memory 22 同じ部屋に、入りたい理由
## memory 22 同じ部屋に、入りたい理由
街は、あっけないほど平和だった。
門をくぐった瞬間に鼻をくすぐったのは、焼きたてのパンの香りだ。石畳の通りには屋台が並び、串焼きの煙がゆるく漂う。子どもが走り、犬が吠え、荷車が軋む。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かがため息をつく。
感情が、そこら中に散らばっていた。
アズルはその散らばりを、妙に懐かしく思った。戦争が終わった後の世界は、どこか薄く、滑らかで、息が詰まることがある。だがこの街は違う。人々は当たり前に不機嫌で、当たり前に幸せそうで、当たり前に忙しい。
「……ここ、ちゃんと“普通”」
ヴェールが小さく呟いた。
彼女の言葉は、祝福みたいだった。
「普通ねぇ」
ルージュは肩をすくめる。
「普通って、こんなにうるさいんだ」
ノワールは周囲を観察しながら、淡々と付け足す。
「うるさいのは、生きているから」
ヴェールがくすっと笑う。
「ノワール、それ正しい」
四人は市場の通りを歩き、食料と水を買い足し、簡単な宿を探し始めた。
夕暮れが近づくにつれて、街の色が変わる。赤い光が窓に映り、酒場からは早くも歌が漏れる。今日という一日を祝う声。
アズルは、剣の重さが少しだけ遠のくのを感じた。
宿屋は、思ったよりも混んでいた。
「四人部屋はないねぇ」
宿主の男は、帳簿を開いたまま困った顔をする。
「二人部屋なら二つ。……それが限界だ」
「交易日?」
ルージュが聞く。
「それもある。近くで祭りの準備が始まってね。職人が増えてる」
宿主は肩をすくめ、悪気なく続けた。
「男一人、女三人? じゃあ男と女で分けるのが一番楽だよ」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、変わった。
アズルは、ただ「どこでもいい」と言いかけた。
だがその前に。
「じゃあ私と」
ルージュが即答した。
迷いがなかった。息を吸うより早い。
宿主が「おや」と目を丸くする。
ヴェールが、ほんの一瞬だけ固まった。
「……待って」
小さな声。
ルージュが振り返る。
「なに?」
ヴェールは頬を少し赤くして、視線を逸らしながら言った。
「その……私も、アズルと一緒がいい」
宿のロビーが一拍、静かになる。
アズルが目を見開く。
「ヴェール……?」
ヴェールは胸元に手を当て、早口になった。
「違うの。違わないけど。えっと……夜は、怖い感情が増えることがあるから。私が一緒の方が……」
言い訳になっていない。
ルージュの口元が、わずかに上がった。
「へえ」
そこで。
「合理的です」
ノワールが、淡々と言った。
全員がノワールを見る。
「夜間の警戒と、情報整理を考えれば、アズルと同室が最適。彼が一番戦闘能力が高い」
正論。
だが、ノワールの目はいつもより少しだけ強い。
ルージュが小さく息を吐いた。
「……なるほど。二人とも、そう来る?」
ヴェールが小声で言う。
「ルージュが即決するのがずるい」
「ずるくない。早いだけ」
「早いのがずるい」
ノワールが付け足す。
「早いのは優位です」
「そこ褒めなくていい!」
宿主が咳払いし、ニヤニヤしながら言う。
「おや? 取り合いかい?」
「違います!」
三人の声が重なった。
アズルは頭が痛くなってきた。
「……俺は、どこでも」
「黙って」
ルージュが被せる。
「アズルが喋るとややこしくなる」
「もうややこしいだろ」
アズルがぼそりと言う。
ヴェールが小さく頷く。
「うん、ややこしい」
ノワールも頷く。
「同意します」
ルージュは二人を見て、しばらく考えるふりをした。
そして、肩をすくめる。
「……分かった。今回は私」
ヴェールが「え」と声を漏らす。
ノワールは眉ひとつ動かさない。
「ただし」
ルージュが指を立てる。
「次は――ヴェールか、ノワールに譲る」
ヴェールが目を丸くする。
「……約束?」
「約束」
ルージュはあっさり言った。
「王国の命令より、ちゃんとしたやつ」
ノワールが即答する。
「記録します」
「しなくていい!」
ルージュが叫び、宿主が腹を抱えて笑う。
「決まりだね。二部屋、押さえるよ」
こうして、二つの鍵が渡された。
部屋に入ると、思ったよりも狭かった。
ベッドが二つ。小さな机。椅子が一脚。窓は小さく、外の喧騒が薄く聞こえる。
ルージュは部屋を見回し、ふんと鼻を鳴らした。
「悪くない」
アズルは荷物を置き、立ったまま落ち着かない。
「座ればいいのに」
ルージュが言う。
「……慣れない」
「何が?」
「こういう……普通」
ルージュは一瞬、驚いたように目を丸くし、すぐ笑った。
「英雄が“普通”に慣れないって、冗談?」
「冗談じゃない」
アズルは真顔だった。
「英雄は、普通を壊す側に立たされる」
ルージュは笑いを止め、少しだけ目を細めた。
「……その言い方、嫌いじゃない」
彼女は装備を外し、髪をほどく。肩まで落ちた赤い髪が、灯りを吸って柔らかく揺れた。
アズルは視線を逸らす。
「目逸らすな」
「逸らしてない」
「逸らしてる」
「……見ていいのか」
ルージュが瞬きをし、それから少しだけ意地悪く笑った。
「見ていいよ。変な意味じゃなく」
