memory 24 成立しない衝突
memory 24 成立しない衝突
街を離れてから、空はずっと青いままだった。
雲ひとつない、というほどではない。けれど雲はいつも「ちょうどいい」位置にいて、陽射しを邪魔しない。風も強すぎず、弱すぎず、髪を乱す程度にしか吹かない。
平和――。
その言葉が、ここまで露骨に当てはまる景色があるだろうか。
アズルは前を歩きながら、胸の奥の薄いざわめきを指でなぞるように確かめた。消えてはいない。けれど強くもならない。
まるで、火種だけが残っている。
「アズル、歩幅、少し落として」
背後からルージュの声が飛ぶ。
「また?」
振り返ると、ルージュが不機嫌そうに頬を膨らませていた。その隣でヴェールが困ったように笑っている。
「段差でつまずきそうになったんです。ほら、この辺、石が多くて……」
「俺が気づかなかったのか?」
「気づいてたけど、あんた早いのよ」
ルージュは腕を組み、わざと胸を強調するように姿勢を正した。旅装の布地が、必要以上に主張する。
「……わざとだろ」
「わざとじゃないわ。確認よ。あんた、昨日の夜みたいに……ちゃんと気にしてくれてるか」
最後の方の言葉が、小さくなる。
アズルは息を吐いた。
気にしている。
だから、困る。
「……安全に歩くための確認なら、俺は歓迎する」
「そういう意味じゃない!」
ルージュが赤くなるのを見て、ヴェールが柔らかく笑った。
「ルージュさん、可愛いですね」
「やめて!」
そこへ、ノワールが淡々と追いつく。
「本日、移動中接触未遂、一件」
「未遂を記録するな」
「未遂は、傾向の兆し」
いつもの調子だ。
このやり取りが、ひどく安心できてしまう。
だからこそ、アズルは自分を戒める。
安心が、薄すぎる。
◇
昼過ぎ、街道から少し外れた場所に、小さな村が見えた。
木造の家が十数軒。畑と小さな家畜小屋。井戸が中央にあり、そこに子どもたちが集まっている。
村は静かだった。
鳥の声と、遠くの水音だけが聞こえる。
「休憩にちょうどいい」
アズルが言うと、ヴェールが頷く。
「精霊の気配も穏やかです。水も綺麗」
「……穏やかすぎる」
ノワールが小さく付け加える。誰にも聞こえないくらいの音量だったが、アズルの耳には届いた。
村の入り口に立つ老人が、こちらを見つけて微笑んだ。
「旅の方々かい。水ならある。休んでいくといい」
その声は優しい。
優しすぎて、角がない。
礼を言い、井戸の近くで水筒に水を汲む。子どもたちが興味深そうに覗き込むが、騒がない。
「剣のお兄ちゃん、強い?」
少年が尋ねる。
「それなりに」
「ふーん。じゃあ、悪い魔物もやっつけられる?」
「必要なら」
少年は笑って頷く。
そこで終わりだった。
普通なら、もっと無邪気に騒ぎ、もっと遠慮なく質問し、もっと感情が跳ねる。
だがこの子は、笑うだけで満足してしまう。
その笑顔が、どこか乾いて見えた。
◇
村の集会所らしい小屋の前で、数人の大人が集まっていた。
声は聞こえる。
けれど、怒鳴り声がない。
「だから、違うって言ってるだろ」
「分かってるよ。でも……」
「でも、なんだ」
言葉が、途中で萎む。
アズルは足を止めた。
視線の先には、若い男が一人、肩を落として立っている。村人たちは彼を囲んでいるが、誰も詰め寄らない。
「何かあったのか」
アズルが声をかけると、老人がゆっくり振り向いた。
「ああ……いや、まあ……」
老人は口を開くが、言葉を続けきれない。
代わりに、別の男が説明した。
「村の備蓄の干し肉が、少し減ったんだ。こいつが……持ち出したんじゃないかって」
「俺じゃない!」
若い男が反論した。
だが、その反論も途中で力を失う。
「……俺じゃ……ない。たぶん……」
自分で自分の言葉に、納得しようとしてしまうような口調。
周囲の村人も、眉を寄せたまま沈黙する。
「じゃあ、誰が?」
アズルが問う。
「さあ……分からん」
男が肩をすくめる。
「でも、誰かがやったんだろ?」
「だろうな」
「なら、探さないのか」
「探す……か」
その言葉が空中でほどける。
怒りがないわけじゃない。
不満がないわけでもない。
ただ、最後まで辿り着かない。
衝突が成立しない。
アズルの背中に、ひやりとしたものが走った。
ヴェールがそっと隣に来る。
「精霊が……黙っています」
「怯えてる?」
「違います。怯える理由を、思い出せないみたいに」
第23話で聞いた言葉と、同じだ。
ルージュは村人たちを見回し、唇を噛んだ。
何かを知っている顔。
だが、言わない。
ノワールは手帳を開き、淡々と書く。
「争い未完。感情収束、早すぎる」
「……おい」
アズルは一歩前に出た。
若い男の前ではなく、村人たちの前に。
「怒るなら、最後まで怒れ」
村人たちが目を丸くする。
「疑うなら、最後まで疑え」
アズルは続ける。
「許すなら――自分で選べ」
静けさが、張りつめる。
井戸の水音が、やけに大きい。
アズルは剣の柄に手を置いた。
抜かない。
抜かないが、逃げもしない。
剣は嘘をつかない。
