memory 18 選ばせないという選択
memory 18 選ばせないという選択
朝の光は、やけに白かった。
雲ひとつない空から落ちてくる光は、昨日までの出来事をすべて洗い流してしまうみたいで、アズルは目を細めた。
集落は、静かだった。
昨日の騒ぎが嘘のように、人々は畑に出て、井戸で水を汲み、子どもたちは小さな声で笑っている。
――静かすぎる。
胸の奥で、嫌な感覚が蠢いた。
怒鳴り声がない。
泣き声がない。
昨日、封鎖されかけた村だ。普通なら、誰かが怒っていい。怖がっていい。誰かが王国の鎧を指さして「帰れ」と叫んでもおかしくない。
けれど、畑に出た老人は淡々と鍬を振り、井戸端の女は穏やかに笑って水を汲む。笑い声はある。だが、薄い。紙の上に描いた笑顔みたいに、輪郭だけがある。
アズルは喉の奥に、苦いものが溜まるのを感じた。
(……昨日、力を使ったわけじゃない)
ブランは、確かに昨夜、力を使っていなかった。
それなのに、この「整い」は増している。
世界が、勝手に整っていく。
その感触は、気味が悪かった。
「来たわ」
ルージュが、紙の束をアズルに差し出した。
王国の印章がはっきりと押された命令書。封蝋は新しく、紙はまだ硬い。
「正式命令。魔族存在の確保。協力を拒否した場合は、強制排除も辞さない、だって」
ルージュは読み上げる途中で唾を飲み込み、最後の一文を吐き捨てた。
「視察じゃなくなったな」
アズルは紙を受け取り、内容を一瞥してから畳んだ。
字面は丁寧だ。丁寧な言葉で、人を剥き取る。
「最初から、そのつもりだったのよ」
ルージュは吐き捨てるように言う。
「話し合う気なんて、なかった。視察って言えば、村は抵抗しない。英雄がいるなら、なおさら。……あなたを盾にしたの」
アズルは返さない。
盾にされることは慣れている。英雄という肩書は、便利に使われる。
ノワールは少し離れた場所で、すでに書き留め始めていた。
「命令の発令時刻、視察団の行動履歴、集落の状態。……全部残す」
彼女の筆先は迷いがない。記録は刃ではない。だが、刃より長く残る。
ヴェールは、朝露に濡れた草の上で立ち尽くしていた。
胸元に手を当て、目を閉じている。
「……おかしい」
「何がだ?」
アズルが問う。
「痛みが……ない」
ヴェールは、ゆっくりと目を開けた。
「昨日まで、ずっとあった。怖さも、張り詰めた感じも。息が詰まるのに、どこか優しく丸められてる感じ。でも今は……空っぽ」
空っぽ。
その言葉に、アズルの心臓が一拍遅れて跳ねた。
「まさか……」
彼は、倉庫の方を見た。
「行くぞ」
ルージュが頷き、ノワールが手帳を抱え直し、ヴェールが小さく息を吸う。
倉庫の扉は、昨日と同じように閉まっていた。
だが、近づいた瞬間、アズルははっきりと悟った。
――いない。
扉の前の空気が、軽い。
恐怖の膜がない。
アズルは迷いなく扉に手をかけ、静かに開けた。
ひんやりした空気が流れ出る。
暗がりの中に、人の気配はなかった。
床に残る、微かな温もり。
埃の上に、ひとつだけ残った足跡。
その足跡は、乱れていない。
走った跡じゃない。
誰かが立ち上がり、重心を整え、歩幅を決めて、外へ出た形だ。
そして、扉の影の近くに――。
布の切れ端が落ちていた。
小さな白い糸がほつれた布。
ヴェールがしゃがみ込み、指先でそっと拾い上げる。
「……これ」
「服?」
「うん。たぶん、昨日と同じ。……温かい」
ヴェールの声がわずかに震える。
温かいのは布じゃない。そこにいた人の、残り香だ。
「……いないわね」
ルージュが低く言う。
「血も、争った跡もない」
ノワールが静かに頷く。
「力も使っていない。記録に残らない去り方」
「逃げた、とは言えないわね」
ルージュが倉庫の中を見回しながら言う。
「逃げたなら、もっと雑になる。焦る。ぶつかる。何かを落とす。でもこれは……出て行くって決めた跡」
ヴェールは、倉庫の中央に立ち、深く息を吸った。
「……決めた顔だった」
「見たのか?」
「ううん。感じただけ。でも……怖くは、なかった」
ヴェールは目を伏せる。
「怖いのに、ちゃんと選んだ。そういう感情だった」
アズルは目を伏せた。
追える。
痕跡はある。
方向も、わかる。
扉の外、草の倒れ方。踏みならされた土。朝露の裂け方。
森へ向かう線が、細く残っている。
だが――。
「追えば、王国も追う」
ノワールが淡々と言った。
「私たちが追うということは、ここに“価値がある”と証明すること。王国はそれを待っている」
「囲えば、管理と変わらない」
ルージュが続ける。
「あなたが追えば、英雄が追ってるってことになる。英雄が追うなら、王国は正当化できる。『世界のため』って」
ヴェールは、アズルを見た。
「……追わない、んだよね」
それは問いではなかった。
アズルは、はっきりと頷いた。
「追わない」
胸の奥が、少し痛んだ。
「彼女は、選んだ。出るか、出ないか。ここに留まるか、去るか」
アズルは、倉庫の空間を見回す。
「俺たちは、選ばせるって言った。なら、結果も受け入れる」
ルージュが口を開く。
