memory 11 思い出さないという選択
## memory 11 思い出さないという選択
大広間は、静かだった。
静か――というより、静けさが“正しく”響いている。
これまでのダンジョンは音が吸われた。足音が石に落ちても返ってこない、呼吸だけが妙に大きい、鼓動だけが近い。世界そのものが余計なものを丸めて、削って、均しているような不自然さがあった。
だが、ここは違う。
石畳に靴底を置いた瞬間、乾いた反響がわずかに戻る。自分の存在が空間に刻まれる。たったそれだけで、ここが“完成された場所”だと分かってしまう。
天井は高く、円形の壁は歪みなく整えられている。崩れかけた箇所もなく、苔も少ない。まるで、この場所だけが最後まで役割を果たしたようだった。
中央には、石台がひとつ。
その上には――何もない。
何もないはずなのに、全員が同時に理解する。
ここに、何かがあった。
「……ここだけ、息がしやすい」
ルージュが小さく言った。
確かに、肺に入る空気が違う。重さも、粘りもない。胸の奥まで、素直に落ちてくる。吸った息が途中で止まらない。吐いた息が喉に引っかからない。
それが、普通なのに。
普通であることが、こんなにも怖い。
ノワールは周囲を見回し、壁に指を滑らせた。埃が薄い。新しいわけではないのに、汚れが少ない。
「ここだけ……掃除されたみたいだ」
「掃除?」
ルージュが眉を上げる。
「物理的じゃない。“意味”の方」
ノワールの言葉は淡々としているのに、背中が冷えた。
ヴェールは中央に一歩近づき、そっと手を伸ばした。触れたのは、空気だけ。それなのに、彼女の指先が微かに震える。
「……悲しみが、ちゃんとある」
その言葉に、アズルの胸が軋んだ。
悲しみ。
このダンジョンに入ってから、ずっと欠けていた感情。
魔物たちは怒りも憎しみも薄く、消えるときには安堵だけを残した。勝っても、心が満たされなかった理由が、今なら分かる。
ここは、感情が“均される前”の場所だ。
だからこそ。
ここで感じる悲しみは、針のように鋭い。
アズルは石台の前に立ち、膝をついた。
理由は分からない。ただ、そうするのが正しいと身体が告げていた。膝が石に触れる冷たさが、現実よりも重く響く。
青い剣の柄に触れる。
いつも通りの感触。信頼できる重さ。
次に、背中の黒い剣へと意識が向いた。
震えはない。警告もない。
ただ、待っている。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
黒い剣は、怒りもしない。
拒まない。
催促もしない。
ただ、こちらが決断するのを待っている。
――自分が、何を選ぶのか。
視界の端が、白く滲んだ。
音が、遠ざかる。
代わりに、断片的な光景が流れ込んでくる。
血の匂い。
鉄と土と、汗。
剣を落とす音。
膝が石にぶつかる鈍い衝撃。
傷ついた兵士が、互いを支え合う姿。
魔族と人間が、同じ地面に座り込んでいる光景。
そこに、白い光が降り注ぐ。
強く、優しく、そして――一方的に。
白い光は、温かい。
救いのように見える。
だが、その温かさが、肌を撫でるたびに何かが削れていく。
悲しみ。
怒り。
後悔。
そして、何より――「なぜそうしたのか」という理由。
アズルは息を呑み、両手で頭を押さえた。
「……っ」
思い出してはいけない。
その直感が、はっきりとあった。
思い出せば、この場所で何が行われたのか、すべてが繋がってしまう。
そして、それは“終わったこと”ではなくなる。
終わったことが、もう一度始まる。
始まれば――世界は、また均される。
あるいは均しが崩れ、逆に世界が裂ける。
どちらに転ぶにせよ、今ある「平和」は保てない。
背後で、衣擦れの音。
ヴェールが近づき、そっとアズルの背中に手を置いた。温度が伝わる。
「無理しないで。……今、全部を知る必要はない」
その声に、少しだけ呼吸が戻った。
ヴェールの手は、剣を止めるためではなく、心をつなぐためにある。
それが分かるからこそ、アズルは余計に苦しかった。
自分がこの手を振り払えば、何かが戻る。
戻るはずだ。
それでも――。
それでも、剣は抜かれていた。
いつの間にか。
右手に青。
左手に黒。
二本の剣が、同時に空気を裂く。
剣先が、わずかに震え、共鳴する。音にならない音が、大広間を満たした。
床の紋様が浮かび上がる。
円環のような模様が、石畳を走り、壁へ、天井へと広がっていく。
世界が、完成しかける。
大広間の空気が、わずかに光を帯びた。
視界の隅で、壁が“綺麗”になっていく。欠けていた部分が埋まり、崩れかけていた石が整い、歪みが正される。
――完成。
そうなれば、ここは確かに「正しい場所」になる。
だが同時に。
完成した瞬間、ここで行われたことも“正しい形”に固定される。
それは、誰かの選択を永遠に肯定することだ。
肯定すれば、別の誰かの痛みは――消される。
