memory 12 誰も悲しまない町
## memory 12 誰も悲しまない町
水門の町リュミエルに足を踏み入れた瞬間、音が押し寄せてきた。
水が流れる音。石橋を渡る靴音。船頭の掛け声。樽を転がす音。魚を焼く匂いと一緒に飛んでくる、酒場の笑い声。
どれもが生き生きとしていて、旅人を歓迎するかのようだった。
大きな水門は夕焼けを背にしてそびえ、幾本もの運河が町の中へと枝分かれしている。水は透明で、流れは速いのに荒れていない。石造りの家々はどれも手入れが行き届き、壁の白さすら眩しい。
――平和だ。
誰もがそう言うだろう。実際、景色だけを見れば、戦争も貧しさも縁遠い。
だが、アズルは喉の奥に引っかかるものを感じていた。
賑わいが軽い。
軽い、というのは違う。軽く“なるように整えられている”。町全体が、楽しさの方向へ自然に転がるように。
「……賑やかだな」
アズルがそう呟くと、ルージュが肩をすくめた。
「交易都市だもの。王国でも指折りよ。……にしても、出来すぎだけど」
人々は忙しそうに動きながらも、誰一人として苛立っていない。荷車がすれ違っても、ぶつかっても、謝罪は明るく、笑いで終わる。声を荒げる者も、疲れた顔をしている者も見当たらなかった。
視線が軽い。
旅人に向けられる好奇心はあっても、警戒や探るような色がない。服装や武器を見て一瞬目を止めても、次の瞬間には「ようこそ」と言う。
――まるで、過去を背負っていないみたいだ。
アズルは胸の奥でそう感じ、理由もなく喉が渇いた。
運河の脇では、子どもたちが走っていた。
足を滑らせ、水際に転びかけても、必ず誰かが支える。……いや、誰かではない。水面がふわりと持ち上がり、子どもの身体をそっと押し返した。
「今の……」
ヴェールが小さく息を呑む。
「精霊」
水の精霊が、当たり前のように助けた。
子どもは水に触れず、ただ笑った。
恐怖も驚きもなく、救われたことすら特別ではない。
アズルは、背中の黒い剣に意識が吸われかけるのを感じて、肩を強張らせた。
宿屋は運河沿いにあった。看板は新しく、木の匂いが残っている。扉を開けると暖かな灯りと香ばしい匂いが迎えてきた。
「いらっしゃい!」
女将は朗らかで、声に曇りがない。帳場の横には花が飾られ、客の笑い声は途切れない。怒鳴り声はない。
部屋は清潔で、寝台は柔らかく、湯は熱く、夕食は文句のつけようがない。
焼き魚、香草のスープ、もちもちしたパン。果実酒まで、自然に勧められる。
完璧だった。
完璧すぎて、落ち着かない。
「この町、昔からこんなに賑やかなんですか?」
アズルが何気なく尋ねると、女将はにこやかに頷いた。
「ええ、ええ。昔からですよ。水門があるから、商売が尽きないの」
「昔って……どのくらい?」
一瞬、女将の笑顔が止まる。
ほんの瞬きの間。
だがすぐに、同じ調子で言った。
「さあ、いつからだったかしら。気づいたら、こんな感じで。昔のことって、案外ね、忘れちゃうのよ」
忘れちゃう。
言い方は軽い。だが、軽さが逆に気味悪かった。
「水害とか、事故とか、そういうのは?」
ルージュが探るように言う。
女将は一拍置いてから、明るく笑う。
「あら、そんなの? 起きても、みんなで何とかするから大丈夫よ。泣いても仕方ないしね」
泣いても仕方ない。
その言葉が、食卓の上を滑っていく。
ノワールは黙ってそのやり取りを聞き、食後、廊下でアズルに小さく呟いた。
「ここには、失敗談が存在しない」
「失敗談?」
「笑い話のはずの失敗が、語られない。怒りも後悔も、最初からないみたいに」
ノワールは帳面を開いていない。書けば残る。残れば、町の空気が嫌がるかもしれない。
――そんな躊躇が、彼女の沈黙に滲んでいた。
夕食後、町を歩く。
夜になっても人は多く、灯りは消えない。市場は縮むが終わらない。酔客の笑い声すら、どこか上品だ。喧嘩が起きそうな距離でも、誰かが冗談を言い、全員が笑って散る。
ヴェールは歩きながら、落ち着かない様子で胸元の精霊石に触れていた。
「……精霊が多い」
「いいことじゃないの?」
ルージュが言うと、ヴェールは首を横に振る。
「多いだけじゃない。……元気すぎる」
