memory 20 使わなかった、その先で
## memory 20 使わなかった、その先で
森を抜ける風は、少しだけ乾いていた。
ブランは木々の隙間から見える道を遠くに眺め、足を止めた。街道沿いの小さな集落。煙が一本、ゆるく空へ昇っている。人の匂い。パンの焼ける匂い。汗と土と、布の匂い。
近づけば、声がある。
声があれば、感情がある。
ブランは胸の奥に手を当て、静かに息を吐いた。
(……昨日より、ざらざらしてる)
空気がざらつく。怒りが角を持ち、悲しみが深く沈む。昨日までなら、途中で丸くなって消えていったはずの棘が、今日はちゃんとそこに残っている。
――自分が、使わなかったから。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
使わなかっただけで、世界が変わる。
使っても変わる。
どっちにしても、世界は自分の影響を受けてしまう。
ブランは唇を噛んだ。
(……なら、どうするの)
答えは出ない。
それでも、足は前に出た。
同じ頃。
アズルたちは丘を越え、町の外れの小さな商い宿に辿り着いていた。門のある大きな町ではない。街道を行く旅人が、最低限の食糧と水を買うための場所。
看板は古い。
だが、煙突からは湯気が出ている。
「ここなら……」
ルージュが言いかけた。
扉が開く。
出てきた店主の男は、アズルの顔を見た瞬間、笑顔を固めた。
「……あ、ええと」
目が泳ぐ。
視線がアズルの肩を通り、背後の道を確認する。
ノワールが静かに囁いた。
「回っている」
噂。
英雄が妨害者になった噂。
アズルは表情を変えず、口を開いた。
「水とパンを買いたい」
「……あ、ああ。もちろん」
店主は返事をしながらも、半歩下がった。
「……ただ、その……」
続きが言えない。
言えば裏切りになる。言わなければ巻き込まれる。
ルージュが口を挟む。
「値段は払う。迷惑はかけない」
「迷惑じゃない。迷惑じゃないんだが」
店主は急に声を落とし、周囲を見回す。
「王国が……この辺りにも目を光らせてる。『英雄一行に協力した者は疑いの対象』って」
アズルは短く頷いた。
「怖いか」
「怖いさ」
店主は正直だった。
「家族がいる。店もある。……あなたが悪いって言ってるんじゃない。ただ、巻き込まれたくない」
それは、責める言葉ではない。
ただの生活の言葉。
アズルは、それを受け止めた。
「分かった」
彼は腰袋から銀貨を取り出し、台の上に置いた。
「これで、水だけ。パンはいい」
「いや、そんな……」
「いい」
アズルは繰り返した。
「巻き込まない」
店主は躊躇いながら水袋を渡す。
受け取る指先が、ほんの少し震えた。
ルージュが唇を尖らせる。
「……やり方が優しすぎる」
「優しさじゃない」
アズルは言う。
「責任だ」
英雄の肩書が誰かの生活を壊すなら、壊さない方を選ぶ。
その選択は痛い。
だが、痛い方が――まだ、生きている。
集落の外れ。
ブランは木陰から、井戸端を見ていた。
女が二人、水桶を抱えて言い争っている。
「先に汲んだのは私よ」
「朝からずっと待ってたのはこっちよ!」
声は大きくない。
だが、棘がある。
その棘が、消えない。
ブランの胸が、反射的に疼いた。
(……止められる)
預かればいい。
二人の苛立ちの片方を、ほんの少しだけ。
そうすれば、声は静かになる。
けれど。
苛立ちは悪いものなのか。
苛立ちがあるから、順番を守ろうとする。
苛立ちがあるから、誰かに「待たせた」と気づける。
それを消したら。
彼女たちは、何も言えないまま水を汲むだけになる。
不満を飲み込み続けて、いつか別の形で壊れる。
ブランは握った拳を、ゆっくりほどいた。
(使わない)
昨日の選択。
――でも。
女の一人が、水桶を強く引き寄せた。
もう一人の手が滑る。
桶が傾き、水がこぼれ、泥に染みた。
「何してるの!」
声が上がる。
今度は、怒りの火がはっきり点いた。
こぼれた水。
水は大事だ。
それが引き金になる。
ブランの喉がきゅっと鳴った。
(……このままじゃ)
殴り合いになるほどではない。
けれど、言葉が刃になる。
刃は残る。
ブランは、目を閉じた。
力を使う。
でも。
全部を丸めない。
彼女は胸の奥で、糸を一本だけ手繰るようにした。
女たちの感情の束の中から、最も尖った破片――「今すぐ傷つけたい」という衝動だけを、ほんの瞬きほど預かる。
世界が、微かに揺れる。
次の瞬間。
「……っ」
怒鳴りかけた女の声が、途中で詰まった。
顔が歪み、言葉が出ない。
もう一人も、続けて言い返そうとして、唇を噛んだ。
沈黙。
