memory 19 同じ空の下で、別の道を
memory 19 同じ空の下で、別の道を
森の朝は、静かすぎるほど静かだった。
葉の先に残った露が、光を受けて小さく震える。鳥の声が一つ、遅れて二つ、遠くへ滑っていく。ブランはそれを聞きながら、眠りから起きるという行為がこんなに重いものだったのかと、ぼんやり考えていた。
夜を越えた。
それだけのことが、彼女には小さな勝利のように思えた。
誰にも見張られず、誰にも追い立てられず、ただ暗さが過ぎて、朝になった。
ブランは膝を抱えたまま、しばらく動けなかった。
自由は、軽いものだと思っていた。鎖が外れれば、走り出せるのだと。
けれど、鎖が外れた瞬間に残るのは、空白だ。
右へ行くのか、左へ行くのか。
どこまで歩くのか。
何を食べるのか。
――全部、自分で決める。
胸の奥が、きしんだ。
ブランはゆっくりと立ち上がり、土の匂いを吸い込んだ。冷たい空気が肺に満ちて、心臓が少しだけ速くなる。
(……生きてる)
その実感は、怖い。
でも、昨日よりは怖くない。
彼女は森の中を歩き出した。足音を小さくする癖が抜けない。枝が頬を掠めても、声を出さない。声を出すことが、誰かに見つかることだと思っている。
しばらく歩くと、遠くに人の匂いが混じった。
煙。焼けた木。温かい布。
村か、家か。
ブランは足を止めた。
近づけば、誰かがいる。
誰かがいれば、感情がある。
感情があれば、溢れることがある。
溢れれば、預かれる。
――預かれば、楽になる。
その思考が、喉の奥に苦く残った。
(……でも)
預かることは、守ることだと、ずっと思っていた。
守ることは正しいと。
だけど、正しさは、ときどき鎖になる。
ブランは深く息を吐き、人の匂いから少しだけ距離を取った。
使わない。
それも、選択。
胸が痛んだ。痛みは、罪悪感ではなく、習慣を手放す時の痛みに似ていた。
同じ頃。
アズルたちは集落から離れ、低い丘の陰に野営の準備をしていた。森へは入らない。森は隠れられるが、追跡もされやすい。王国の部隊は森を得意としている。
ルージュが火起こしの準備をしながら言った。
「ねえ。こうなるって分かってた?」
「分かってた」
アズルは短く答えた。
「じゃあ、なんで平然としてるのよ。英雄って、もっと騒がれるものじゃない?」
「騒がれるのは、役に立つ時だけだ」
アズルは荷物を整えながら淡々と言う。
「役に立たなくなったら、邪魔になる」
ルージュは鼻で笑った。
「自分で言う? それ」
「昔からそうだった」
ノワールが手帳を開き、筆を走らせる。
「今日の布告は、各地に回る。英雄が“妨害者”になったという情報は、王国が望む形で拡散される」
「つまり、宿も借りづらくなる?」
ルージュが顔をしかめる。
「そう」
ノワールは頷く。
「善意の宿でも、王国に目をつけられたくない。情報屋は逃げる。物資は高くなる」
ヴェールが火のそばで膝を抱えた。
「……みんな、怖がる」
彼女の言葉は、誰かを責める響きを持たない。
「怖がるのは当然だ。王国は“怖がらせる”のが上手い」
ルージュが吐き捨てる。
アズルは火を見つめた。
火は揺れている。
揺れているのに、そこにある。
ふと、倉庫の暗がりを思い出す。
声だけの会話。
「ひとりじゃ、むり」
あの一言。
胸の奥が、また少し痛んだ。
追えば、楽になる。
追えば、守っていると自分に言い訳できる。
けれど、それは彼女から選択を奪う。
「……なに、考えてるの?」
ヴェールが小さく尋ねた。
「迎えに行きたくなってる」
アズルは正直に答えた。
ルージュが目を丸くする。
「え、追うの?」
「追わない」
アズルは首を振った。
「……心配だ。だから追わない」
ルージュは言葉を失い、ノワールは一瞬だけ筆を止めた。ヴェールは、静かに息を吐く。
「約束、守ってる」
ヴェールが小さく言う。
アズルは頷いた。
「守るって決めた。なら、守り方も守る」
ルージュが舌打ちする。
「ややこしい男」
「ややこしくしないと、同じになる」
アズルは短く言った。
ルージュは火に枝をくべ、少しだけ声を落とした。
「……でも、ね。あんたが追わないって決めたことで、あの子が助かるのは分かる。でも、あんたの心は?」
アズルは答えなかった。
心は、どうなる。
答えを出すには、まだ早い。
昼。
ブランは小さな沢に辿り着き、手で水をすくって飲んだ。冷たさが喉を通り、少しだけ落ち着く。
水の音は、嘘をつかない。
怖がらせない。
彼女は川沿いに歩き、遠くの道を見下ろす高みに出た。
そこには人がいた。
荷車を引く男。
それに寄り添う女。
後ろをついてくる子ども。
家族かもしれない。
旅人かもしれない。
会話は聞こえないが、空気が揺れる。
疲れ。
焦り。
小さな苛立ち。
荷車の車輪が石に引っかかり、男が強く引く。
うまくいかない。
女が何か言い、男が振り返る。
そこに怒りの火が点きかける。
ブランの胸が、反射的に疼いた。
(……預かれば)
男の苛立ちを少しだけ預かれば、怒鳴り声は消える。
女の不安を預かれば、涙は止まる。
平和になる。
けれど。
彼らの怒りは、本当に悪いものなのか。
苛立ちがあるから、荷車を直そうとする。
不安があるから、休みを取ろうとする。
感情は、進むためにある。
ブランは唇を噛み、拳を握った。
そして、手を下ろした。
使わない。
彼女は木陰に身を隠し、息を潜めた。
男は一度、怒鳴りかけた。
声は途中で詰まり、代わりに深く息を吐いた。
女も何か言いかけて、肩を落とす。
それは、丸められている。
自分が何もしていないのに。
ブランは目を見開いた。
(……わたしが、いなくても?)
