memory 145 規範は、後から来る
# memory 145 規範は、後から来る
勝った、はずだった。
ヴァルガが膝をつき、地面の重みが戻り、止まっていた風が再び流れ始めた。緩衝地帯の空は、何事もなかったみたいに青い。
それなのに。
胸の奥に、勝利の実感がなかった。
アズルは二本の剣を下ろさないまま、呼吸を整えた。肩が熱い。肋が痛む。腕は痺れ、握った柄が、いつまでも指に張りついている気がした。
全力を出した。
戻ったものを、全部使った。
だからこそ、分かる。
今は――すぐに次を始められる状態じゃない。
「……やったの?」
ルージュが荒い息のまま言った。
勝ったのに、疑ってしまう。
それが、この戦いの変さだった。
ヴァルガは膝をついたまま、笑っている。悔しそうにでもなく、憎そうにでもなく。
ただ、確かめ終えた顔。
「力は示した」
ヴァルガが言う。
「だから、道は通る」
アズルは答えず、剣を鞘へ戻す。
抜くべきところで抜いた。
いまは、納める。
その動きが、余計に疲労を実感させた。
ブランはヴァルガを見つめていた。
混ざりもの。
その言葉が、胸の奥でひっかかっている。
でも、ブランは怒らなかった。
怒って殴れば、選択肢が削れる。
削りたくない。
それが、彼女の選び方だった。
ヴァルガの胸元で、宝玉が微かに光っていた。
ブランのペンダントが応える。
呼び合う温度。
けれど、まだ動かない。
揃っていない。
条件が足りない。
その“足りなさ”が、逆に不気味だった。
ヴァルガが空を見上げ、低く言った。
「……奪う者が来る」
次の瞬間。
空気が、整った。
風の向きが揃う。
音の粒が小さくなる。
さっきまでの戦場の荒れが、誰かの手で片づけられるみたいに。
ヴェールの支援の環が、微かにほどけた。
癒しではない。
整えるだけのはずだった。
それなのに、ほどける。
「……精霊が、逃げてる」
ヴェールが呟く。
ノワールが地面に指をつけ、冷たく言った。
「来る」
その声が落ちる前に、影があった。
いつからそこにいたのか分からない。
足音もない。
気配もない。
ただ、そこに立っている。
細身。
黒い外套。
細い刃。
だが、存在の圧が、戦場の意味を変える。
戦闘ではなく。
裁定。
処理。
「規範違反を確認」
スカルドが淡々と言った。
言葉に感情がない。
敵意もない。
だからこそ怖い。
ルージュが唇を噛む。
「……四天王」
スカルドはルージュを見ない。
アズルも見ない。
視線は、戦場そのものを見ている。
壊れた地面。
裂けた空気。
残った余韻。
「過剰な戦闘行為」
スカルドがヴァルガを見下ろす。
「世界の均衡を破壊」
ヴァルガは抵抗しなかった。
膝をついたまま笑う。
「……それも、力か」
その言葉が、皮肉に聞こえない。
彼は本気で、そう思っている。
スカルドは迷わない。
迷わないことが、彼の規範。
刃が走った。
細い。
だが、避けるという概念が存在しない速度。
ヴァルガの巨体が、ぐらりと揺れた。
そして、倒れた。
重い音。
大地が一度だけ震える。
ルージュが叫びかけて、声が出ない。
ヴェールが一歩踏み出して、止まる。
ノワールの指が震え、動かない。
アズルは歯を食いしばり、剣の柄を握り直した。
けれど、足が一歩出ない。
体が重い。
さっきの戦いで、限界まで出した。
今、戦えば。
死ぬ。
誰かが。
スカルドはヴァルガの胸元から宝玉を取り上げた。
躊躇なく。
まるで、落とし物を拾うように。
宝玉は、彼の手の中で淡く光る。
ブランのペンダントが強く脈打った。
「……っ」
ブランが息を呑む。
その反応を、スカルドは見逃さなかった。
「白の姫」
呼びかけが、妙に丁寧だった。
丁寧だから、余計に怖い。
「あなたは規範を乱す可能性を持つ」
ブランは一歩前に出た。
「……それで?」
声は小さい。
でも、怯えていない。
スカルドは淡々と続ける。
「裁定が下るまで、隔離する」
隔離。
それは、拉致とは違う言い方。
だが、意味は同じだ。
ルージュが叫ぶ。
「ふざけないで!」
ルージュが前に出る。
その瞬間。
スカルドの刃が、ルージュの肩を掠めた。
避けたのに。
距離があったのに。
当たる。
血が滲む。
「……必中?」
ルージュが唇を噛む。
ノワールが低く言った。
「条件」
スカルドは答えない。
説明はしない。
説明がいらないほど、彼にとっては当然の処理。
ヴェールがブランの前に立とうとする。
その瞬間、刃がヴェールの足元に刺さり、地面が裂けた。
