memory 149 選ばれなかった道を、選ぶ
# memory 149 選ばれなかった道を、選ぶ
城は、相変わらず静かだった。
静かすぎる、とブランは思う。
風は通っている。足音も、確かに自分のものが響いている。それなのに、急いでいるはずの心と、世界の速度が噛み合わない。
(……遅い)
歩いている。
確かに歩いているのに、距離が縮まらない。
回廊の角を曲がったはずなのに、同じ装飾が目に入る。石壁の模様。床の継ぎ目。天井の光の配置。ここへ来たのは一度だけのはずなのに、見覚えがある。いや、見覚えがあるように「整えられている」だけかもしれない。
「……同じところ?」
立ち止まる。
立ち止まった瞬間、胸の内に苛立ちが生まれた。
昨日までなら、この感情は生まれる前に整えられていた。焦りも、苛立ちも、判断を誤らせる要素として処理されていた。
今日は違う。
焦る。
イライラする。
その感情が、削られずに残っている。
(急がなきゃ)
理由は、はっきりしている。
スカルドが戻る前に、出なければならない。
戻れば、また規範が整いきってしまう。余白は消え、迷う前に決めさせられる世界に戻る。迷っている時間そのものが、悪いものとして処理される。
ブランは歩き出した。
今度は、少し早足で。
けれど――
足が、重い。
重いというより、引き戻される。
引っ張られている感覚はない。拘束もない。ただ、歩幅が自然と小さくなり、角度が微妙に修正される。体のどこにも触れられていないのに、動きだけが「ここまでにしておきましょう」と言われている。
「……邪魔しないで」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
声を荒げても、城は反応しない。
ただ、正しい方向を、もう一度だけ示す。
——こちらの方が安全です。
理解が、遅れて胸に落ちる。
その遅れが、逆に腹立たしい。
(今は、安全とかどうでもいいのに)
安全。最適。推奨。
その言葉は優しくて、優しいからこそ拒みづらい。拒めば、こちらが「悪い」になる。誰も悪者にしないまま、こちらだけが揺れる。
ブランは唇を噛んだ。
走ろうとする。
だが、走れない。
足が縺れるわけではない。身体が拒否しているわけでもない。ただ、「走る必要がない」と理解させられてしまう。
必要がない。
その言葉が、いちばん腹立たしかった。
「必要ある……!」
声が少し大きくなる。
胸の奥で、焦りがぐるぐると回る。
焦っている。
だからこそ、出たい。
だからこそ、ここにいたくない。
それなのに、城は優しい顔をして、歩く速度を整え続ける。
——落ち着いてください。
そう言われている気がする。
落ち着けば、選ばなくなる。
落ち着けば、戻れる。
戻れば、何も起きない。
何も起きないことが、正しい。
その正しさに、苛立ちが膨らむ。
*
ブランは、回廊の分岐で足を止めた。
三つの道がある。
どれも、出入口に繋がっていると理解できる。
どれも、間違いではない。
だが、どれも――
(遅い)
胸の内で、苛立ちがはっきりとした言葉になる。
このままじゃ、間に合わない。
「……もう」
ブランは、思わず拳を握った。
イライラする。
こんな感情、久しぶりだった。
苛立つ自分が嫌で、同時に、苛立てることに少し安心している自分がいる。
整えられていない。
だから、今の自分は確かだ。
それでも、苛立ちは刃になる。
刃になれば、何かを切りたくなる。
切れば、管理になる。
(違う……管理したいんじゃない)
ブランは深呼吸する。深呼吸が「整えられない」ことに、また苛立ちと安堵が同時に湧いた。
*
遠くで、足音がした。
近づいてくる。
ブランは身構える。見張りでも、追手でもないと分かっていても、ここでは「近づいてくる」というだけで心が勝手に構える。
現れたのは灰色の衣をまとった者だった。
昨日食堂で会った、あの人物。
顔は穏やかで、声は柔らかい。敵意も好意もない。ちょうどいい温度の言葉を持ってくる。