沈黙の中で、二人は自分の手元を見た。
こぼれた水。
泥。
「……ごめん」
先に桶を引いた女が、ぽつりと言う。
「……こっちも」
もう一人が、視線を逸らして言う。
謝罪は薄い。
でも、ちゃんと形になった。
ブランは木陰で、肩を強張らせたまま息を止めていた。
(……やった)
使った。
ほんの少し。
胸の奥が、重くなる。
預かった衝動は、すぐ返さなければならない。
返す時、二人はそれを受け止められるか。
ブランは歯を食いしばった。
(……今じゃない)
今は、彼女たちが水を汲み直す時間だ。
謝った言葉を自分の中で整理する時間だ。
時間を作る。
アズルが言った。
“壊れない方法を探す”
その言葉の意味が、少しだけ形になる。
夕方。
アズルたちは人目を避け、丘の裏に回り込んで休んでいた。
ノワールが紙切れを広げる。
「これ」
王国の新しい通達。
町や宿場に貼られる形式の文言。
ルージュが眉をひそめて読む。
「『近頃、感情の不安定化が確認される。治安悪化の兆し。王国は安定化のため、原因の確保を急ぐ』……」
ヴェールが小さく息を呑んだ。
「不安定化……」
「便利な言葉だ」
ルージュが吐き捨てる。
「人が怒ったら不安定。泣いたら不安定。……人間が人間してるだけなのに」
ノワールが続ける。
「そして、最後の行」
紙の下段。
「『英雄アズルは、当該現象に関与した可能性がある。接触者は速やかに報告せよ』」
ルージュが笑った。
乾いた笑い。
「名指し。完全に指名手配一歩手前じゃない」
アズルは淡々と紙を見た。
「戻れないな」
「戻る気あるの?」
ルージュが問う。
「ない」
アズルは即答した。
「……でも、これで味方は減る」
ノワールが言う。
「情報も入らない。補給も難しい」
「巻き込まれるのが怖いからだ」
アズルは頷く。
「怖がるのは当然だ」
ヴェールが火のない地面を見つめた。
「怖がらせるために、王国は言葉を使う」
「言葉は刃だ」
ルージュが唇を尖らせる。
「で、どうするの」
アズルは空を見上げた。
「遠回りする」
「また?」
「まただ」
アズルは言う。
「誰も巻き込まないように」
その言葉に、ルージュは小さく舌打ちしながらも、否定しなかった。
ノワールが手帳を閉じる。
「……記録は残す。王国が何を言って、何をしたか。彼女が“原因”ではなかったことを」
アズルは短く頷いた。
「頼む」
そして、心の奥にしまった言葉が、ほんの少しだけ浮かぶ。
迎えに行きたい。
だが、追わない。
追わないことで、守る。
夜。
ブランは森の端で身を潜め、焚き火の匂いを遠くに感じていた。
人がいる。旅人かもしれない。野営の灯りがちらちらと揺れる。
近づきたい。
でも近づけば、また感情が触れる。
ブランは掌を見つめた。
さっき、力を使った。
ほんの少し。
預かった衝動は、胸の奥で小さく暴れている。
返さなければならない。
必ず返す。
けれど、返すタイミングは――自分が決めていい。
そのことが、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しい。
(……選ぶ)
選ぶって、痛い。
正解がわからない。
それでも、今日の自分は、昨日より一つ多く選んだ。
使わない。
……そして、少しだけ使う。
ブランは目を閉じ、預かった衝動を思い浮かべた。
怒りの破片。
刃の先。
それを返す時、二人は怒るかもしれない。
それでも、怒っていい。
怒れることが、生きている証だから。
ブランは夜空を見上げた。
星がある。
遠い。
遠いのに、どこか同じだ。
(……あの人も、見てるかな)
答えはない。
それでも、胸の奥の「捕まらない声」が、今日の自分を支えている。
同じ夜。
アズルは野営地で、通達の紙を火にくべる代わりに畳んでしまった。
燃やせば楽だ。
だが、燃やさない。
「残すの?」
ヴェールが小さく尋ねた。
「残す」
アズルは答える。
「俺たちが何をされたかを、忘れないために」
ヴェールは頷き、星を見上げた。
「……今日、あの子、どうしてるかな」
アズルは一瞬だけ息を止め、ゆっくり吐いた。
「分からない」
分からない。
だから追わない。
分からないまま信じることが、今の保護だ。
「迎えに行く日は、まだ先だ」
アズルは小さく言った。
「先にしないと、彼女は選べない」
星は黙って瞬く。
世界は、均されなくなり始めている。
だからこそ、選択の重さが、はっきりと残る。
痛みがある。
その痛みは嘘じゃない。
アズルは星を見上げたまま、誰にも届かない声で呟いた。
「……今日も、生きていろ」
答えはない。
答えがないことだけが、今は救いだった。