ヴェールが止まる。
止まらざるを得ない。
ノワールが地形を動かして遮ろうとする。
だが、刃が“そこにいるべき場所”へ落ちる。
当たる。
避けられない。
アズルが前に出た。
ブランを守るために。
その瞬間、刃がアズルの腕を浅く切った。
浅い。
致命傷ではない。
だが、切られた場所が熱くなり、力が抜ける。
体が、言うことを聞かなくなる。
スカルドが淡々と言った。
「守ろうとする行為は、違反を増やす」
ルージュが叫ぶ。
「何よそれ!」
スカルドは答えない。
規範は、説明されるものではない。
従うか、処理されるか。
それだけ。
ブランが小さく息を吐いた。
そして、振り返って仲間たちを見る。
みんな、ぼろぼろだった。
全力のあと。
この相手に勝てない。
勝敗の土俵にいない。
戦えば、死ぬ。
誰かが。
だから。
ブランは一歩前に出て、スカルドへ向いた。
「取引しよう」
空気が凍った。
アズルがブランの名を呼ぶ。
「ブラン……!」
ブランは首を振る。
「今は、勝てない」
その言葉は、残酷なほど正確だった。
ブランは続ける。
「わたしが行く」
ルージュが叫ぶ。
「だめ!」
ヴェールが震える声で言う。
「ブランさん……」
ノワールは唇を噛み、言葉を探せない。
ブランは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「連れていかれるんじゃないよ」
自分に言い聞かせるように。
「行くって、決めるだけ」
スカルドが、初めて少しだけ興味を示すように目を細めた。
「理解が早い」
そして続ける。
「だから危険だ」
ブランは頷いた。
「それでも」
胸元のペンダントを握る。
「みんなを、ここで終わらせたくない」
アズルが一歩踏み出した。
ぼろぼろの体で。
それでも、ブランの腕を掴もうとする。
「……行くな」
声が掠れる。
剣で止められない。
言葉で止めるしかない。
ブランは振り返った。
アズルの顔は汗と血で汚れている。
目だけが、まっすぐだった。
「アズル」
ブランが小さく呼ぶ。
「お願い」
その一言が、最も残酷だった。
アズルは首を振る。
「……嫌だ」
拒否。
初めて、彼が感情で言った。
ブランは一瞬だけ目を潤ませ、すぐに拭う。
「嫌でも……今は、だめ」
アズルの手が、ブランの腕に触れた。
触れた瞬間。
スカルドの刃が、アズルの足元へ落ちた。
地面が裂け、アズルの膝が崩れる。
痛みではない。
体が、言うことを聞かない。
条件を満たした。
守ろうとした。
だから、処理される。
アズルは歯を食いしばり、なおもブランの腕を離さない。
「……ブラン……!」
ブランは、その手を両手で包んだ。
温度。
震え。
剣を握ってきた手。
「大丈夫」
ブランは言った。
「わたし、戻る」
根拠はない。
でも、言わなければ崩れる。
「待ってて」
アズルは首を振る。
「待てない」
その返答が、彼らしかった。
ブランは笑おうとして、今度こそ少しだけ笑えた。
「じゃあ……追いかけて」
その言葉が、アズルの目を一瞬だけ揺らした。
追いかける。
管理ではない。
選び直すための行動。
ブランは、最後に囁く。
「今は、まだ」
スカルドが淡々と言った。
「取引条件を確認」
ブランが頷く。
「みんなを、処理しないで」
「裁定保留とする」
それは、見逃しではない。
“保留”。
いつでも処理できるという意味。
それでも、今ここで死なない。
ブランは息を吐いた。
スカルドが背を向ける。
「同行」
ブランは一歩踏み出す。
その瞬間、アズルが最後の力で立ち上がろうとした。
「……行くな……!」
声が震える。
ブランが振り向く。
何か言おうとして。
言葉が出ない。
言えば、縛る。
言わなければ、切れる。
ブランはただ、手を振った。
小さく。
それだけ。
アズルの視界が、ぐらりと揺れた。
力が抜ける。
膝が折れる。
地面が近づく。
最後に見えたのは、白い髪。
白い背中。
遠ざかっていく光。
「……ブラン……」
声は、そこで途切れた。
アズルは、意識を失った。
ルージュが叫ぶ。
「アズル!」
ヴェールが駆け寄ろうとする。
ノワールがそれを止める。
「……今、動くな」
動けば、また条件を満たす。
また処理される。
スカルドは振り返らない。
ブランも振り返らない。
振り返れば、縛ってしまう。
だから。
白の姫は、規範の男と共に歩いていった。
リセラの城へ。
裁定の場へ。
そして、緩衝地帯には。
勝利と敗北が同じ形で残った。