「おはようございます」
「……おはよう」
「本日の推奨は、庭の散策です。外気の変化は、精神の安定に寄与します」
その言葉を聞いた瞬間、ブランの中に小さな火花が散った。
(また推奨)
(推奨ばっかり)
ブランは一歩、前に出る。
「わたし、出ます」
言い切ると、胸の内に震えが走った。
言い切った言葉は、戻せない。
戻せないから、決断になる。
灰色の者は、止めない。立ち塞がらない。ただ、目を伏せるようにして言った。
「外は争いを呼ぶ可能性が高いです」
「知ってる」
「安全は、ここにあります」
「安全だけじゃ……だめ」
声が少し尖る。
尖った声が、そのまま残る。
ブランは苛立ちを抑えようとする。けれど抑えられない。抑えられないのに、抑えようとするその動きが、余計にイライラを増やす。
「推奨は、まだ有効です」
灰色の者は、昨日と同じ言葉を繰り返す。
その「同じ」が、ブランを苛立たせる。
同じ言葉で、同じ場所に留めようとする。
留められると、選べなくなる。
「……推奨って、便利だね」
自分でも驚くほど、冷たい言い方になった。
灰色の者の表情が微かに揺れる。
揺れた。
揺れるということは、相手にも余白があるということだ。
ブランはその揺れに気づき、逆に胸が痛んだ。
この人は悪くない。
城の末端で、規範の言葉を運ぶだけ。
それでも、今の自分には、その言葉が邪魔だった。
「……あなたは、わたしを止めたい?」
問いかけると、灰色の者は少しだけ間を置いた。
その間が答えだった。
止めたいわけじゃない。
止めることは、規範の思想に反する。
だから、止められない。
「止めません」
「じゃあ、推奨もしないで」
言ってしまった。
言ってしまった瞬間、胸の奥が痛い。
優しく言えない。
急いでいる。
焦っている。
苛立っている。
それが、今の自分の真実だ。
灰色の者は、淡々と――それでも少しだけ柔らかく言う。
「推奨は、あなたを守るためです」
「守るって……」
ブランは言葉に詰まる。
守る。
その言葉は、いつも誰かの手を取るために使われてきた。
でも今は、その言葉が鎖みたいに聞こえる。
「……守られると、選ばなくなる」
ブランは、唇を噛んで言った。
灰色の者は反論できない。
反論すれば、規範が管理になる。
沈黙が落ちる。
沈黙の中で、ブランは自分の胸の鼓動を聞く。
うるさい。
うるさいまま残る。
残るから、いま急いでいることが嘘じゃないと分かる。
ブランは灰色の者の横をすり抜けた。
「ごめん」
小さく言った。
謝る必要がないと分かっている。
でも、言いたかった。
苛立ちで誰かを切りたくない。
切らないために、急がなきゃいけない。
矛盾みたいな気持ちを抱えたまま、ブランは歩く速度を上げた。
*
そのときだった。
視界が、揺れた。
回廊の先に、風景が重なる。
ひとつではない。
三つ、いや、もっと。
幻惑。
それは、すぐに理解できた。
けれど、嫌な感じがしない。
怖くもない。
むしろ――
「……また、これ」
溜息が出る。
幻惑が見せるのは、どれも“正しい道”だった。
城に戻る自分。
穏やかな部屋で、本を読み、何も考えずに過ごしている。窓辺には柔らかい光。喉の渇きも空腹も、ちょうどよく満たされる。悲しみが浮かんだ瞬間に、温い毛布のような安心がかぶさってくる。
アズルの元へ向かう自分。
荒れた地を走り、やっと辿り着いて、抱きしめられる。「大丈夫だ」と言われる。腕の中で息が整っていく。守られている。心が落ち着く。落ち着いてしまう。
ここで立ち止まる自分。
廊下の真ん中に座り込み、何も選ばない。誰も傷つかない。誰も剣を抜かない。空気は静かで、時間だけが進む。進むのに、何も変わらない。
どれも、間違いじゃない。
どれも、今の苛立ちを解消してくれる。
だからこそ、腹が立った。
「……急いでるんだけど」
幻は答えない。
ただ、囁く。
——今、決めなくていい。
