memory 14 水門の向こう側
memory 14 水門の向こう側
水門の朝は、町の中心とは別の顔をしていた。
夜明け前、運河の水は低い音を立てて流れている。水が石に触れるたび、鈍い反響が返り、金属製の歯車がわずかに軋む音が混じる。町の中心で聞こえた人の声は、ここまで届かない。賑わいはまだ眠っており、世界から余計なものを削ぎ落としたような静けさだけが残っていた。
巨大な水門の前に立つと、その存在感に圧倒される。
何度も補修された石壁。錆びの浮いた鉄骨。水圧に耐えるための分厚い構造。交易の要であり、防災の要であり、そして――町を分ける境界。
ここを境に、世界の“重さ”が変わる。
水門を操作する水番の男は、黙々と歯車を点検していた。手袋越しに金属を叩き、耳を寄せ、わずかな異音も逃さない。
年は四十前後。体つきはがっしりしているが、肩が少し落ちている。背中には長年の重労働で刻まれた癖があり、立ち姿だけで疲労が伝わってきた。顔に浮かぶ笑みは職務用で、どこか硬い。
「おはようございます」
アズルが声をかけると、水番は一瞬だけ驚いた顔をし、それから丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。早いですね」
その声には疲れが混じっていた。夜勤明けというわけでもないのに、目の奥に影がある。眠りが浅い人間の目だ。
ヴェールは、さりげなく精霊の気配を探った。
――弱い。
町の中心で感じた過剰なほどの精霊の気配が、ここでは薄い。いるにはいるが、距離がある。呼びかけても、反応が遅れる。
「この仕事、大変そうですね」
ルージュが軽く言う。世間話の調子を装っていたが、視線は水番の顔を逃さず追っていた。
水番は苦笑した。
「まあ……町を守る仕事ですから」
一拍置いて、歯車から手を離す。
「守ってるはず、なんですがね」
その言葉は、それ以上掘り下げられるのを拒むように、すぐ空気に溶けた。だが、否定も冗談も混じらない、曖昧な自嘲だけが残る。
水門が開く。
重い音とともに、水の流れが変わる。内側と外側で、水の色がわずかに違うことにアズルは気づいた。
内側は澄んでいて、光をよく反射する。水面に映る空は明るく、揺らぎすら心地いい。
外側は、同じ水のはずなのに、少しだけ暗い。色が濁っているわけではない。ただ、光を返さない。深さをそのまま抱え込んでいる。
水門を越えると、町の音が急に遠のいた。
精霊の気配も減る。空気が重くなり、胸に落ちる。吸った息が、肺の奥で一瞬止まる感覚。
「……静かだ」
アズルが呟く。
ヴェールは小さく息を吐いた。
「うん。ここは……泣ける」
その言葉は、恐怖ではなく安堵に近かった。精霊使いとしてではなく、一人の人間として。
水門の外側には、古い倉庫や使われていない船着き場が並んでいる。板は軋み、縄は風に揺れ、放置された荷箱が積まれている。町の内側にあった整然とした管理の痕跡は、ここでは薄れていた。
人影は少ない。
だが、いる人間の感情は濃かった。
怒り、諦め、悲しみ。
それらが混じり合い、空気に沈殿している。町の中では感じなかった重さが、ここにはある。
倉庫の陰で、男が一人、川面を見つめていた。
年は若くない。服は擦り切れ、靴底は片減りしている。手には油の染みがあり、長く船や荷を扱ってきたことが分かる。
「……あんたら、町の人間じゃないな」
男が振り向く。
目は鋭いが、隠そうとしない疲労が滲んでいる。警戒心と諦めが、同時に浮かぶ目だった。
「町の中にいると……俺の気持ちだけ、浮くんだ」
男はそう言って、肩をすくめた。
「怒るだろ? 普通は。悔しいだろ? でも、あそこじゃ……怒る前に、空気が変わる」
彼は元商人だったという。
事故で荷を失い、怒りと悔しさを抱えたまま町に戻った。責任を押し付けられたわけではない。補償も出た。だが、それで終われるほど、気持ちは軽くなかった。
「誰も怒らない。誰も責めない。俺だけが、おかしいみたいになる」
怒りを抑えようとするほど、体調を崩した。胸が詰まり、眠れなくなり、夜마다同じ夢を見る。失った荷が、水の底に沈んでいく夢だ。
「最後は……ここだ」
男は水門の外を指した。
「町は優しい。だから、俺みたいなのは邪魔なんだろう」
言い切りだった。恨みでも被害者意識でもない。事実として受け入れている声音。
ルージュは歯を噛みしめた。
王国的には理想だ。問題を起こす者が、自然に消える。治安は保たれ、統計は美しい。
だが、それが“自然”ではないと、彼女は分かっていた。
ノワールが静かに整理する。
「均しに適応できない者は……排出される」
「排水口、か」
アズルが呟く。
水門を見る。
水だけでなく、感情も流す装置。内側を軽く保つために、外側へ重さを押し出す。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
――受け取る側。
ダンジョンで選んだはずの立場。
だが、その結果がこれなら。
「俺が受け取った選択は……誰かを、ここに追い出すためのものだったのか」
黒い剣が、弱く共鳴した。
否定でも、肯定でもない。
問いかけのような震え。
夕暮れ、水門の外側から町を見上げる。
内側は光に満ち、笑い声が届く。灯りは温かく、賑わいは絶えない。
外側は影が濃く、風が冷たい。人の気配は薄く、感情だけが残っている。
「このままじゃ……誰かがずっと、外にいる」
アズルの言葉は、決意ではない。
ただの事実確認だ。
それでも、背中の剣は応えた。
静かに、確かに。
境界の向こうで、町は今日も泣かない。