世界が勝手に整う。
それは、安心ではなく恐怖だった。
自分の意思と関係なく、世界が均される。
それが続けば、人は怒り方を忘れる。
悲しみ方を忘れる。
それは壊れない平和じゃない。
壊れたまま動かない平和だ。
ブランは両手で耳を塞ぎたくなる。
でも塞がない。
見なければいけない。
彼女は木陰から目を離さず、男たちが荷車を押して石を越えるのを見送った。
小さな達成。
その達成の中に、怒りも苛立ちも、本当は必要だったはずだ。
ブランは胸の前でそっと手を組んだ。
(……選ぶって、こういうこと?)
答えは出ない。
でも、今日一日分の“使わない”を選べた。
それだけで、足が少しだけ前へ出た。
夕方。
アズルたちは次の町へ入る手前で足を止めた。
町の門は開いている。商人が行き来している。兵士もいる。
だが、空気が違う。
兵士の視線が、早い。
見つけるための視線。
ルージュが小声で言った。
「もう回ってるね。噂」
「英雄が妨害者になった噂、か」
アズルは淡々と言う。
「英雄、便利だね。守ってくれる時は英雄。邪魔な時は妨害者」
ルージュが皮肉っぽく笑う。
ノワールが囁いた。
「今夜は町に入らない方がいい。宿は危険。密告の可能性が高い」
ヴェールが門の向こうを見つめ、顔を曇らせる。
「……怖がってる。町の人たち。自分たちが捕まるのが怖いんじゃない。……巻き込まれるのが怖い」
「巻き込まれたくない、は自然だ」
アズルは言った。
「だから、巻き込まない」
ルージュが眉を上げる。
「どうやって?」
アズルは門の手前で向きを変えた。
「遠回りする。少しでも、誰かの生活を壊さないように」
ルージュはため息をつく。
「英雄って、ほんと面倒」
「面倒が嫌なら、帰ればいい」
「帰れないから言ってるの!」
ルージュは唇を尖らせ、少しだけ笑った。
ノワールが小さく言う。
「味方が減っていく。……でも、真実は残せる」
「真実が残っても、守ってくれる人がいなくなったら?」
ルージュが問う。
ノワールは一瞬、言葉を探し、やがて静かに言った。
「その時は、守る人が必要になる。……私たちみたいな」
アズルは火のない空を見上げた。
「守る人は、英雄じゃなくていい」
その言葉は、誰かへの言い訳ではなく、自分への戒めだった。
夜。
ブランは木の根元に背を預け、空を見上げた。
星が出ている。
昨日も見たはずなのに、今日は違って見える。
星は遠い。
遠いのに、同じだ。
ブランは自分の胸に手を当てた。
心臓が動いている。
怖い。
でも、止まっていない。
(……捕まらない声)
あの声を思い出す。
出てこなくていい。
迎えに来ない。
出たい時に迎えに来る。
意味はまだ分からない。
でも、あの声は、自分を“形”にしなかった。
原因にも、道具にも、しなかった。
ブランは目を閉じる。
(……一人で歩いてる。でも……)
言葉にならない感覚が残る。
一人じゃない気がする。
同じ夜。
アズルも、野営地で空を見上げていた。
焚き火の火が小さく揺れ、星が滲む。
ルージュは眠っている。ノワールは手帳を抱えたままうとうとしている。ヴェールは毛布にくるまり、目だけを開けていた。
「眠れない?」
アズルが問う。
「……星、きれい」
ヴェールが小さく言った。
「同じ星、あの子も見てるかな」
アズルは一瞬だけ息を止め、ゆっくり吐いた。
「見てるかもしれない」
「……迎えに行く日は、いつ?」
ヴェールの問いは、責める響きを持たない。
アズルは答える。
「まだ先だ」
言葉にすると、胸が痛む。
でも、痛みは嘘じゃない。
「先にしないと、彼女は“選べない”」
ヴェールは静かに頷いた。
「……うん」
アズルは星を見上げた。
同じ空だ。
同じ星だ。
なのに、道は別だ。
別の道を歩いている。
それでも、どこかで交わる日が来る。
来ると信じている。
アズルは、胸の奥の痛みにそっと蓋をして、最後に小さく呟いた。
「……今日も、生きていろ」
星は何も答えない。
けれど、答えがないことだけが、今は救いだった。




