memory 17 声は、まだ届かない
memory 17 声は、まだ届かない
倉庫の中は、冷えた木の匂いがした。
古い板が湿りを含み、金具がわずかに錆び、床には薄い埃が積もっている。外は昼だというのに、ここだけ夜みたいに暗かった。光は隙間から細い糸のように入り、舞う塵を照らすだけで、どこにも届かない。
ブランは膝を抱え、壁に背を預けていた。
息をするたび、胸が小さく上下する。服の布が擦れる音さえ怖い。だから、呼吸を浅くした。浅い呼吸は苦しい。苦しいのに、深く吸う方が怖い。
外の世界の音は、全部「捕まる音」に聞こえる。
鎧が鳴る。
馬の蹄が土を踏む。
命令が飛ぶ。
誰かが「封鎖」と言う。
その単語だけで、背中が強張った。
封鎖。逃げ道を塞がれる。逃げる場所がなくなる。逃げ場がないというのは、つまり――。
(……だめ。出たら、だめ)
頭の中で何度も唱える。
出ない。見つからない。見つからなければ、誰も壊れない。
ブランは目を閉じた。
力を使えば、もっと楽になる。
外の人たちの不安や苛立ちを、少しだけ軽くして、衝突を抑えて――そうすれば、ここで血が流れない。
でも、使ったら。
使った瞬間に、自分が“そこにいる”とわかる。
それが、いちばん怖い。
彼女は唇を噛んだ。
痛みは、現実の証拠みたいで少し安心する。でも、その安心すら、罪みたいに感じた。
(わたしが、いるから)
この世界の静けさが、優しさが、怖いほど整っていることが。
その“整いすぎ”が、いつか誰かの心を壊してしまうことが。
ブランは、自分のせいだと思っていた。
思わないと、立っていられなかった。
外の声が近づく。
複数の足音。焦り。苛立ち。けれど、それらが途中で丸くなっていく感触もある。
誰かが怒鳴りかけて、言葉を飲み込む。
(……やめて)
心の中で叫ぶ。
やめてほしいのは、怒鳴り声じゃない。
怒鳴り声が生まれる前に、丸められて消えていくその感じが、いちばん嫌だった。
自分が何かを奪っている気がする。
相手が悲しむ権利まで、怒る権利まで。
それが怖くて、外に出ない。
でも、出ないせいで、また誰かが追い詰められる。
矛盾の中で、ブランは震えていた。
倉庫の外。
集落の入り口では、王国の騎士団が列を広げていた。
家々の間の道に立ち、畑に踏み込む足を止め、逃げ道になりそうな小径に二人ずつ配置する。
「封鎖を急げ。住民の移動を制限する」
低い声が飛ぶ。
それを受けて、騎士たちは機械みたいに動く。
集落の空気は、重い。
住民たちは不安そうに集まっているのに、泣き声も怒号も大きくならない。小さなざわめきが生まれては、どこかで薄まって消える。
アズルは、その様子を見ていた。
胸の奥が、嫌な熱を持つ。
静かすぎる。
不自然に整っている。
ルージュが騎士団長に詰め寄っていた。
「正式な命令書は? 視察団って言ったわよね。視察で封鎖なんて聞いたことない」
騎士団長は、冷たい目で返す。
「手続きは後で整う。緊急性がある」
「緊急性?」
ルージュは笑う。
「“証拠”もなく? 魔族がいるって言うなら、それを示して」
「証拠はこれから得る」
堂々と言い切る。
その一言に、ルージュの表情が歪んだ。
「……つまり、作るってことね」
ノワールが横から、淡々と口を挟む。
「強制捜索の正当性を記録する。視察団の判断根拠と、住民の同意の有無を、私は残す」
「記録など不要だ」
「不要だと言うことも、記録する」
ノワールは一歩も引かない。
彼女の静かな頑固さは、相手の計算を狂わせる。
ヴェールは、少し離れた場所で目を閉じていた。
胸元に手を当て、何かに耳を澄ます。
痛い。
怖い。
息が詰まる。
その感情が、糸のようにヴェールの内側に触れてくる。
彼女は唇を噛んだ。
(……追い詰めちゃだめ)