風の精霊が勝手に荷車を押し、火の精霊が屋台の火を最適な温度に保ち、水の精霊が溢れそうな運河を調整している。人の手を借りる前に、善意だけで町が回っている。
善意が“仕事”になっている。
ヴェールの声が少し震えた。
「精霊って、本当はもっと……気まぐれなの。人の感情に寄ってきて、喜びにも悲しみにも反応する。でも、この町の子たちは……喜びだけで走ってる」
「喜びだけ?」
「うん。だから、頑張りすぎてる」
その言葉が、妙に重く響いた。
露店の前で、町の女性たちがヴェールに声をかける。
「その人、恋人?」
無邪気な問い。
ヴェールは困ったように微笑み、否定も肯定もしない。いつもより距離が近い。無意識の安心を、アズルに預けている。
アズルが言葉を探しているうちに、ルージュがすかさず口を挟んだ。
「そうそう。大事にしないと、すぐ取られるわよ?」
「えっ」
アズルが反応するより早く、周囲は笑いに包まれた。
ヴェールが頬を赤くして「もう」と小さく抗議し、ルージュは楽しそうに肩を揺らす。
――ここまでは普通のラブコメだ。
だが、違う。
そこに嫉妬はない。気まずさもない。
冷やかしに悪意がない。
“傷つく可能性”が、最初から消されている。
笑いが、滑らかすぎる。
アズルは胸の奥で引っかかるものを抱えたまま、視線を逸らした。
通りの角で、老人が荷物を落とした。
次の瞬間、風が吹き、荷物はふわりと持ち上がり、老人の腕の中に戻った。老人は驚くことなく「ありがとねえ」と笑う。
助けられたことが、日常の一部になっている。
助けられないことが、想定されていない。
夜も更けたころ、運河沿いで小さな騒ぎが起きた。
荷車が石橋の段差でバランスを崩し、積み荷ごと水に落ちたのだ。
木箱が水面に叩きつけられ、蓋が割れる。中から布が舞い、きらりと光る金具が沈む。
「おい、大丈夫か!」
声が上がる。
だが、落ちた商人は笑っていた。
「まあ、仕方ないな。流れが速かった」
周囲も手伝いながら、同じ調子で笑う。
誰かが「運が悪かったね」と言う。
別の誰かが「明日また稼げばいいさ」と返す。
積み荷は高価そうだった。箱の中身は、王都向けの布と装飾品――売れれば大金になる。
それでも、誰も怒らない。
悔しがらない。
膝をついて水面を見つめる商人の目が、乾いている。
ヴェールの顔から、血の気が引いた。
「……悲しむべきなのに」
アズルも同じことを思った。
ここで普通なら、胸が潰れる。
怒りが出る。
泣く。
それが人間だ。
なのに、誰も泣かない。
泣くべき場面そのものが、薄い膜に包まれて丸くなり、笑いへ変換されている。
――ダンジョンで感じた“均し”が、ここでは日常の形になっている。
その夜、宿の窓から町を見下ろす。
水面に無数の灯りが揺れている。船の灯り、家々の窓、橋の街灯。美しい光景だ。
だが、水の底は見えない。
見えないのに、底があることだけは分かる。
アズルは静かに思う。
――ここは、ダンジョンの外側だ。
理由を消し、感情を均した世界。
平和はある。
だが、重さがない。
ノワールが背後で小さく言った。
「ここでは、悲しみが流れない。……水門で止められてるみたいに」
言葉が詩のようで、同時に報告書のようでもあった。
ルージュは窓枠に肘をつき、町の灯りを眺めながら呟く。
「王都が欲しがる“理想”って、こういうのかもね。治安よし、景気よし、不満なし」
「理想?」
「うん。……でも、理想ってさ。都合が良すぎると怖いのよ」
彼女は軽口を叩くときの笑みを作ろうとして、作れなかった。
ヴェールが小さく呟いた。
「ここで……本当に泣いたら、どうなるんだろう」
その問いは、未来への恐怖だった。
泣けば、均しが反応する。
均しが反応すれば、何かが“元に戻る”かもしれない。
あるいは、泣いたという事実だけが消されるかもしれない。
アズルは答えを出せなかった。
出せないまま、背中の黒い剣の存在を思い出し、触れないように肩甲骨を固くした。
思い出さないという選択。
ダンジョンで選んだはずのそれが、町の空気の中で揺らいでいく。
夜風が、町を撫でていった。
灯りは揺れ、笑い声は遠くで続く。
その音が、なぜか水の底へ吸い込まれていくように聞こえた。




