memory 23 平和な朝と、揺れる噂
memory 23 平和な朝と、揺れる噂
朝の光は、あまりにも穏やかだった。
窓から差し込む淡い日差しに、アズルはゆっくりと目を開ける。天井の木目が、昨日と同じ位置にある。宿屋の匂いも、布団の擦れる音も、何も変わらない。
昨夜は久しぶりに、夢を見なかった。
何かを思い出しそうで、結局何も掴めない――そんな中途半端な感覚すら、今朝はない。
静かすぎるほどの平和。
それが、少しだけ不安だった。
旅の朝はいつも忙しい。剣の手入れ、装備の確認、次の水場の位置。頭の中で当たり前に回るはずの段取りが、今日は妙に滑らかで、引っかかりがない。
平和は、手触りが薄い。
まるで、磨きすぎた石みたいに。
アズルは上体を起こし、枕元に置いた剣に手を伸ばす。鞘の紐を直すだけの動作で、胸の奥が少し落ち着く。
――剣は、嘘をつかない。
そう思った瞬間、記憶の底で何かが動いた気がした。
手を止める。
けれど、形にはならない。いつものことだ。
ため息を飲み込み、部屋を出た。
廊下に足を踏み出すと、既に宿は朝の気配に包まれていた。食堂から漂う焼きたてのパンの匂い。階下から聞こえる食器の音。どれも旅ではよくある光景のはずなのに、どこか作られた舞台のようにも感じられる。
――考えすぎか。
そう自分に言い聞かせながら歩いていると、前方でヴェールの後ろ姿が見えた。
彼女は朝の掃除をしているらしく、床に落ちた小さなゴミを拾うため、前屈みになっている。薄手の服越しでもはっきり分かる柔らかな曲線が、視界に飛び込んできた。
「……っ」
アズルは反射的に視線を逸らした。
剣を握るよりも速い判断だった。戦場では躊躇しないのに、こういう場面では体が勝手に動く。
「おはようございます、アズル」
ヴェールは何も気づいていない様子で、穏やかに微笑む。
「あ、ああ……おはよう」
それだけ返して通り過ぎようとした、その直後。
背後から軽やかな足音が近づいた。
「ずいぶん早起きね?」
声と同時に、ルージュがすっとアズルの隣に割り込んできた。肩が触れる距離。さらに、わざと胸元を押し当てるように立つ。
「……!」
アズルは身動きが取れなくなる。
柔らかさの主張が、朝の空気よりも明確だった。
「昨日は同じベッドだったのに、今さらそんな反応?」
からかうような声。確信犯だ。
「ル、ルージュ……」
「なに?」
視線を合わせると、赤い瞳が楽しそうに細められていた。
昨日の夜――泣いて、抱きしめて、キスをして。
あの瞬間の熱が、今も残っている。なのに彼女は、それを軽口で包んで見せる。弱さを見せたくないのか、照れ隠しなのか。あるいは、その両方か。
「え? 何かあったんですか?」
ようやく状況を察したヴェールが、不思議そうに首を傾げる。その動きで、さらに柔らかな圧が増した。
アズルは心の中で静かに叫ぶ。
――朝から試練が多すぎる。
「まあまあ、二人とも。廊下で押し合いは危ないですよ」
ヴェールは素直に心配しているだけで、距離が近い。母性的というより、包囲だ。
ルージュはわざとらしく肩をすくめる。
「押し合いじゃないわ。確認よ。あの人、昨日のことちゃんと覚えてるかって」
「……覚えてる」
アズルが短く答えると、ルージュは一瞬だけ、目を細めた。
嬉しいのか、怖いのか、判別できない複雑な影。
けれど、すぐに彼女は笑った。
「なら、よし」
少し離れた場所では、ノワールが既に起きており、壁にもたれて手帳に何かを書き留めていた。視線は冷静そのものだが、ペンの動きだけが妙に速い。
「……接触距離、短縮。感情反応、顕著」
「聞こえてるからな」
アズルが言うと、ノワールは何事もなかったように視線を戻した。
