧嘩が減ったのは良いことのはずなのに、胸が寒い。
兵はそう言って、笑って誤魔化した。
誤魔化せる程度の違和感。
王国が一番好きな温度だ。
「でもね。上に行けば行くほど……結果しか見ない」
平和。
反乱なし。
税収安定。
交易路の安全。
それが揃えば、理由は二の次。
「世界が壊れないなら、それでいいって顔をする」
その言葉に、アズルの指が止まった。
怒りが、静かに立ち上がる。
だが、剣は抜かない。
剣を抜くほど、単純じゃないからだ。
アズルは怒りを、目の奥に押し込める。
それができる男だ。
ルージュは、その抑え方が怖い。
「……もし、その平和が」
アズルが言葉を選ぶ。
「誰かの願いだったら?」
ルージュの胸が、きゅっと縮む。
昨日、彼女が投げ返した問い。
今度は、彼が投げてきた。
「願いなら、悪くない」
ルージュはそう言ってから、続けた。
「でも……無意識なら、もっと厄介」
アズルが顔を上げる。
「無意識?」
「自分が何をしてるか、分からないまま」
世界を。
言い切る前に、ルージュは口を閉じた。
これ以上は、言えない。
鎖が、まだ足に絡んでいる。
鎖は、足だけじゃない。
胸の奥にもある。
――封印。
そう呼ぶほど立派なものじゃない。もっと生々しい。契約の印、誓約の糸、期待の重り。
王国の人間は命令しない。
命令より怖いものを、置いていく。
「……監視役だったんだろ」
アズルの声は、責めていなかった。
確認だった。
ルージュは笑う。
「だった、じゃない」
「今も、完全には抜けてない」
「命令か?」
「いいえ」
即答だった。
「契約。期待。立場。しがらみ」
どれも、命令より厄介だ。
「……誰と契約した」
アズルが聞く。
ルージュは肩をすくめる。
「王国、って言えば分かりやすいけど……実際は“人”よ。顔のある人間」
上官の顔が浮かぶ。
年上の女騎士。笑わない人。正しさのために、自分の感情を切り捨ててきた人。
そして、ルージュに言った。
――あなたは軽く見える。
――だから向いている。
――笑って入り込め。
ルージュはその時、笑って敬礼した。
笑いながら、胸が冷えていくのを感じた。
「報告は?」
アズルが問う。
「……遅らせてる」
ルージュは正直に言った。
「全部は書いてない」
それは小さな裏切り。
けれど、確実な一歩。
ルージュは視線を落とし、腰のポーチに触れた。
中に、小さな紙片がある。
王国の書式で作られた報告用の札。
魔法で文字が浮かび、送信すれば王都の倉庫に記録が転写される。
便利で、恐ろしい。
ここ数日、ルージュはそれに触れるたび、手が震えた。
「今夜も、書いたのか」
アズルが気づいた。
「……途中まで」
ルージュは苦笑する。
「“村で衝突未成立”って書いて、そこで止まった。あとは……書くほど、あんたを売る気がして」
アズルは黙った。
売られる価値がある男だと、自分で言わないところが腹立たしい。
「どうして?」
アズルは聞く。
ルージュは、ようやく彼を見た。
「だって」
笑っているのに、目が潤んでいる。
「あなたが、正しい側に立ったら……私は、間違ってる側になる」
それが、怖かった。
守りたい人と、守ってきた場所が、同時に手から滑り落ちる感覚。
ルージュは、泣かなかった。
泣いたら、決壊してしまうから。
代わりに、いつもの癖で軽口を探す。
「……ねえ、分かってる? 私、こう見えて根が臆病なの」
「知ってる」
アズルが即答した。
その即答が、胸を刺す。
知られたくない部分ほど、見透かされる。
ルージュは笑う。
笑い方が、少しだけ苦しい。
アズルは、何も言わなかった。
抱きしめもしない。
キスもしない。
ただ、隣にいる。
その選択が、今は一番重い。
沈黙が長い。
ルージュは耐えきれなくて、わざと外套の襟を引き、胸元を少しだけ整える。
――ほら、いつも通り。
そうやって自分を保つ。
アズルは視線を逸らしたまま、静かに言った。
「……俺は」
ルージュが顔を向ける。
「正しいかどうか、分からない」
ルージュは驚いたように瞬いた。
英雄の言葉としては、あまりにも弱い。
なのに、その弱さが嘘じゃない。
「でも、選ばないことはしない」
その言葉に、ルージュは小さく息を吐いた。
「ずるいわね」
「そうかもしれない」
でも、嘘じゃない。
空が、少しずつ白み始める。
夜が終わる。
同時に、猶予も終わる。
ルージュは立ち上がり、外套を整えた。豊かな胸元が、朝の光に照らされる。
冷たい空気の中で、体温の境界がはっきりする。
「……一つだけ」
振り返って言う。
「王国は、“原因”を探してるんじゃない」
アズルが眉を寄せる。
「“制御できるかどうか”を見てる」
その言葉は、冷たい。
ルージュは続ける。
「壊れるかどうか。壊れるなら、いつか。誰の手で。止められるか」
アズルは理解した。
だから王国は、急がない。
世界が壊れない限り、様子を見る。
壊れそうになった瞬間だけ、手を出す。
それが、王国のやり方だ。
――だから、あなたたちは今、追われていない。
言葉にすると確定してしまうので、ルージュは飲み込む。
「……教えてくれて、ありがとう」
アズルが言う。
ルージュは肩をすくめる。
「まだ、全部じゃないわ」
「それでいい」
その返しが優しくて、腹が立つ。
優しいくせに、守ると決めたら頑固で、曲げない。
それが、アズルだ。
夜が明ける。
少し離れた場所で、ヴェールが寝返りを打つ気配がした。ノワールが手帳を閉じる音もする。
いつもの朝が来る。
だが、何かが確実に変わった。
ルージュは歩き出す前に、もう一度だけ振り返った。
「ねえ、アズル」
「なんだ」
「……遅らせた報告、いつかバレるわよ」
「だろうな」
アズルは静かに答える。
「その時は」
彼は剣の柄に触れた。
抜かない。
抜かないまま、立つ。
「一緒に考えよう」
その言葉に、ルージュは初めて――ほんの少しだけ、安心した顔をした。
赤い朝日が、二人の影を長く伸ばす。
選択は、まだ続く。
だから、旅も続く。
そしてルージュは、腰のポーチの中の報告札を、そっと握りしめた。
送らない。
今は、送らない。
それがどれほど危険な選択かを、彼女はよく知っていた。




