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魔王を倒した後に始まる物語  作者: nime


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memory 15 揺れる水面

## memory 15 揺れる水面


 朝の鐘が鳴った。


 水門の町リュミエルは、いつも通り目を覚ましたはずだった。


 運河には船が出て、橋の上には人が集まり、市場では声が飛び交う。パンを焼く匂い、果物の甘さ、魚の生臭さ。平和で、賑やかで、整っている朝。


 ――だが、どこかが違う。


 アズルは最初、それを“気分”だと思った。


 ダンジョンから帰ってきたばかりだ。心が緊張を引きずっている。町の明るさが、逆に眩しく感じる。そういうことはある。


 けれど、違和感は気分ではなかった。


 精霊の動きが、一拍遅れている。


 風は吹いているが、荷車を押すまでにわずかな間がある。水の精霊は運河の流れを調整しているが、反応が鈍い。火の精霊も、屋台の火を最適な強さに保つのに、ほんの少し迷っている。


 精霊は気まぐれで、時にサボる。


 けれど、この町の精霊は違った。昨日までは“働きすぎる”ほど揃っていた。それが揃って遅れるのは、偶然ではない。


 人々は笑っている。


 だが、その笑顔が完成するまでに、ほんの一瞬の“間”があった。


 目元が先に笑って、口角が遅れて上がる。


 冗談に反応する声が、一拍遅れる。


 誰も気づかない程度のズレ。


 それでも、積み重なれば町全体の“調子”が変わって見える。


 ノワールはそのズレを見逃さなかった。


「……均しの反応速度が、落ちている」


 小さな声で告げる。


 ルージュは肩をすくめて、平然を装った。


「町が寝ぼけてるってこと? かわいいじゃない」


 軽口の形をしているのに、目は笑っていない。


 ヴェールは胸元の精霊石を押さえ、耳を澄ませるように瞼を伏せた。


「……声が、散ってる」


「散ってる?」


「うん。昨日までは、町全体が一つの呼吸みたいに揃ってた。今は……小さな呼吸が、ばらばらに動いてる」


 アズルは答えず、町の水面を見つめていた。運河に映る空が、わずかに揺れている。風のせいではない。


 水面が揺れるとき、この町では何かが起きる。


 それを、身体が先に覚えてしまっている。


 午前、騒ぎが起きた。


 水門の外側で見かけた男――元商人が、町の内側へ入ろうとしたのだ。


 理由は単純だった。取引の相談。町に残した道具の回収。ただそれだけ。


 彼は逃げたわけではない。


 追い出されたわけでもない。


 ただ、町に馴染めなかっただけ。


 そして今日は、馴染もうとした。


 水門の近くに集まった人々は、彼を見ても特別な顔をしなかった。笑って挨拶をする者もいた。


「久しぶり」


「戻ってきたの?」


 言葉だけなら優しい。


 だが、空気が彼の周りだけ薄くなる。


 水門を越えた瞬間、男の顔色が変わる。


 足取りがふらつき、呼吸が乱れる。


「……っ」


 男は膝をついた。


 吐き気を堪えるように口元を押さえ、額に汗が浮かぶ。目が焦点を失う。


 精霊が集まる。


 いつもなら、助けるための反応だ。


 だが今回は違った。


 風が男から距離を取り、水が彼を避ける。火は近づかず、土は硬さを増す。


 まるで、触れてはいけないものを避けるように。


 周囲の人々も、無意識に一歩下がった。


 拒絶。


 町が、彼を拒んでいる。


 水番が慌てて駆け寄り、男の肩を支える。


「外で……深呼吸しよう」


 声は優しいが、手つきは慣れていた。


 男は反論しなかった。ただ、唇を噛みしめて、水門の外へ戻っていった。


 外側に出た瞬間、男は膝をついたまま大きく息を吐いた。


「……くそ」


 それだけ言って、笑おうとした。


 笑えなかった。


 それを見ていた人々は、もう視線を逸らしていた。


 誰も追わない。


 誰も責めない。


 誰も、覚えていないみたいに。


 アズルは胸の奥が冷えていくのを感じた。