アズルは黙って頷く。
沈黙が落ちる。
外からは酒場の歌が聞こえる。
その歌が、二人の間の距離を少しだけ誤魔化してくれた。
「ねえ、アズル」
ルージュがふと、軽い声で言った。
「覚えてる?」
アズルは首を傾げた。
「何をだ」
ルージュはベッドの端に腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
「魔王を倒したら、結婚しようって」
その言葉は、あまりに唐突で。
アズルの思考が、一瞬止まった。
「……」
「約束したのよ。私たち」
ルージュは笑っている。
笑っているのに、目が揺れる。
アズルの胸が、嫌な痛みで締まった。
霧。
頭の中に、霧が立つ。
魔王城。
血の匂い。
赤い髪。
――指輪。
指輪、だったか。
掴みかけた像が、すぐに崩れる。
アズルは、息を吸って、吐いた。
「……そんな約束を、俺たちはしたのか?」
ルージュは小さく頷く。
アズルは、正直に言った。
「ごめん……覚えてない」
その瞬間。
ルージュの口元の笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。
「だよねー」
軽く言おうとして、声が震える。
そして。
ぽろっと、涙が落ちた。
ルージュは慌てて袖で拭こうとする。
「ちょ、ちょっと。今のは違う。ほら、笑い話だから」
言いながら、もう一粒落ちる。
アズルは迷わなかった。
そっと近づき、ルージュを抱きしめる。
彼女の身体が、一瞬だけ硬くなる。
それから、力が抜けた。
アズルは低い声で言った。
「きっと思い出す」
ルージュが鼻を鳴らす。
「……ほんと?」
「分からない」
アズルは正直だった。
「でも、思い出せなくても……その約束が嘘だったとは思わない」
ルージュは顔を上げた。
「……ずるい言い方」
「そうか」
「うん。……でも、嫌いじゃない」
ルージュは涙を拭い、アズルの胸元を軽く叩いた。
「責任感だけで抱きしめたら怒るからね」
「責任感だけじゃない」
「じゃあ何」
アズルは答えに迷った。
迷っている間に、ルージュが先に言う。
「……今のあんたは、ちゃんとここにいる」
その言葉が、静かに落ちた。
二人は見つめ合った。
言葉が途切れる。
外の歌が遠のく。
ルージュが、ほんの少しだけ顎を上げる。
アズルは息を止め、そっと口づけた。
短い。
けれど、確かだった。
ルージュが笑う。
「……ほんとに、した」
「した」
アズルは頷いた。
「記録される?」
ルージュが冗談めかして言い、アズルは少しだけ困った顔をした。
「されない」
「よし」
ルージュは灯りを落とし、布団に潜り込む。
「……寝る。明日も歩く」
アズルはしばらく立ったまま、暗闇の中で呼吸を整えた。
「ねえ」
ルージュが布団の中から言う。
「いつまで立ってるの。怖いの?」
「怖くない」
「じゃあ来て」
命令口調。
アズルは苦笑し、もう一つのベッドに――ではなく、ルージュの方へ歩いた。
「え」
ルージュが小さく声を漏らす。
アズルは言った。
「……眠れそうにない」
「……私のせい?」
「分からない」
正直すぎる。
ルージュはため息を吐き、布団を少しだけ持ち上げた。
「どうぞ」
アズルはその隙間に身を滑り込ませる。
同じベッド。
何かが起きるわけじゃない。
ただ、熱が近い。
ルージュが小さく囁いた。
「……何もしないでね」
「しない」
「即答は腹立つ、してよ」
ルージュはそう言って、背中を向けた。
だが、背中は離れなかった。
アズルは、そっとその背中に手を添えた。
「……おやすみ」
「……おやすみ」
返ってきた声は、泣いていなかった。
夜は、ゆっくり甘く過ぎた。
でも。
何かは確かに、始まっていた。
朝。
扉が叩かれた。
「アズル」
ノワールの声。
「起きていますか」
「……起きてる」
アズルは身を起こし、隣を見る。
ルージュも起きていた。
目が合う。
二人は同時に視線を逸らした。
扉が開く。
ノワールが入ってくる。その後ろからヴェールが顔を覗かせた。
ヴェールは二人の寝具を見て、目を丸くする。
「……同じベッド」
アズルが咳払いする。
「何もない」
言い切る。
ルージュも被せる。
「何もない……よ」
語尾が少しだけ甘い。
ノワールは無表情のまま、淡々と問う。
「昨夜、何かありましたか」
「ない」
アズル。
「ない」
ルージュ。
ヴェールがじっと二人を見る。
「……距離、近い」
「近くない」
アズル。
「近くない」
ルージュ。
ノワールが一拍置いて言う。
「矛盾はしていません。……ただ、説得力が低い」
「うるさい」
ルージュが枕を投げるふりをする。
ヴェールがもじもじして言った。
「……あの、何の話したの?」
ルージュはあくびをし、さらっと言った。
「ちょっと昔話しただけだよ」
アズルは頷く。
「昔話だ」
ノワールは手帳を開く。
「記録します」
「しなくていい!」
ルージュが叫び、ヴェールが笑った。
笑い声が、部屋を満たす。
平和な朝。
普通の朝。
アズルはその音を聞きながら、胸の奥に残る痛みを、静かに撫でた。
思い出せない。
それでも。
今ここにあるものは、嘘じゃない。
彼は小さく息を吐き、窓の外の光を見た。
今日も、歩く。
そして――いつか。
約束の意味を、取り戻す。