だから、今の自分の言葉も嘘にしたくない。
その瞬間――空気が、わずかに揺れた。
風が一度、止まる。
村人の誰かが、喉を鳴らした。
「……怒ってたんだ、俺」
最初に口を開いたのは、干し肉が減ったと言った男だった。
「怒るのって、疲れるから……途中でやめちまった」
彼は自分の胸に手を当て、ゆっくりと息を吐く。
「でも……やめたままじゃ、ずっと気持ち悪いな」
その言葉が出た瞬間、村人たちの表情が少しだけ変わった。
眉が寄り、目が細まり、口角が下がる。
怒りの形。
久しぶりに見る、人間の「棘」。
若い男が顔を上げた。
「俺じゃない。俺は……腹は減ってた。でも、盗んでない」
今度は言い切った。
空気が揺れる。
揺れてしまったことに、誰かが驚いている。
まるで、揺れてはいけないとでも言うように。
◇
その時だった。
村の外れから、悲鳴が上がった。
子どもの声。
アズルが駆け出す。ヴェール、ルージュ、ノワールが続く。
畑の端、草むらの陰から――小型の魔物が二体、姿を現していた。
狼に似ているが、目が妙に白い。牙は鋭いのに、唸り声が弱い。
村の子どもが尻餅をつき、泣きかけている。
アズルは迷わず前に立った。
剣を抜く。
名を叫ばない。
ただ、踏み込む。
魔物が飛びかかろうとして――止まった。
前脚が宙で固まる。
次の瞬間、魔物は尻尾を丸め、後退した。
「……逃げる?」
ルージュが眉を寄せる。
魔物は怯えている。
いや、怯えるというより……迷っている。
攻撃を「最後まで」できない。
アズルは剣先を向けたまま、距離を詰める。
魔物は唸り声を出し――その唸り声も途中で消えた。
白い目が瞬く。
そして、くるりと背を向けて走り去った。
残ったのは、踏み荒らされた畑と、呆然とする村人たち。
勝利。
なのに達成感がない。
手応えが、途中で途切れる。
ヴェールが子どもに駆け寄り、頭を撫でる。
「大丈夫。怪我していません」
治癒の光は使わない。
使う必要がない。
必要がないことが、喜ばしいはずなのに――胸が重い。
ノワールが畑を見回し、足跡を確認する。
「魔物の動きが不自然。襲撃意思、未完」
ルージュは歯を噛み、空を睨んだ。
何かに苛立っている。
それは魔物ではなく、見えない「何か」に。
◇
村に戻ると、先ほどの話し合いの空気は少しだけ変わっていた。
村人たちは互いに言葉を交わし、干し肉の倉庫を確認し、足跡を探す。
怒りも、不満も、完全ではない。
だが、さっきより「進んでいる」
アズルはその変化を見て、剣を鞘に収めた。
抜いた剣は嘘をつかない。
だから、抜いた意味は残る。
「旅の方、ありがとう」
老人が頭を下げた。
「……いいえ。礼を言われることはしていません」
アズルは正直に答えた。
老人は困ったように笑う。
「それでも、言わせてくれ。最近、この村……怒り方を忘れかけていた」
その言葉に、ヴェールが目を伏せる。
ルージュが拳を握り、ノワールが手帳に線を引いた。
そして、アズルの胸の火種が、少しだけ大きくなった。
◇
日が沈む前に、一行は村を離れた。
追いかけてくる者はいない。
引き止める声も、泣き声も、ない。
夕暮れの草原は美しく、虫の音がやわらかい。
近くの小川のそばに野営を決め、焚き火を起こす。
火は揺れる。
揺れるはずだ。
「冷えるね」
ルージュが肩をすくめる。
ヴェールがさっと外套を広げ、自然にアズルの隣に座った。距離が近い。胸元の温度が、火より先に伝わる。
「アズル、風よけになります」
「……助かる」
その直後、ルージュが反対側から座り、わざと肩を押し付ける。
「こっちも、風よけ」
「お前は風だろ」
「ひどい!」
ノワールは無言で毛布を一枚投げてよこした。
「三角形。安定」
「誰が三角形だ」
「重心は、胸部が支配」
さらりと言うので、ルージュが目を吊り上げる。
「ちょっと!」
ヴェールは赤くなりながらも、どこか誇らしげに胸元を整える。
アズルは咳払いで誤魔化した。
こういう時間が、確かに好きだ。
好きだが――。
焚き火の向こう、闇の奥に、昼の違和感がまだ残っている。
「……なあ」
アズルは、火を見つめたまま言った。
「この平和は、誰のものだ?」
風が、ふっと弱まった。
虫の音が遠のく。
火が揺れない。
ほんの一瞬。
まるで世界が、呼吸を止めた。
ヴェールが小さく息を呑み、ルージュが唇を噛む。
ノワールが手帳を閉じた。
次の瞬間、風が戻り、火が揺れた。
虫の音も戻る。
何事もなかったかのように。
だが、アズルは確信した。
――今のは、偶然じゃない。
どこかに「手」がある。
見えない手。
善意の手。
そして、無意識の手。
アズルは剣の柄に触れた。
抜かない。
抜かないまま、選ぶ。
「明日も進む」
自分に言い聞かせるように呟く。
ヴェールが頷いた。
「はい。進みましょう」
ルージュが小さく笑った。
「当たり前。あんたの背中、見失う気ないから」
ノワールは短く言う。
「記録は、続く」
焚き火は揺れた。
今度は、ちゃんと。
その揺れを確かめながら、アズルは夜の中で目を閉じた。




