memory 16 近くにいる、という確信
## **memory 16 近くにいる、という確信**
風は穏やかだった。
草原を撫でる音は柔らかく、陽の匂いを運び、遠くの雲をゆっくりと流していく。戦が終わった世界は、こんなふうに静かでいい――そう思えるはずなのに、アズルの身体は小さな棘を踏んだように引っかかっていた。
――静かすぎる。
空気が整いすぎている。人の息づかいが薄い。鳥の囀りさえ、どこか「やり過ぎ」だ。耳に心地いい音が並びすぎると、逆に不気味になる。アズルは、そんな感覚を久しく忘れていた。
この数日、道すがら立ち寄った宿場や小さな村でも、同じ違和感が続いていた。
喧嘩が起きかければ、言葉が途中で萎む。怒鳴り合いになりかけた男同士が、次の瞬間には困ったように笑って肩を叩き合う。
葬儀の場で泣いていた娘が、急に涙を拭って「大丈夫」と言う。大丈夫なはずがないのに。
感情の波が、岸に打ち上がる前に、どこかで「丸められている」。
それは平和なのか。救いなのか。
それとも――。
「……また、だね」
隣を歩くヴェールが、小さく呟いた。彼女は視線を空に向けている。精霊と会話している時の癖だ。
「精霊たちが、ざわついてる。でも、理由がわからないって」
「敵がいるわけじゃない?」
「うん。怖がってる感じでもない。ただ……戸惑ってる」
ヴェールの声は柔らかいのに、言葉は鋭かった。精霊は嘘をつかない。嘘をつけない。だからこそ、理由のない戸惑いは、たいてい“理由が大きすぎて言葉にならない”時に起きる。
アズルは頷いた。
「俺も、似たものを感じる。……肌の上で、空気が一枚薄い」
彼の言葉に、ルージュが肩をすくめた。
「やめてよ。そういう言い方、ぞくっとする」
口調は軽いが、目は笑っていない。元王国側だった彼女は、この違和感が“政策”や“管理”と相性がいいことを、本能的に理解していた。
「世界が、優しすぎるのよ」
ルージュは吐き捨てるように言った。
「優しさは、選べる時にだけ価値がある。選べない優しさは、……鎖と同じ」
ノワールが、歩きながら手帳に何かを書き留める。彼女は記録者だ。言葉にできるものは残し、言葉にできないものは、そのまま“空白”として残す。
「王国は、もう動いてるわ」
ルージュが続けた。
「確定か?」
「ええ。視察団が編成されたって情報が流れてきてる。表向きは“安定化の確認”。でも本音は――」
「原因探し、だろ」
ルージュは無言で頷いた。
ノワールが淡々と口を挟む。
「王国は異変を“現象”として扱う。なら、必ず再現性を求める。再現できる存在がいるはずだと考える。……人ではなく、装置。あるいは資源」
「魔族なら、なおさらな」
アズルは唇を薄く結んだ。
魔王を倒した英雄として、人々からの“ありがとう”を何度も受け取ってきた。
なのに、その“ありがとう”の半分が、いつからか薄くなっている気がしていた。
救われたはずの人が、救われた時の顔をしていない。
――俺は、本当に救ったのか?
その問いが浮かびかけた瞬間、胸の奥に空白が生まれる。
思い出そうとすると、そこだけ霧が立つ。
アズルは目を伏せた。
忘れている。自分が世界に何をしたのか。その“決定的なところ”を。
だが、忘れていても、責任だけは残る。
胸の底で、重い石みたいに。
彼らは丘を越え、町外れの小道へ入った。そこで足を止める。
遠くに小さな集落が見える。囲いもなく、畑と家がぽつぽつと並ぶだけの、地図にも載らないような場所。
特別な場所には見えない。
だが――。
アズルの胸の奥が、じわりと熱を持った。
――近い。
理由はない。証拠もない。気配と呼ぶには曖昧で、予感と呼ぶには確かすぎる。
それでも、確信だけがあった。
「ここだ」
誰に向けたわけでもなく、アズルは言った。
「……何が?」
ヴェールが振り向く。
「“異変”じゃない。原因でもない。――“誰か”が、いる」
ヴェールの表情が変わった。精霊と繋がる時の、柔らかな集中ではない。もっと、人を見る時の顔だ。
「……うん。今、感じた」
「精霊?」
「違う。“感情”」
ヴェールは胸元に手を当てた。
「怖がってる。でも、怯えてるだけじゃない。……守ろうとしてる」
その言葉に、ルージュが小さく息を呑んだ。
「守ろうとしてる、って……誰を?」
「たぶん、ここに住んでる人たち。……それと、自分を」
ヴェールは小さく笑った。
「不思議だね。怖いのに、優しい」
言いながら、彼女はアズルの腕にそっと触れる。無意識の動作だった。精霊に寄り添う時のように。
「……ヴェール」
「え、な、なに?」
触れていた指先に気づいたらしく、ヴェールは慌てて離した。耳が少し赤い。
「いや。……ありがとう」