「でもさ……追わないって、簡単じゃないよ。追えば救えるって思っちゃう。追わないと、見捨てた気がする」
アズルは一瞬だけ、言葉に詰まった。
見捨てた。
その単語は、自分の胸の空白に触れる。
救えなかったもの。救ったはずなのに残るもの。
「見捨てない」
アズルは低く言った。
「追わないだけだ。……追わないことが、彼女の“守り”になる」
ノワールが短く頷き、ヴェールは唇を噛んで同意した。
その時だった。
集落の入り口から、重たい足音が響いてきた。
昨日よりも人数が多い。
鎧の重なり合う音が、はっきりとわかる。
「回収部隊だ」
ルージュが歯噛みする。
騎士たちは、迷いなく倉庫へ向かってきた。
列は崩れない。歩幅も揃っている。
団長格の男が前へ出る。
昨日の視察団長とは別人だ。目つきが違う。最初から排除の準備をしている。
「対象を確認する」
男が言う。
「もういない」
アズルが答えた。
「……英雄の言葉を、信じろと?」
「信じなくていい。見ればわかる」
騎士たちは倉庫を改め、空であることを確認する。
その空白に、苛立ちが満ちた。
誰かが床の足跡に気づき、舌打ちする。
「逃がしたのか」
「逃げたんじゃない」
アズルは、静かに言った。
「行っただけだ」
団長の目が細くなる。
「言葉遊びだな」
「違う」
アズルは一歩前に出る。
「彼女は、捕まらなかった。選んだ。だから、俺たちは追わない」
「追わない?」
団長が小さく笑った。
「お前が追わないから、我々が追う」
その言葉に、ルージュが咄嗟に前へ出る。
「待って。正式命令だからって、住民の同意は? 捜索範囲は? あなたたち、村を踏み荒らす気?」
「村は世界の一部だ」
団長は淡々と言った。
「世界安定のためなら、多少の損耗は許容される」
その瞬間、ルージュの顔から血の気が引いた。
「……損耗?」
人を、損耗。
ノワールが手帳を掲げる。
「今の発言も記録する。住民を“損耗”と呼んだ」
団長は一瞬だけノワールを見て、それから興味を失ったように視線を逸らした。
「記録など好きにしろ。結果がすべてだ」
男はアズルに視線を戻す。
「英雄。貴様は妨害者だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が張り詰めた。
「王国は対象の確保を最優先とする。邪魔をする者は排除する」
ルージュが苦笑する。
「ずいぶん、はっきり敵にしてくれるじゃない」
「理解が早くて助かる」
団長は踵を返した。
「総員、捜索を開始せよ」
騎士たちが散開する。
家々へ向かう者、森へ向かう者、畑を踏み込む者。
住民たちは――。
怯えない。
怒らない。
ただ、薄く笑う。
それが、いちばん怖かった。
アズルは拳を握りしめ、視線を落とした。
(……彼女は、ここにいないのに)
整いが続いている。
世界が、勝手に整っている。
それは、ブランが背負いすぎていたことの証拠でもあった。
「……これで、戻れなくなった」
ノワールが静かに呟いた。
「ああ」
アズルは答える。
「それでいい」
ルージュが鼻で笑う。
「最初から戻る気なんてないくせに」
ヴェールは、倉庫の隙間から差す光を見つめた。
「……あの子、たぶん……私たちが追わないこと、わかってる」
「わかるものか?」
ルージュが問う。
「わかるよ」
ヴェールは小さく頷く。
「だって、約束って……そういうものだから」
アズルはその言葉を、胸の奥に落とした。
一方。
森の中。
朝露が葉から落ち、土に染み込む。
ブランは、木々の間を静かに歩いていた。
足元はまだ不安定だ。
枝が頬を掠め、冷たい露が肌に落ちる。
それでも、歩く。
後ろは、振り返らない。
振り返れば、戻りたくなる。
(……迎えに、来ない)
あの声を思い出す。
迎えに来ない。
でも、出たい時には迎えに来る。
意味は、まだわからない。
わからないのに、胸の奥が少しだけ温かい。
誰にも引っ張られず、誰にも囲われず、歩いている今が、少しだけ誇らしい。
ブランは立ち止まり、深く息を吸った。
肺の奥に、森の匂いが満ちる。
胸の奥で、何かがきしむ。
それは怖さでも、痛みでもない。
――責任。
世界が静かすぎる理由を、彼女は知っている。
だから、歩く。
逃げるためじゃない。
選ぶために。
……でも。
選ぶって、どういうこと?
ブランは立ち止まり、掌を見つめた。
この手で、誰かの痛みを預かってきた。
預かった痛みは、いつか返す。
返す時、相手は耐えられるのか。
返せば壊れる。
返さなければ奪う。
どっちも怖い。
ブランは唇を噛む。
(……ひとりじゃ、むり)
昨日、そう言った。
声にした。
声にしたら、誰かが「いい」と言った。
ブランは、息を吐いた。
それだけで、少しだけ前に進めた。
集落を離れた丘の上で、アズルは一度だけ振り返った。
森は深く、朝霧が薄く立ち上がっている。
そこに、彼女の背中は見えない。
追えば見える。
追えば、間に合う。
でも――。
「……生きていろ」
小さく、誰にも届かない声で呟く。
答えはない。
それでも、胸の奥に確かな感触が残った。
選ばせないという選択をした日。
それが、すべての始まりだった。