——焦らなくていい。
——正解は、どれも同じ。
その言葉が、苛立ちに油を注いだ。
(違う)
ブランは、歯を食いしばる。
(同じじゃない)
同じだったら、こんなにイライラしない。
焦っている。
焦っている自分を、ここは許していない。
幻惑は、敵意で止めに来ない。
優しさで止めに来る。
優しさで止められるのが、一番腹立たしい。
ブランは拳を握り直した。
壊したい。
この幻を。
この城を。
でも、壊したら「排除」になる。
排除は、管理になる。
自分が嫌っていることを、自分がしてしまう。
その想像が、苛立ちをさらに煮詰めた。
「……っ」
声にならない声が喉に引っかかる。
ブランは、息を吐いた。
吐いた息が、消されない。
その一拍に、ブランは賭けた。
どの幻にも向かわない。
幻を壊そうともしない。
ただ、足を前に出す。
「……今は、選ばない、を選ぶ」
声に出すと、胸の内が少し軽くなった。
軽くなったのは、苛立ちが消えたからじゃない。
苛立ちを抱えたままでも、選べると分かったからだ。
幻は消えない。
けれど、意味を失う。
正解を並べていたはずの風景が、ただの重なりに変わる。
ブランは、その隙間をすり抜けた。
すり抜けた瞬間、胸元のペンダントが、ずしりと重くなった。
光らない。
鳴らない。
ただ、重い。
重いことが、今はありがたい。
重さは、現実だ。
現実があるから、走れる。
*
苛立ちは残っている。
息も少し荒い。
それでも、足は前に進んだ。
城の外郭が見える。
出入口が、すぐそこだ。
扉は――開いている。
閉じられていない。
鍵もない。
鎖もない。
見張りもいない。
その開放が、逆に怖い。
閉じられていないということは、いつでも戻れるということだ。
いつでも戻れる場所は、戻る理由を増やす。
戻る理由は、選ばない理由になる。
ブランは、扉の前で一度だけ立ち止まった。
胸が、上下する。
心臓がうるさい。
それを、城はもう整えない。
整えないから、うるさいまま残る。
残るから、怖い。
怖いから、行ける。
「……行く」
小さく言って、扉を押す。
外の空気が、流れ込んできた。
冷たい。
不均一。
苛立ちが、そのまま残る。
でも――
自由だ。
足元の土は硬く、石はごつごつして、歩きにくい。歩きにくいことが、いまは嬉しい。整えられていないから、踏みしめる感覚がある。
ブランは、数歩だけ外へ出てから、息を吸い直した。
吸った息が冷たい。
冷たさが、胸に刺さる。
刺さる痛みが、消えない。
消えない痛みが、いまの自分を繋ぎ止める。
ブランは、振り返りかけて、やめた。
振り返れば、城がある。
戻れる。
戻れることが、いちばん怖い。
(戻らない)
そう決めると、胸の奥がまた少し痛んだ。
痛みは、選択の代償だ。
ブランは歩き出した。
そして、歩き出した途端に、ほんの一瞬だけ、別の方向を感じ取ってしまった。
アズル。
遠い。
でも、確かにいる。
会いたい。
抱きしめてほしい。
その願いが浮かび、同時に、胸の奥の苛立ちがふっと形を変える。
苛立ちは、寂しさの別名だった。
(今、会ったら……守られる)
守られたら、また選ばなくなる。
守られたら、アズルは剣を抜くかもしれない。
抜いた剣は、正義になる。
正義は、規範になる。
規範は、余白を削る。
同じ構造へ戻る。
ブランは、唇を噛み、進路を変えた。
会うためじゃない。
選ぶために。
胸元のペンダントが、微かに揺れる。
その揺れは、どこか遠い静けさへ向かっている。
紅。
完成。
静止。
幼い頃、安心してしまった場所。
優しい声。
静かすぎる笑み。
(リセラ……)
名前が浮かぶ。
浮かんだ名前が、消えない。
消えないことが、怖い。
怖いことが、嬉しい。
ブランは、歩みを速めた。
急いでいる。
苛立っている。
それでも、誰も切らずに進むために。
選ばれなかった道が、背後に残っていることを感じながら。
それでも、ブランは振り返らなかった。
選ぶために。