 これは排除だ。


 優しさの顔をした、静かな排除。


 市場に戻ると、別の出来事が起きていた。


 露店の前で、老人が立ち尽くしている。


 手にしていた小さな包みが、地面に落ちていた。中身は、割れた指輪。


 古い金属で、飾りは簡素だが、長く使い込まれた痕がある。指輪の内側には、小さな刻印があった。誰かの名前だろう。擦れて読めない。


 形見だった。


 老人の指先が震える。


 拾おうとして、拾えない。


 拾った瞬間に、現実になってしまうから。


 老人の肩が、わずかに震える。


 泣きそうになる。


 ――いつもなら、ここで均しが入る。


 笑顔、慰め、精霊の介入。


 だが、起きなかった。


 精霊が戸惑う。


 風が吹きかけるのを躊躇し、水は動かず、人々の反応が遅れる。誰かが一歩踏み出しかけて、止まる。


 空白。


 感情が、そのまま宙に浮いた。


 アズルは気づいた。


 ――今なら。


 均しが間に合わない。


 間に合わないなら、別のものがそこに入る。


 自分の行為が。


「……今なら」


 呟きは喉の奥で消えた。


 言葉にしなくても、身体が動いた。


 老人の前に膝をつく。


 壊れた指輪を拾い上げ、掌に乗せる。冷たい。金属の冷たさが、悲しみの輪郭をはっきりさせる。


 老人の目が、指輪に吸い寄せられる。


 アズルは、胸の奥に湧き上がる衝動を抑えた。


 直す。


 魔法で繋ぐ。


 何でもできる。


 でも、それをしたら――また均される。


 悲しむべき瞬間が、消える。


 だから、アズルは言った。


「辛いな」


 それだけ。


 慰めではない。


 解決でもない。


 ただ、一緒に悲しむという行為。


 町の空気が、揺れた。


 精霊が、沈黙する。


 均しが止まった。


 止まった、というより。


 止められた。


 誰かが悲しみを“受け取った”瞬間、均しは代わりの役割を失う。


 ヴェールが息を呑む。


「……そうか」


 彼女は、何かを理解した顔をした。


 老人は、しばらく呆然とアズルを見ていたが、やがて目を伏せた。


「……ああ」


 小さく、息を吐く。


 涙が、一滴だけ落ちる。


 それを、誰も止めなかった。


 止められなかった。


 水面が大きく揺れる。


 運河の波が橋脚に当たり、音を立てる。いつもなら穏やかな水が、短い怒りを見せた。


 屋台の火が一瞬大きく揺れ、風が乱れ、果物がころりと転がる。


 人々は戸惑い、視線を交わす。


 怒りも、笑いもない。


 ただ、「どう反応すればいいか分からない」沈黙。


 その沈黙が、町にとって一番危険なものだ。


 均しは沈黙を嫌う。


 沈黙は、感情が自分の足で立ち上がるための時間だから。


 やがて、空気が戻ってくる。


 精霊が再び動き出し、町は賑やかさを取り戻す。


 誰かが冗談を言い、誰かが笑い、別の誰かが拍手をして、場が再び滑らかになる。


 けれど、完全ではなかった。


 老人は涙を拭い、指輪を握りしめた。


 指輪は壊れたままだ。


 壊れたまま握りしめる行為が、悲しみを現実に固定する。


「……泣いても、よかった気がする」


 その言葉は、誰に向けたものでもない。


 だが、確かに町に残った。


 周囲の誰かが、ほんの一瞬、表情を止めた。


 笑顔が完成する前の“間”。


 その間に、何かが入り込む。


 夜。


 水門のそばで、アズルは黒い剣を見下ろしていた。


 剣は静かだ。


 拒絶も、暴走もない。


 ただ、そこにある。


 ――肯定。


 アズルは、はっきりと思った。


 思い出さなくても、出来ることはある。


 泣くことを奪われた町で、泣ける瞬間を守ること。


 悲しみを、誰かの手に戻すこと。


 だが、いつかは。


 均しの根に触れなければならない日が来る。


 水面が揺れ、月を歪めて映していた。


 その揺れが、どこまで広がるのか。


 アズルは答えを持たないまま、夜風に目を細めた。


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