「記録は、嘘をつかない」
小さく呟く。
その言葉だけが、妙に重かった。
◇
朝食の席は、驚くほど穏やかだった。
宿の食堂には、旅人や地元の者が混じっている。窓際の席では老夫婦がゆっくりとスープを飲み、奥では若い商人たちが今日の相場を笑いながら語っている。
皿の上のパンはふかふかで、卵は香ばしい。
――美味しい。
その「美味しい」が、余計に不安を呼ぶ。
平和な味は、時に現実感が薄い。
そんな時、隣の席からふと耳に入ってきた会話が、空気の芯を変えた。
「最近さ、この街……喧嘩、見なくなったよな」
「確かに。怒ろうとしても、途中でどうでもよくなるんだ」
「それ、昨日も聞いたぞ」
「笑えるくらいだよ。文句言う前に、腹減って終わる」
店主の声が混ざる。
「平和でいいじゃないか。客も減らないしな」
周囲が笑う。
誰も不満そうではない。ただ、どこか引っかかる言い回し。
アズルは無意識にパンを握る手に力が入っているのを感じた。
「……感情が、途中で消える?」
小さく呟くと、ヴェールがわずかに眉を寄せる。
「精霊たちの流れも、少し均一すぎます。澱みはないのに……波がない。人の心が揺れれば、あの子たちも揺れるはずなのに」
「波がないのは、良いことでは?」
ルージュが言う。口調は軽いが、目は真剣だった。
「良いこと……のはずです。なのに、違和感がある」
ヴェールは少しだけ言い淀む。
「花が揺れない庭を、綺麗だと思うことはできます。でも……風が吹かないのは、自然じゃない」
ノワールが淡々と補足する。
「記録上、衝突件数が減りすぎている。怪我人も、盗難も。統計的に不自然」
「統計って……」
ルージュが肩をすくめる。
「忍びは、数字も使うのよ」
ノワールの返しは、いつも通り無駄がない。
ルージュは一瞬、視線を伏せた。何かを思い出すような表情。
それはアズルにも見えた。
――彼女は、知っている。
知っていて、言わない。
葛藤の匂いがする。
だがルージュはすぐに、いつもの軽さを取り戻す。
「平和ボケってやつじゃない? 旅人が増えれば、街も丸くなるわよ」
「……そうだといいが」
アズルは答えながら、自分の胸の奥に残るざわめきを誤魔化せなかった。
食堂の笑い声は明るい。
それなのに。
怒りの話をしているのに、誰も眉をひそめない。
怒りが薄れていることを笑っているのに、怖がらない。
それが普通なら、何も問題はない。
けれど、普通が薄い。
◇
食後、外に出ると空は澄み切っていた。
街道に出る前に、必要なものを買い足す。干し肉、干し果実、簡易の薬草。ヴェールが香草の束を手に取って、店主に丁寧に礼を言う。
「精霊たちが喜びます」
「へぇ、精霊も腹が減るのか」
「食べはしません。香りが好きなんです」
そんな会話すら、微笑ましい。
……微笑ましすぎて、嘘みたいだ。
露店の前で、子どもが泣いていた。
どうやら玩具を壊してしまったらしい。母親が叱りかける――その瞬間、母親の声が途切れた。
「もう……本当に……」
言葉が続かない。
母親は眉を寄せたまま、口をつぐむ。そして、次の瞬間にはため息をついて、子どもの頭を撫でてしまう。
「……まあ、いいわ。泣かないの」
子どもは涙を残したまま、きょとんとしている。
周囲の客たちは「優しい母親だ」と笑う。
アズルは背中に冷たいものを感じた。
叱ることが悪いのではない。
怒ることも、悪ではない。
怒りは、守るために生まれることもある。
その火が、途中で消える。
それが「平和」と呼ばれてしまう。
――それで、いいのか。
アズルが視線を戻すと、ヴェールが同じ場面を見ていた。
彼女の表情は静かだが、胸元の小さな飾りが、かすかに揺れている。
