memory 10 役割を失った刃
## memory 10 役割を失った刃
ダンジョンの内部は、外から想像していたよりも遥かに広かった。
入口から続く通路は、人が行き交う前提で設計されている。天井は高く、壁は直線的で、足元の石畳には摩耗の跡がある。かつて誰かが確かに使った場所だ。
それなのに、どこか“途中で放棄された”ような印象が拭えない。
壁に刻まれた溝は装飾にも見えるが、剣や槍を受けるための痕跡にも見えた。規則的な間隔、同じ高さ。訓練場か、あるいは――戦場を想定した廊下。
足音が反響しない。
代わりに、呼吸の音だけが妙に大きく聞こえる。胸の奥で空気が擦れる音まで、増幅されて届く。
まるで空間そのものが、侵入者の存在を確かめるように。
「……変ね」
ヴェールが小さく呟いた。
彼女は指先を軽く上げ、見えない何かに触れる仕草をする。精霊に話しかけるときの癖だ。
「精霊はいる。でも……待ってるだけ」
呼びかければ応える。だが、自ら動こうとしない。命令がなければ意味を持たない存在のようだった。
「役割が、決まってないのかもな」
ルージュが軽く肩をすくめる。いつもの軽口が出かけて、途中で止まった。
「こういう場所、嫌い。罠も多いし、なんか……気分が悪い」
彼女が「嫌い」と言うのは珍しい。魔法使いとして未知を好むはずなのに、ここでは肌が拒否している。
ノワールは先行し、壁と床を目で追っていた。
「視界の隅が歪む。……ここは『見え方』からしておかしい」
言葉が淡々としているのに、背中が冷えた。
通路を曲がる。
角を曲がった瞬間、空気の“密度”が変わる。冷気ではない。重さだ。肺が一拍遅れて膨らむ。
アズルは無意識に剣の柄を握り直した。
青い剣。
いつも通り、手に馴染むはずの感触が、今日は少し頼りない。背中の黒い剣が、触れてもいないのに存在を主張してくる。
最初の魔物が現れたのは、少し開けた広間だった。
形は定まらない。獣のようであり、岩のようでもあり、輪郭が曖昧だ。だが、確かにこちらを“敵”として認識している。
それなのに、眼差しだけが空虚だった。
アズルは前に出た。
「来るぞ」
考えるより早く、身体が動く。
青い剣が走り、最初の一体を切り裂いた。抵抗は弱い。受け身が遅れ、動作が途中で止まる。
斬り抜けた刃から伝わる感触が薄い。肉を断つ手応えではなく、霧を裂いたような。
ルージュの魔法が続く。炎ではなく、圧縮された魔力の刃が空間を裂き、二体目を貫いた。
ノワールは影のように消え、背後から急所を突く。ヴェールの精霊が風を送り、仲間の動きを補正する。
完璧な連携。
魔物は次々と倒れていく。
――気持ちいい。
剣は冴え、身体は軽い。敵の動きは単調で、対処に迷いはない。訓練の成果が、そのまま結果になる。
なのに、胸の奥に奇妙な空洞が生まれていく。
魔物たちは悲鳴を上げない。憎しみも恐怖も、ほとんど感じられない。
ただ、消える。
消える瞬間だけ、ほんの少し――「やっと終われる」みたいな、安堵が残る。
「……守るものを失ってる」
ヴェールの声が、戦闘の合間に落ちた。
「だから、戦い方も……途中で止まる」
倒した魔物の霧が床に滲む前に消えていく。血も死体も残らない。残るのは、空気の軽さだけ。
広間の奥に、段差があった。
そこから先は、通路ではない。回廊だ。左右に扉が並び、ところどころ崩れている。
「住居区……?」
ルージュが扉の一つを軽く押す。中は空だ。寝台の名残の木片、崩れた棚、白い埃。
「生活の匂いがない」
ノワールが言う。
「物だけがある。……意味が剥がされてる」
意味。
その言葉が、アズルの胸を小さく刺した。
歩き出す。回廊は長い。
途中で、床の石畳が不自然に整いすぎている箇所があった。
「止まれ」
ノワールの声が鋭い。
アズルが足を止めた瞬間、ノワールは小石を一つ転がす。石は、その整いすぎた床に触れた瞬間――音もなく沈んだ。
沈んだはずの床は、何事もなかったように平らなままだ。
「落とし穴じゃない」
ノワールが眉を寄せる。
「“落ちたこと”だけが消える罠だ。踏んだら、踏んだ記録ごと消える。戻れない」
ルージュが口元を歪めた。
「最悪。踏んだ本人だけじゃなく、助けようとした人の“理由”も消えるタイプね」
ヴェールが静かに息を吐く。
「……ここ、世界の歪みの教科書みたい」
ノワールが細い針金と小瓶を取り出し、床を慎重に避けながら道を作る。
アズルは、その手つきを見ているのに、頭の片隅で別の光景が浮かびかける。
同じように、誰かが前を歩いている。
白い背中。
掴もうとして、掴めない。
「アズル」
ヴェールの声で我に返る。
「大丈夫。……ちょっと、眩暈がしただけだ」
嘘ではない。
ただ、眩暈の理由が分からない。
回廊を抜けた先で、次の群れが現れた。
数が多い。
しかも今度は、動きが早い。攻撃の途中で止まる癖は残っているが、量で押してくる。
アズルは深く息を吸い、踏み込む。
青い剣が弧を描き、二体を同時に斬る。
だが、その瞬間、身体が“空いた左側”を前提に動いた。
左手に、何かを持っているはずの感覚。
――違う。
意識した瞬間、動きが僅かに遅れる。
「……っ」
隙を突かれ、爪が肩を掠めた。布が裂け、熱が走る。
「アズル!」
ヴェールの風が即座に割り込み、魔物を吹き飛ばす。だが風の勢いが弱い。押し返す力が途中で薄まり、完全には弾けない。
ヴェールが顔を顰める。
「精霊が……遠い。命令は届くのに、手が届かない」
「なら、私が近づける」
ルージュが指先で空を裂くように魔法陣を描く。
赤い結界が薄く広がり、空気の“丸め込み”に抵抗する。視界が少しだけ鮮明になり、魔物の輪郭が安定した。
「右から三体! 左は私が抑える!」
ルージュの声が戦場を切り分ける。
ノワールが低く告げた。
「今の動き……二刀前提だ」
聞いた瞬間、心臓が強く脈打った。
二刀?
