memory 140 最初に会いたい人
# memory 140 最初に会いたい人
王都を離れて三日。
舗装された街道はとっくに終わり、踏み固められた土の道も、いつの間にか輪郭を失っていた。進んでいるのは確かなのに、地図に描ける線にはならない。馬車の轍は途中で途切れ、踏み跡も風に削られて消えていく。そんな場所に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
管理されていない土地。
境界線のない場所。
人の国でもなく、魔族の領域でもない――緩衝地帯。
誰かの許可も、誰かの拒絶もない。ただ、そこに在るだけの空間。
「……静かすぎるな」
アズルが小さく呟いた。
魔物がいないわけではない。実際、遠くの丘の向こうで獣の鳴き声が響いたし、朽ちかけた石造りの祠には、誰のものとも分からない護符がぶら下がっていた。だが、それらは配置されたものではなく、取り残されたものだ。
守る者も、管理する者もいなくなった結果、そこに残った痕跡。
“そうなっている”だけの景色だった。
「ここから先は、どこのものでもない土地ですね」
ヴェールが周囲を見回しながら言った。精霊の気配は薄いが、完全に断たれているわけでもない。人の手が入らなくなったことで、逆に居心地が良くなった存在もいるのだろう。小さな風の精が、草の影に隠れるように揺れている。
「居心地がいい、とは言いにくいけどね」
ルージュが肩をすくめる。
「管理されてないってことは、守ってももらえないってことだもの」
その言葉に、ブランは小さく笑った。
「うん。でも……嫌いじゃない」
どこか懐かしそうな声音だった。ここには、誰かの正しさも、決められた役割もない。その感覚が、彼女にとっては息がしやすかった。
その日の夜は、崩れた石垣の陰で野営することになった。焚き火を囲み、簡単な食事を済ませる。緩衝地帯に入ってから、誰も大きな声を出さなくなっていた。音が吸い込まれるような感覚がある。遠くで虫が鳴いているはずなのに、意識しなければ聞こえないほどだ。
しばらく、誰も口を開かなかった。
焚き火の火がはぜる音だけが、一定のリズムで続く。
その沈黙を破ったのは、アズルだった。
「……ブラン」
名を呼ばれ、ブランは顔を上げる。
「四天王のことだけど」
一瞬、焚き火の音がやけに大きく聞こえた。
「いるんだろ。この先に」
ブランは、はっきりと頷いた。
その反応が早すぎて、全員が察した。
知っていた。
最初から、分かっていた。
この旅は、いつか必ずそこに行き着く。
「どこから行きたい?」
アズルの問いには、剣も戦も含まれていない。ただ、進路を決めるための確認だった。命令ではなく、選択肢を渡す声。
ブランはすぐには答えなかった。
視線を落とし、少しだけ考える。焚き火の火が揺れ、その光が彼女の白い髪に反射した。指先が、無意識にペンダントに触れる。
ルージュが気づく。
「……迷ってる顔」
「うん」
ブランは正直に答えた。
「でも……リセラがいいと思う」
その名が出た瞬間、空気が僅かに張りつめた。
ノワールが静かに言う。
「理由は?」
責めるでも、疑うでもない。ただの確認。
ブランは少し困ったように笑った。
「昔ね……」
遠い記憶を探るように、言葉を選ぶ。
「私、魔王城でよく迷子になってたの」
誰も口を挟まない。
「父の城は広くて、決まりごとも多くて。どこに行っていいのか、どこに行っちゃいけないのか、よく分からなくなることがあって」
そのとき――
「静かな場所に、いつもリセラがいた」
短い回想が差し込まれる。
薄暗い回廊。
誰も通らないはずの場所で、一人立っていた女性。
怒りもしない。
叱りもしない。
教えもしない。
ただ、そこにいた。
『ここは、まだ決まっていない場所よ』
幼いブランに、そう言った声。
現在に戻る。
「リセラはね、私のことを……魔王の娘とか、混血とか、そういうので見なかった」
焚き火がぱちりと弾ける。
「怖がられもしなかったし、期待もされなかった。ただ……話を聞いてくれた」
ルージュが視線を逸らす。
「敵かもしれないわ」
「うん」
ブランは否定しない。
「でも……話がわかる人だと思う」
アズルは理由を掘り下げなかった。
「それでいい」
その一言で、進路は決まった。
翌朝、ブランの胸元のペンダントが、微かに温度を持った。方向を示すように、淡く光る。はっきりとした道ではないが、確かに“向き”は示している。
「……あっち」
彼女が指さした先は、緩衝地帯のさらに奥。複数の勢力境界を横切る、最短で最悪の道だった。
「全部通る気ね」
ルージュが苦笑する。
「たぶん」
ブランは申し訳なさそうに言った。
道中は、奇妙な平穏が続いた。
どこの国にも属さない村。人と魔族が混じり合い、互いに深入りしない市場。価値が安定しない通貨。昨日の常識が、今日は通じない場所。助け合いも、裏切りも、等しく自己責任として受け入れられている。
野営のたびに、ブランは無意識にアズルの近くに座った。
ルージュがわざとらしく咳払いをし、ヴェールが柔らかく話題を変え、ノワールはいつの間にか反対側に回り込む。
小さなやり取り。
他愛のない距離感。
そんな時間が、確かにあった。
だからこそ――
変化は、はっきりと分かった。
空気が、重くなる。
視線が、集まる。
誰かが“先に来ていた”。
岩陰から姿を現したのは、一人の魔族だった。
装飾の少ない装備。
無駄のない立ち姿。
そして、その視線は最初からブランに向いていた。
「……混ざりものか」
吐き捨てるような一言。
その瞬間、理解した。
話し合いは、成立しない。
アズルが一歩前に出る。
剣を抜く。
それに遅れず、ブランも前に出た。
「ブラン?」
ヴェールの声に、彼女は首を振る。
「大丈夫。隣にいるだけ」
戦闘が始まった。
激しい斬撃。
魔力の衝突。
その中で、ブランは命令しない。
指示もしない。
ただ、選択肢を削らない。
結果として、仲間の動きは広がり、相手の判断は遅れた。
短く、しかし重い戦闘。
魔族は深追いせず、姿を消した。
静寂が戻る。
ブランは、少しだけ俯いた。
「……ごめん。最初に会えなかった」
アズルは即答した。
「順番なんて、世界が決める」
ブランは小さく笑った。
それでも、彼女の視線は前を向いている。
リセラの城へ。
話ができると信じた相手へ。
混血であることを理由に、切り捨てなかった人へ。
最初に会いたい人は、まだ遠い。
だが、道は確かに繋がっていた。