「……精霊が、息を潜めました」
「怖がってるのか?」
「いいえ。怖がるのを、忘れたみたいに」
その言い方が、胸に刺さった。
◇
宿へ戻り、街を出る準備を整える。
荷物をまとめ、必要な物資を確認する。ノワールが高い棚に置かれた鞄を取ろうと背伸びした、その時だった。
足元が滑り、体が傾く。
「……っ」
反射的にアズルが支える。
腕の中に伝わる、柔らかな感触。
ノワールの動きが一瞬止まった。
彼女はいつも通り無表情で、目だけが瞬きする。
「問題、ありません」
淡々とした声。しかし耳まで赤い。
「……すまない。俺の手が――」
「必要な動作」
ノワールは言い切る。
それが余計に照れを隠しているように聞こえて、アズルは言葉を失った。
そこへヴェールが心配そうに近づいてくる。
「大丈夫ですか? 足、痛めていません?」
包み込むような距離感。胸元が自然に近い。彼女は善意で近づいているのに、物理的な圧が強い。
ルージュがくすくす笑った。
「ちょっと、朝から多すぎない? あんたの両腕、今日は人気ね」
「人気というか……事故だ」
「事故は、狙って起きるものよ」
「起きない」
アズルが即答すると、ルージュは不満そうに唇を尖らせる。
「じゃあ、私が起こす」
「起こすな」
ヴェールが困ったように笑い、ノワールは手帳に一行足した。
「……本日二件目。発生条件:動線の重なり」
「もうやめろ」
こうしていると、確かに平和だ。
笑えてしまう。
だからこそ、怖い。
◇
街の門を抜ける。
見張り塔の兵士がこちらを見ているのに気づいた。
敵意はない。槍の先も下がっている。
ただ――人数ではなく、誰か一人を探すような視線。
アズルは無言で歩き続ける。
平和な街並みが、ゆっくりと遠ざかっていく。
背中に残る視線は、刺すようではない。
確認するような、測るような――。
ルージュが小さく舌打ちした。
アズルだけが気づく程度の音。
「……もう動いてる」
そう呟いたのが聞こえた気がして、アズルは横目で見る。
ルージュは笑っていた。
笑っているのに、手だけが固い。
彼女は、何かを知っている。
そして、何かを恐れている。
けれど今は、言わない。
アズルは追及しない。
言わせることが、正しいとは限らない。
守るべきなのは、答えではなく――選択の余地だ。
街道に出ると、風が吹いた。
草原が揺れる。鳥が鳴く。雲がゆっくり流れる。
自然は、きちんと揺れている。
それなのに、胸の奥は揺れない。
ふと、言葉が漏れた。
「……なあ」
三人が視線を向ける。
「もし、誰かが平和を信じすぎたら……それは、守るべきものなのか?」
自分でも唐突だと思った。
でも、飲み込めなかった。
答えは簡単じゃない。
平和は望ましい。
争いが減れば、救われる命がある。
それでも。
誰かが「怒り」を失ったまま微笑むなら。
それは、本人の意思なのか。
沈黙のあと、ヴェールが静かに微笑んだ。
「守るべきものかどうか……決めるのは、その人自身です」
「……それができない場合は?」
アズルの問いに、ヴェールは少しだけ目を伏せた。
「だから、あなたが選ぶんでしょう?」
彼女の声は柔らかい。
けれど、芯があった。
ルージュが肩をすくめる。
「選ぶの、得意よね。あんた」
ノワールは一拍置いて頷く。
「選択の記録は、残る」
アズルは前を向く。
平和は続いている。
――ブランは、まだ姿を見せない。
その不在が、逆に大きい。
だが、その奥にある違和感から、まだ目を逸らすことはできなかった。
そして、目を逸らさないと決めた瞬間だけ、胸の奥がほんの少し揺れた気がした。
それが、旅の始まりの感覚に似ていることに、アズルは気づかないふりをした。




