memory 21 残った者たち
## memory 21 残った者たち
街道は、思ったよりも静かだった。
石畳の継ぎ目に溜まった砂が、靴底でわずかに鳴る。風は弱く、木々も揺れない。交易都市へ続くこの道は、戦争が終わってから少しずつ人通りを取り戻しているはずだった。
アズルは歩きながら、違和感を拾っていた。
静かすぎる。
人の気配が薄い。馬の蹄の音も、車輪の軋みもない。代わりに、鼻をつく焦げた匂いが、かすかに残っている。
「焚き火跡……新しいわね」
ルージュが足を止め、道の脇を指差した。岩陰に黒く焦げた土。燃え残った木片。
「昨夜か、今朝」
ノワールがしゃがみ込み、指で灰を撫でる。
「急いで消している。隠すつもりはあった」
ヴェールは目を閉じ、周囲の空気に意識を沈めた。
「……怖がってる」
「歪みは?」
アズルが聞く。
ヴェールは首を振った。
「ない。怒りと焦りと……空腹。全部、普通」
その言葉に、全員が一度だけ頷いた。
異変ではない。
世界は、いつも通りに荒れているだけだ。
アズルは剣の柄に手をかけ、歩を進めた。
奇襲は、音もなく始まった。
右の林から、低い唸り声。
次の瞬間、影が跳ぶ。
「来る!」
ヴェールの声が、ほんの一瞬だけ早かった。
アズルは前に出る。身体が考えるより先に動く。踏み込み、剣を抜く。
刃がぶつかる乾いた音。
魔族だった。
角の折れた個体。肌に走る古い傷。装備は粗末で、刃も欠けている。
生き残りだ。
背後からも、もう二体。
「数は少ない!」
ルージュが叫び、横から切り込む。迷いがない。躊躇もない。ただ、倒すための動き。
ノワールは一歩下がり、退路を塞ぐ位置に立った。逃げ道を潰す。戦場を狭める。
アズルは、目の前の魔族と間合いを測る。
呼吸が荒い。
視線が定まらない。
恐怖。
だが、それだけじゃない。
――必死だ。
魔族が刃を振る。力任せ。だが速い。
アズルは半歩ずらし、刃を弾いた。衝撃が腕に響く。重い。
次の瞬間、柄で顎を打つ。
魔族がよろめく。
倒れない。
倒れないまま、必死に立ち直ろうとする。
「王は死んだ!」
背後で、別の魔族が叫んだ。
「それで終わりだと思うな!」
声は怒りよりも、絶望に近かった。
ルージュの刃が、その声を途中で断つ。致命ではない。だが、動けなくするには十分。
ヴェールが息を呑む。
「……悲しい」
その感情は、歪んでいない。
ただの戦争の残り滓だ。
アズルは踏み込む。迷いはない。
剣を振るう。
斬るためではない。
止めるためだ。
魔族の武器を弾き、膝を払う。倒れた身体に、刃を向けない。
代わりに、低く言った。
「終わってる」
魔族は、ぎょっとした顔でこちらを見る。
「王も、戦争も」
理解できない。
それでも、身体は止まる。
最後の一体が、背を向けて走り出した。
追えば、追いつける。
アズルは、一瞬だけ足に力を込め――止めた。
「……行かせるの?」
ルージュが言う。
「脅威じゃない」
アズルは答えた。
「生きる場所を探してるだけだ」
それが正しいかどうかは分からない。
だが、追わない。
背中が、森に溶けて消える。
戦いは、終わった。
残ったのは、荒い呼吸と、地面に落ちた武器だけ。
ヴェールがそっと言う。
「……あの子とは、違う」
「ああ」
アズルは頷いた。
「魔族だったわね」
ルージュが肩で息をしながら言う。
「でも、同じじゃない」
ノワールが、静かに書き留める。
魔族残党。統率なし。目的不明。生存目的。
言葉が、記録になる。
アズルは剣を収め、遠くを見る。
丘の向こうに、街があった。
白い壁。
立ち上る煙。
鐘の音。
普通の街だ。
人が暮らし、笑い、喧嘩をして、夜になれば眠る場所。
世界は、まだ終わっていない。
ルージュが息を整え、少しだけ笑った。
「……汗流したいわね」
「宿、あるといいが」
ノワールが言う。
ヴェールは街を見つめ、微かに微笑んだ。
「平和……だと思う」
アズルは、その言葉を胸に刻み、歩き出した。
剣を振る理由は、まだある。
でも、振らなくていい夜も――確かに、そこにあった。
街道を離れ、少し奥へ入ったところで、アズルは立ち止まった。
「……埋めておく」
地面に転がった武器を見下ろし、そう言う。
ルージュが眉を上げた。
「拾わないの?」
「使わない」
アズルは簡潔に答え、折れた刃や粗末な盾を集め、浅い穴を掘り始めた。ノワールも黙って手伝う。ヴェールは少し離れた場所で周囲を警戒していた。
武器を土に埋める行為は、戦利品を否定することに等しい。
それでも、誰も異を唱えなかった。
土を被せ終え、アズルは一度だけ手を止めた。
「……ここで終わりだ」
誰に向けた言葉かは分からない。
ルージュが小さく肩をすくめる。
「優しいわね」
「違う」
アズルは首を振った。
「続けさせないだけだ」
戦争を。
復讐を。
終わったはずの争いを。
再び歩き出すと、街の音が少しずつ近づいてきた。
人の声。
荷車の軋み。
犬の鳴き声。
さっきまでの静けさが嘘のようだ。
ヴェールが息を整えながら言う。
「……大丈夫そう。感情がちゃんと散らばってる」
「散らばってる?」
ルージュが聞き返す。
「怒ってる人も、笑ってる人も、疲れてる人もいる。でも……混ざってない」
それは、均されていないということ。
アズルは、その言葉を噛みしめた。
街の門は開いていた。簡素な検問があるだけで、兵士の表情も緊張していない。
「名前と行き先を」
形式的な問い。
アズルは名を告げ、交易都市へ向かう途中だと答えた。英雄の肩書は出さない。兵士も、それ以上踏み込まない。
街に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
焼きたてのパンの匂い。
布を叩く音。
子どもたちの笑い声。
生きている街だ。
ルージュが伸びをする。
「……ああ、やっと人間の世界って感じ」
ノワールが周囲を観察しながら呟く。
「王国の掲示はあるけど、空気は張りつめていない。ここは、まだ遠い」
遠い――王国の思惑から。
ヴェールは立ち止まり、ふと振り返った。
「……でも」
「でも?」
「さっきの魔族たち。ここには、来られなかった」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
アズルは、街の中を歩く人々を見つめる。
「来られなかったんじゃない」
ゆっくりと言う。
「来る場所が、もうなかった」
それが、戦争の後だ。
ルージュは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに軽く笑った。
「……考えすぎると、飲めなくなるわよ」
「飲むのか」
「当然。今日は生き延びた記念日」
その言葉に、ヴェールが小さく笑う。ノワールも、ほんのわずかに口元を緩めた。
アズルは空を見上げた。
街の上にも、同じ空がある。
剣を振る理由は、まだ消えていない。
だが今は、振らなくていい。
この街には、夜があり、灯りがあり、眠れる場所がある。
――そして、その夜は、確かに彼らを待っていた。