「そ、それは……ズルいよ」
ヴェールは目を逸らし、咳払いをして歩き出す。ラブコメというほど大げさではないが、張り詰めた空気がほんの少し緩んだ。
「それ、王国が探してる“原因”と一致するわね」
ルージュが、あえて現実に引き戻す。
「一致するのは、“表面”だけだ」
アズルは、視線を集落に向けたまま答えた。
「王国は、力を見る。俺たちは――人を見る」
その瞬間だった。
遠くで、馬のいななきが聞こえた。
土煙とともに、数騎の騎士団が丘の向こうから姿を現す。鎧が陽光を反射し、旗が揺れる。王国の紋章。
「……来たか」
ルージュが舌打ちする。
「思ったより早いわね」
「向こうも、確信したんだろ」
ノワールが静かに言う。
「“ここに何かがある”と」
騎士団は集落の手前で止まり、整然と列を組んだ。その中央に立つ男が、一歩前に出る。
顔立ちは整っている。だが、目の奥が冷たい。感情の温度が低い。
「王国視察団だ。この地に、世界安定化に関わる重要事項があると判断した」
声はよく通り、言葉の端々に命令の匂いが混じっている。
「住民全員の聞き取りを行う。協力を――」
「その必要はない」
アズルが、前に出た。
騎士たちの視線が、一斉に集まる。英雄としての顔は、彼らにも知られているのだろう。ざわめきが小さく走った。
「ここにいる“誰か”は、物でも、現象でもない」
男は眉をひそめる。
「……何を根拠に?」
「根拠はない」
アズルは正直に言った。
「ただ、俺は“人”を探しに来た」
その言葉に、騎士団の空気が張り詰める。男は一瞬だけ沈黙し、それから冷たく告げた。
「我々は、世界の安定を最優先する。そのために必要な存在がいるなら――」
「確保する、か」
ルージュが遮った。
「それが“魔族”なら、なおさら、でしょ」
男は否定しなかった。
「魔族は人間族ではない。管理の対象だ」
――その言葉が落ちた瞬間。
集落の奥で、空気がわずかに揺れた。
誰にも気づかれない程度の揺れ。陽炎のような、感情の滲み。
ヴェールが息を呑む。
「今……」
「感じた?」
アズルが問う。
ヴェールは頷き、唇を噛んだ。
「痛い、って……言ってるみたいだった」
痛い。
身体ではない。心が。
アズルは一歩、集落へ踏み出す。騎士の列がそれを遮ろうとするが、彼は止まらない。
「通してくれ」
「英雄であっても、王国の命令に逆らうことは――」
「命令じゃない。頼んでるんだ」
アズルは男を見据えた。
「ここにいるのは、誰かの“道具”じゃない。俺たちが争えば、あの子はもっと怖がる」
男の目がわずかに揺れた。だが、それは人の迷いではなく、計算の更新に近い。
「……“あの子”と言ったな」
男が低く言う。
「すでに存在を断定している。情報源は?」
「感情だ」
ヴェールが前に出て、はっきり言った。
「ここにいる子は、怯えてる。でも、誰かを傷つけたくなくて、必死に抑えてる」
男は笑わなかった。
「感情は証拠にならない」
「証拠にするから、歪むのよ」
ルージュが吐き捨てる。
「証拠にできる形にするために、あの子を壊す」
ノワールは手帳を開き、短く言った。
「“管理”という言葉は便利だ。管理される側が何を望むかを、考えなくて済む」
男は一瞬だけ黙り、騎士へ顎をしゃくった。
「集落の封鎖だ。逃走を防げ」
騎士たちが動き出す。
その時。
集落の奥――古い倉庫の影で、何かが「息を呑む」気配がした。
目には見えないのに、確かにそう感じた。
アズルの胸が、きゅっと締まる。
怖い。
それでも、出てきてはいけない。
出てきたら、連れていかれる。
――そういう感情が、薄い膜を通して伝わってくる。
アズルは、ゆっくりと声を落とした。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉か、騎士団にはわからない。
「怖がっていい。隠れていい。でも――俺は、君を“確保”しに来たんじゃない」
ヴェールが目を見開いた。
「アズル……」
「俺は、守りに来た」
アズルは集落の奥へ視線を固定する。倉庫の影。そのさらに奥。
「魔族だろうが、魔王の娘だろうが関係ない。君が“どうしたいか”を聞きに来た」
風が一度、止まった。
草の擦れる音が消え、鳥の声が遠のく。
その沈黙の中で、アズルは確信する。
――近くにいる。
王国が言う「原因」ではない。
世界が言う「異変」でもない。
ただ、ひとりの少女が、息を潜めてそこにいる。
魔族の娘。魔王の娘。そして――誰かの未来を背負わされかけている、ひとりの人。
「……見つけた」
アズルは、そう呟いた。
世界の異変でも、王国の目的でもない。
守るべき“誰か”が、確かに、そこにいた。




