表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王を倒した後に始まる物語  作者: nime


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/20

memory 13 泣いてはいけない

## memory 13 泣いてはいけない


 朝の鐘が鳴った。


 澄んだ音が、水の流れと重なり、町全体に広がっていく。昨日と同じ音程、同じ間隔。昨日より少しだけ早い気もするが、それは気のせいだろう。鐘の音に感情は乗っていない。ただ、正確に、均一に、朝を告げている。


 水門の町リュミエルは、変わらず賑やかだった。


 運河を行き交う船、橋を渡る人々、朝餉の匂い。市場ではすでに声が飛び交い、笑い声が混じっている。魚を並べる商人、果物を運ぶ子ども、パンを焼く香り。


 そのすべてが、昨日と同じ“調子”で進んでいた。


 昨日、積み荷を落とした商人は、もう店を開いていた。


 空になったはずの倉庫の前で、彼はいつも通りに客と話し、値段をつけ、冗談を言って笑っている。失った布の話題は出ない。誰も触れない。触れようとする気配すらない。


 ――なかったことになるのが、早すぎる。


 アズルは胸の奥でそう呟いた。


 時間が解決するのではない。時間が、出来事を薄めるのでもない。


 この町では、最初から“残らない”。


 残る前に、整えられる。


 宿を出て、通りを歩く。


 石畳の感触は安定している。滑らかで、歩きやすい。だが、歩きやすすぎて、足裏に引っかかりがない。転びにくいように、最初から削られているみたいだ。


 ヴェールは昨日よりも静かだった。精霊石に触れる指先が落ち着かず、視線が常に町全体を追っている。人だけでなく、空気や水、風の流れまでも。


「……嫌な予感がする」


 小さな声だったが、確信があった。


 アズルは否定できなかった。否定しようとすると、胸の奥が重くなる。


 市場の一角で、人だかりができていた。


 子どもが転んだのだ。


 石畳の縁に足を取られ、膝を擦りむく。血が滲み、皮膚が赤く腫れる。痛みで顔を歪め、息を吸い込む。


 その瞬間――


 子どもは、泣いた。


 短く、鋭い声だった。反射的で、取り繕いのない、感情そのものの音。


 町の音が、一拍だけ止まる。


 完全な沈黙ではない。だが、風の流れが変わり、水音が細くなり、人々の視線が一斉に集まる。視線は責めるものではない。ただ、揃いすぎている。


 誰も怒らない。


 誰も慌てない。


 ただ、同時に動いた。


「ほらほら、大丈夫よ」


「見て、こんなに元気だ」


「転ぶのは成長の証だって言うでしょう?」


 笑顔。


 声の高さ。


 間合い。


 すべてが整っている。偶然とは思えないほど、自然に揃っている。


 お菓子が差し出され、軽い歌が始まり、風が子どもの頬を撫でる。水の精霊が血を洗い流し、痛みを薄める。土の精霊が石畳を柔らかく保つ。


 だがそれは、慰めではなかった。


 抑制だ。


 泣き声が、途中で途切れる。


 子どもの喉がひくりと動き、次の瞬間、笑顔が浮かぶ。笑わなければならない理由を、誰も教えていないのに。


「……え?」


 子ども自身が、自分の感情を見失ったような顔をする。


 泣いていたことを、覚えていない。


 痛みも、驚きも、すでに薄い。


 ヴェールの背筋が、凍りついた。


「今の……精霊が」


 違う。


 精霊だけじゃない。


 町全体が、“泣く”という現象を拒否した。


 ヴェールには、それがはっきりと見えた。感情の波が立ち上がった瞬間、それを押し戻す力が、町のあちこちから同時に伸びてくる。


 泣きという感情の波に、精霊が過剰反応し、町の空気がそれを許容し、人々が自然に同調する。


 誰も指示していない。


 誰も命令していない。


 それでも、結果は同じ。


「これ……町が泣くのを拒否してる」


 ヴェールの声は震えていた。


 アズルの胸が、締め付けられる。


 呼吸が、浅くなる。


 背中で、黒い剣が微かに震えた。怒りではない。否定に近い、低い反応。


 ダンジョンで感じた“均し”が、今は人の心に直接触れている。


 ――受け取る側。


 あのとき、自分が選んだ立場。


 だが、これは受け取れるものなのか。


 子どもの母親が駆け寄る。


「よかった……泣かなくて」


 その声は、笑っている。


 だが、目だけが追いついていない。瞳の奥で、何かを確かめるように揺れている。


 安心している“ふり”をしている。


 恐れているのは、子どもの怪我ではない。


 ――泣いてしまうこと。


 泣かせてしまった自分が、何かを壊すこと。


 アズルの喉が、ひりついた。


 この町では、悲しみは管理されている。


 許可なく溢れた感情は、即座に修正される。誰かの判断ではなく、町そのものの反射として。


 それは、優しさの顔をした支配だ。


 市場を離れ、宿へ戻る途中。


 通りは相変わらず明るく、人々は楽しげに話している。先ほどの出来事に触れる者はいない。触れようとする空気すら、もうない。


 ヴェールが足を止めた。


 精霊の気配が、うるさい。囁きが重なり、善意が音のように耳に届く。


 町全体が呼吸しているみたいだ。規則正しく、乱れなく。


「……苦しい」


 ヴェールが、ぽつりと零す。


 彼女の目に、涙が溜まる。理由は一つではない。子どものこと、母親の目、町の空気、自分の無力感。


 その瞬間――


 風が止まる。


 水音が消える。


 町が、一斉に“こちら”を向いた気配がした。人の視線ではない。空間そのものが、注目する感覚。


 均しが、発動しかける。


 アズルは、考える前に身体を動かしていた。


 ヴェールを抱き寄せる。


「泣くな」


 だが、それは命令ではない。


 声を落とし、続ける。


「今は……俺が受け止める」


 ヴェールの額が、アズルの胸に触れる。


 心臓の音が伝わる。強く、確かに、生きている音。


 彼女の呼吸が、少しずつ落ち着く。


 涙は、落ちなかった。


 町の反応が、ゆっくりと引いていく。風が戻り、水音が再開する。


 均しは、発動しなかった。


 夜。


 水門の上に立ち、町を見下ろす。


 灯りは美しく、変わらない平和がそこにある。笑い声が運河に反射し、揺れている。


 だが、アズルは確信していた。


「ここは……悲しみを管理している町だ」


「泣くことは、許可制なんだ」


 背中で、黒い剣がはっきりと震えた。


 それは、否定の感触だった。


 ダンジョンで感じた“待つ”震えとは違う。


 拒絶。


 ――違う、と告げている。


 アズルは、初めて思う。


 思い出さないという選択は、正しかったのか。


 夜風が、水面を揺らした。


 灯りは揺れ、町は、今日も泣かない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