memory 13 泣いてはいけない
## memory 13 泣いてはいけない
朝の鐘が鳴った。
澄んだ音が、水の流れと重なり、町全体に広がっていく。昨日と同じ音程、同じ間隔。昨日より少しだけ早い気もするが、それは気のせいだろう。鐘の音に感情は乗っていない。ただ、正確に、均一に、朝を告げている。
水門の町リュミエルは、変わらず賑やかだった。
運河を行き交う船、橋を渡る人々、朝餉の匂い。市場ではすでに声が飛び交い、笑い声が混じっている。魚を並べる商人、果物を運ぶ子ども、パンを焼く香り。
そのすべてが、昨日と同じ“調子”で進んでいた。
昨日、積み荷を落とした商人は、もう店を開いていた。
空になったはずの倉庫の前で、彼はいつも通りに客と話し、値段をつけ、冗談を言って笑っている。失った布の話題は出ない。誰も触れない。触れようとする気配すらない。
――なかったことになるのが、早すぎる。
アズルは胸の奥でそう呟いた。
時間が解決するのではない。時間が、出来事を薄めるのでもない。
この町では、最初から“残らない”。
残る前に、整えられる。
宿を出て、通りを歩く。
石畳の感触は安定している。滑らかで、歩きやすい。だが、歩きやすすぎて、足裏に引っかかりがない。転びにくいように、最初から削られているみたいだ。
ヴェールは昨日よりも静かだった。精霊石に触れる指先が落ち着かず、視線が常に町全体を追っている。人だけでなく、空気や水、風の流れまでも。
「……嫌な予感がする」
小さな声だったが、確信があった。
アズルは否定できなかった。否定しようとすると、胸の奥が重くなる。
市場の一角で、人だかりができていた。
子どもが転んだのだ。
石畳の縁に足を取られ、膝を擦りむく。血が滲み、皮膚が赤く腫れる。痛みで顔を歪め、息を吸い込む。
その瞬間――
子どもは、泣いた。
短く、鋭い声だった。反射的で、取り繕いのない、感情そのものの音。
町の音が、一拍だけ止まる。
完全な沈黙ではない。だが、風の流れが変わり、水音が細くなり、人々の視線が一斉に集まる。視線は責めるものではない。ただ、揃いすぎている。
誰も怒らない。
誰も慌てない。
ただ、同時に動いた。
「ほらほら、大丈夫よ」
「見て、こんなに元気だ」
「転ぶのは成長の証だって言うでしょう?」
笑顔。
声の高さ。
間合い。
すべてが整っている。偶然とは思えないほど、自然に揃っている。
お菓子が差し出され、軽い歌が始まり、風が子どもの頬を撫でる。水の精霊が血を洗い流し、痛みを薄める。土の精霊が石畳を柔らかく保つ。
だがそれは、慰めではなかった。
抑制だ。
泣き声が、途中で途切れる。
子どもの喉がひくりと動き、次の瞬間、笑顔が浮かぶ。笑わなければならない理由を、誰も教えていないのに。
「……え?」
子ども自身が、自分の感情を見失ったような顔をする。
泣いていたことを、覚えていない。
痛みも、驚きも、すでに薄い。
ヴェールの背筋が、凍りついた。
「今の……精霊が」
違う。
精霊だけじゃない。
町全体が、“泣く”という現象を拒否した。
ヴェールには、それがはっきりと見えた。感情の波が立ち上がった瞬間、それを押し戻す力が、町のあちこちから同時に伸びてくる。
泣きという感情の波に、精霊が過剰反応し、町の空気がそれを許容し、人々が自然に同調する。
誰も指示していない。
誰も命令していない。
それでも、結果は同じ。
「これ……町が泣くのを拒否してる」
ヴェールの声は震えていた。
アズルの胸が、締め付けられる。
呼吸が、浅くなる。
背中で、黒い剣が微かに震えた。怒りではない。否定に近い、低い反応。
ダンジョンで感じた“均し”が、今は人の心に直接触れている。
――受け取る側。
あのとき、自分が選んだ立場。
だが、これは受け取れるものなのか。
子どもの母親が駆け寄る。
「よかった……泣かなくて」
その声は、笑っている。
だが、目だけが追いついていない。瞳の奥で、何かを確かめるように揺れている。
安心している“ふり”をしている。
恐れているのは、子どもの怪我ではない。
――泣いてしまうこと。
泣かせてしまった自分が、何かを壊すこと。
アズルの喉が、ひりついた。
この町では、悲しみは管理されている。
許可なく溢れた感情は、即座に修正される。誰かの判断ではなく、町そのものの反射として。
それは、優しさの顔をした支配だ。
市場を離れ、宿へ戻る途中。
通りは相変わらず明るく、人々は楽しげに話している。先ほどの出来事に触れる者はいない。触れようとする空気すら、もうない。
ヴェールが足を止めた。
精霊の気配が、うるさい。囁きが重なり、善意が音のように耳に届く。
町全体が呼吸しているみたいだ。規則正しく、乱れなく。
「……苦しい」
ヴェールが、ぽつりと零す。
彼女の目に、涙が溜まる。理由は一つではない。子どものこと、母親の目、町の空気、自分の無力感。
その瞬間――
風が止まる。
水音が消える。
町が、一斉に“こちら”を向いた気配がした。人の視線ではない。空間そのものが、注目する感覚。
均しが、発動しかける。
アズルは、考える前に身体を動かしていた。
ヴェールを抱き寄せる。
「泣くな」
だが、それは命令ではない。
声を落とし、続ける。
「今は……俺が受け止める」
ヴェールの額が、アズルの胸に触れる。
心臓の音が伝わる。強く、確かに、生きている音。
彼女の呼吸が、少しずつ落ち着く。
涙は、落ちなかった。
町の反応が、ゆっくりと引いていく。風が戻り、水音が再開する。
均しは、発動しなかった。
夜。
水門の上に立ち、町を見下ろす。
灯りは美しく、変わらない平和がそこにある。笑い声が運河に反射し、揺れている。
だが、アズルは確信していた。
「ここは……悲しみを管理している町だ」
「泣くことは、許可制なんだ」
背中で、黒い剣がはっきりと震えた。
それは、否定の感触だった。
ダンジョンで感じた“待つ”震えとは違う。
拒絶。
――違う、と告げている。
アズルは、初めて思う。
思い出さないという選択は、正しかったのか。
夜風が、水面を揺らした。
灯りは揺れ、町は、今日も泣かない。