彼女が指を差してしまえば、騎士団は一直線にそこへ向かう。
それは救いじゃない。
アズルは、ヴェールの横に立ち、短く言った。
「感じるか」
ヴェールは、頷く。
「……ここに、いる。すごく近い。怖いのに、……耐えてる」
耐えてる。
その言葉が、アズルの胸に刺さった。
「俺が行く」
アズルは即座に決めた。
ルージュが振り向く。
「一人で?」
「一人がいい」
ノワールが手帳を閉じる。
「記録は?」
「残せ。俺は、見せない」
ヴェールが不安そうに眉を寄せる。
「アズル、もし……」
「もし、何かが起きそうなら、俺が止める」
アズルは、そう言って歩き出した。
倉庫へ向かう道は、短いのに長く感じた。
土の匂いが濃い。畑の間の小径。人の視線。騎士の気配。
アズルは途中で剣帯を外し、鞘ごと地面に置いた。
周囲がざわつく。
「武装解除だ」
誰かが小声で言う。
騎士団長が目を細める。
「英雄が、何をするつもりだ」
「何もしない」
アズルは倉庫の前まで行き、扉から三歩離れた場所で止まった。
扉は古く、ところどころ板が浮いている。鍵はかかっていない。力を入れれば開く。
でも、アズルは手を伸ばさない。
扉の向こうに、息がある。
怖さがある。
それが伝わってくる。
アズルは、扉に向かって低く言った。
「……ここにいるんだな」
返事はない。
風が吹く。
倉庫の隙間が鳴る。
アズルは、それでも言葉を続けた。
「出てこなくていい」
言った瞬間、自分の背中に騎士の視線が突き刺さる。
だが、構わない。
「名前も、言わなくていい」
沈黙。
アズルは息を吸う。
「俺は、君を連れていかない」
その言葉が倉庫の中へ染み込むのを待つ。
急がない。
答えを引き出そうとしない。
沈黙が続くほど、外側の圧が強くなる。
騎士団長が何か言いかける気配。
それでもアズルは、扉から目を逸らさなかった。
「……俺たちが争えば、君が怖がる。だから、争わない」
言いながら、アズルは自分の手のひらを見つめる。
かつて剣を握り、命を奪い、守ると決めた手。
思い出そうとすると霧が立つ。
魔王城。
最奥。
何かを――。
胸の奥が空白になる。
アズルは、その空白ごと飲み込み、言葉に戻った。
「怖いなら、怖いって言っていい」
ようやく、倉庫の中で何かが動いた。
木がきしむほどではない。息が変わる。ほんの少し。
そして。
「……こ、わい」
かすれた声。
小さな声。
それでも、はっきり“人の声”だった。
アズルの胸が、痛いほど締まった。
「うん」
彼は頷く。
「怖いままでいい」
倉庫の中の呼吸が、詰まる。
「……みんな、こわれる」
ブランの声は、震えながら続いた。
「わたしが……いると」
アズルは、否定しなかった。
――君のせいじゃない。
そう言えば、きっと楽になる。
でも、それは軽すぎる。
相手の恐怖を、言葉で押し潰すことになる。
だから、アズルは別の言葉を選んだ。
「壊れない方法は、探せる」
沈黙。
「……どう、やって」
微かな問い。
問いというより、息の漏れ。
アズルは扉の前で、ゆっくりと座り込んだ。
視線の高さを下げる。
相手を見上げる形にしない。
「わからない」
正直に言う。
「でも、探せる」
倉庫の中が静かになる。
怖さが、少しだけ形を変える。
「……ひとりじゃ、むり」
その言葉は、刃だった。
小さな声なのに、まっすぐ心に刺さる。
アズルは頷いた。
「一人でやらなくていい」
ヴェールの言葉じゃない。
誰かの理屈じゃない。
アズルの、ただの選択だ。
「俺たちは、君を“確保”しない。君が、どうしたいかを聞く」
倉庫の中で、息を呑む気配。
「……どう、したいか」
ブランはその言葉を反芻した。
まるで初めて聞いたみたいに。
その瞬間。
外側で騎士の足音が強くなった。
「団長、許可を」