ヴェールが、強くアズルを抱きしめた。
「アズル……それ以上は」
声が震えている。
「戻れなくなる」
戻れなくなる。
その言葉が、刃よりも深く胸に刺さった。
アズルは歯を食いしばり、剣を下ろす。
青い剣。
黒い剣。
二本とも、ゆっくりと鞘に戻した。
鞘に収まる金属音が、やけに“現実”を連れてくる。
紋様が消え、世界は再び“未完成”に戻る。
その瞬間、空気の中に、はっきりとした意志が浮かび上がった。
声ではない。
姿でもない。
判断だ。
――争いは、理由ごと消せばいい。
アズルは、思わず目を閉じた。
あまりにも優しい。
あまりにも残酷。
理由を消せば、憎しみも消える。正しさも、過ちも、すべて消える。
戦ったことさえ残ればいい。
勝ったという結果だけがあれば、誰も傷つかなくて済む。
その考えに、胸の奥が熱くなった。
――そうだ。
そうすれば、もう二度と。
誰も、泣かなくて済む。
だからこそ。
それを選ぶ存在は、きっと泣きながら決めた。
「……この子」
ヴェールの声が、涙に滲んだ。
「世界を守ろうとしただけなの」
ヴェールの涙は、悲しみの証明だ。
均されていない悲しみ。
それが今ここにあることが、救いでもあり、痛みでもある。
ルージュは唇を噛み、視線を逸らす。
「だから、王国は理由を語らなかった……語れなかったのね」
彼女の声には、怒りが混じっている。
王国の制度。
祝福。
英雄の扱い。
“結果だけ”を讃えるあの空気。
ルージュは監視役としての立場を思い出してしまったのだろう。自分が見張るべき対象は、魔物ではなく“真実”だったのかもしれない。
ノワールが静かに言った。
「記録が残らないのは、残せないからだ。……残した瞬間、均しが崩れる」
彼女の言葉は冷たく聞こえる。
だが、それは冷静であろうとする努力の音でもあった。
記録者。
影の記録者。
残せないものを、それでも目に焼き付ける人。
アズルは、すべてを思い出しかけていた。
魔王が、敵ではなかったこと。
戦争を終わらせるために、選ばれた方法。
そして、自分が振るった二本の剣の意味。
喉まで言葉が上がってくる。
この場で口にすれば、たぶん繋がる。
繋がった瞬間、世界は揺れる。
ダンジョンが完成し、同時に外の世界も完成する。
完成した世界は、誰かを救う。
そして、誰かを切り捨てる。
アズルは、剣を握る手を緩めた。
青い剣の柄が、汗で滑りかける。
黒い剣の重さが、背中から骨へ染み込む。
彼は、静かに言った。
「……今は、思い出さない」
自分の声が、広間に反響する。
それが怖かった。
怖いのに、言わなければならないと分かった。
「それが、あの子の選択なら」
白い意志は“判断”だ。
言葉ではなく、選択。
なら、自分も同じ形で返すしかない。
「俺は……受け取る側でいる」
白い意志が、わずかに揺れた。
肯定か、否定か。
そのどちらでもない、安堵のような感情だけが残る。
それは「ありがとう」に似ていて、同時に「ごめん」にも似ていた。
石台が、ひび割れた。
音もなく、崩れていく。砂のように、静かに。
崩れた先には何もない。
だが、何もないことが、逆に“そこにあったもの”を証明してしまう。
ダンジョン全体が、役目を終えたのだと分かった。
もう、魔物は現れない。
歪みは完全ではないが、安定する。
ヴェールが胸の前で手を重ね、そっと息を吐く。
「全部、救えたわけじゃない」
「でも……壊れもしなかった」
ルージュは目を閉じ、鼻先を拭うように顔を背けた。
「……こういうの、嫌い。答えが一つじゃない」
ノワールは帳面を開きかけて、やめた。
ペン先が止まる。
言葉にすれば残る。
残れば、均しが揺れる。
彼女はその矛盾を、誰より正確に理解している。
だからこそ、彼女は静かに帳面を閉じた。
地上に出ると、夕暮れだった。
赤く染まる空。風が通り、街道の匂いが戻っている。
土の匂い。
草の匂い。
遠くで、水の音。
振り返ると、ダンジョンの入口は、ただの岩陰に見えた。
“なかったこと”になりかけている。
けれど、今はまだ、完全には消えていない。
アズルは胸の奥で小さく呟く。
――俺が、受け取ったから。
遠くに、水門の町リュミエルが見える。
賑やかな音が、微かに届く。笑い声、呼び声、鐘の音。
人の気配が濃い。
平和が濃い。
それが、逆に不安を連れてくる。
「次は……賑やかすぎる平和、ね」
ルージュが肩をすくめる。
ノワールは帳面を胸に抱き、短く言った。
「記録は、ここまで」
ヴェールがアズルの横を歩きながら、そっと囁く。
「アズル。……あなたは逃げたんじゃない」
「……分からない」
「分からなくても、いい。分からないまま、選んだ。それが大事」
アズルは最後に、背中の剣に触れた。
黒い剣は、静かだった。
だが、確かに待っている。
思い出す、その日まで。
そして――思い出してもなお、選べる日まで。
彼らは、次の町へと歩き出した。