「踏み込め。証拠が必要だ」
冷たい声。
ヴェールが遠くで短く息を吸った。
彼女の胸に痛みが走る。
(……怖がってる。すごく)
倉庫の中の恐怖が、膨れ上がる。
膨れ上がった恐怖は、周囲の空気を揺らし、世界を“整えよう”とする。
住民の不安が薄まる。
騎士の怒りが丸くなる。
それは平和だ。
でも、同時に――奪う。
アズルは立ち上がり、扉に近づこうとする騎士たちに手を上げた。
「止まれ」
騎士たちがためらう。
「英雄の命令ではない」
団長が言う。
「命令じゃない」
アズルは低く言った。
「頼みだ。今、踏み込めば、もっと壊れる」
団長の目が細くなる。
「壊れる? 何が」
アズルは答えない。
答えられない。
説明すれば、それは証拠になる。
証拠になれば、確保される。
だから、アズルは一歩、引いた。
扉から離れる。
倉庫の中の気配が、さらに息を詰める。
「……行かないで」
声がした。
小さく、ほとんど聞こえない。
アズルは足を止めた。
振り返らない。
扉を開けない。
ただ、声だけで返す。
「行かない」
「でも……」
言葉が途切れる。
アズルは、そこで初めて“別の約束”をした。
「俺は、“迎えに来ない”」
倉庫の中の呼吸が止まる。
アズルは続けた。
「今、君がここにいる限り、俺は君を連れ出さない。引っ張り出さない。捕まえない」
それは矛盾している。
迎えに来ないと言いながら、ここに立っている。
でも、その矛盾が必要だった。
守るとは、囲うことじゃない。
保護とは、奪うことじゃない。
「君が、出たいと思った時にだけ」
アズルは言った。
「その時、俺は“迎えに来る”」
倉庫の中で、何かが震えた。
涙かもしれない。怒りかもしれない。
それでも、形はわからない。
アズルは、騎士団長の方へ向き直り、声を張る。
「強制捜索はさせない」
団長が鼻で笑う。
「英雄一人で、王国に逆らうか」
「逆らわない」
アズルは静かに言った。
「守るだけだ」
ルージュが一歩前に出る。
「視察団が無手続きで封鎖? それこそ問題よ。あとで騒ぎになる」
ノワールが手帳を掲げる。
「記録がある。あなた方の行動は残る」
団長は一瞬だけ考え、舌打ちした。
「……今日は引く。だが、明日には正式命令が下りる」
「明日も止める」
アズルが答える。
「止められるものならな」
団長は踵を返した。
騎士たちが列を整え、土煙を上げて去っていく。
封鎖は完全ではない。
けれど、種は撒かれた。
集落に残ったのは、安堵のはずだった。
なのに、誰も大きく息を吐かない。
薄い。
感情が薄い。
アズルはその薄さに、背筋が冷えた。
夜。
倉庫の中。
ブランは、まだ暗がりにいた。
外の音は遠のいた。鎧の音も馬の音もない。
それでも、彼女はすぐには動けなかった。
怖さは残っている。
けれど、その怖さの中に、別のものが混じっていた。
――出てこなくていい。
その言葉が、何度も胸の中で反響する。
出てこなくていい。
それは命令じゃなかった。
許可だった。
許されるなんて、思っていなかった。
ブランはそっと息を吸った。
深く吸っても、誰も怒らない。
深く吐いても、誰も見つけない。
(……迎えに、来る)
あの声はそう言った。
でも、今は迎えに来ないとも言った。
意味がわからない。
けれど、わからないのに、心が少しだけ軽い。
ブランは、自分の胸に手を当てた。
まだ震えている。
まだ怖い。
それでも。
捕まらない声がある。
管理しない声がある。
彼女は、目を閉じて、その声を思い出す。
そして、誰にも聞こえないくらい小さく、言った。
「……また、来る?」
返事はない。
当然だ。
それでも、ブランはほんの少しだけ、口元を緩めた。
倉庫の暗がりで。
彼女は初めて、「捕まらない声」を、宝物みたいに抱きしめていた。