そんな覚えはない。だが、否定できない。
アズルの足運びは、何度も“左の刃”の軌道を組み込んでいる。右で斬る瞬間、左肩が沈み、腰が逆方向に切れる。空の左手が、見えない何かを振ったみたいに。
――足りない。
その感覚が、背中の黒へと意識を引き寄せた。
魔物が一斉に距離を詰める。
アズルは剣を構え、呼吸を整えようとして――整わない。
吸った息が、肺の途中で止まる感覚。
吐いた息が、喉で引っかかる感覚。
世界が、アズルの身体の中で“整え直されよう”としている。
それを拒むように、アズルは踏み込んだ。
剣閃。
一体を断ち、返す刃で二体目を薙ぐ。ノワールが影から一撃を入れ、ルージュの結界が魔物の動きを遅らせる。ヴェールが風を“絞って”送り、アズルの踏み込みだけを加速させた。
「いける……!」
短い確信。
だが次の瞬間、広間の奥から“圧”が流れ込んだ。
今までの魔物と違う。
形が安定している。動きも明確だ。敵意は薄いが、確固とした“役割”を帯びている。
守るべきものも、壊すべきものもないのに。
ただ、役割だけが残っている。
それが、逆に恐ろしい。
アズルは押され始めた。
青い剣で受け、弾き、斬る。だが、決定打に欠ける。相手は“痛み”を知らないように前へ出てくる。
――間に合わない。
反射的に、黒い剣へ手が伸びた。
鞘から半分、抜けた瞬間――
世界が軋んだ。
空気が震え、ダンジョン全体が呼吸する。拒絶と許容が同時に押し寄せ、頭の奥に映像が流れ込む。
血。
命令。
白い光。
そして、誰かの泣き声。
泣き声は、すぐに“均される”。泣いていたこと自体が薄れていく。悲しみが削られていく。
その感覚に、アズルの胃が反転した。
「アズル、まだだ!」
ヴェールの叫びが、意識を繋ぎ止めた。
ヴェールは祈るように手を重ね、精霊に命令ではなく“頼む”ように呼びかけていた。風がかすかに震え、アズルの背中を押す。
アズルは歯を食いしばり、黒を戻す。
戻した瞬間、呼吸が戻った。
だが、代わりに焦燥が増した。
足りない。
足りないのに、出せない。
その矛盾が、腕の筋をきしませた。
その隙を、ルージュとノワールが作った。
ルージュの結界が敵の動きを縛り、ノワールの影の刃が足を奪う。
「今!」
アズルは全力で踏み込み、青い剣を振り抜いた。
刃が核を断つ。
斬った瞬間、手応えが“確か”だった。霧ではなく、硬い何かを断った感覚。
魔物は、初めて“感情”を残した。
――終われる。
声ではない。言葉ですらない。けれど確かに、終わりを望む意志がそこにあった。
霧となって消えた後、空気が一段軽くなる。
静けさが、少しだけ自然になる。
精霊が、ようやく自発的に動き始めた。
ヴェールの頬に、ほんの僅かな色が戻る。
「……勝利じゃない」
ヴェールが静かに言う。
「解放、だね」
ルージュが息を吐き、魔法陣を消す。
「気分は良くないけど……たしかに、空気がマシになった」
ノワールは倒れた場所を見つめ、帳面に短く記した。
「役割が終わった個体。消滅時の残留感情――安堵」
通路の先、大広間が姿を現す。
今までより一段広い。天井は高く、中央に円形の空間がある。
中央には、まだ見えない“何か”。
光が届かないのに、そこだけ輪郭がある。見えないはずなのに、“ある”と分かる。
アズルの背中で、黒い剣が低く鳴った。
それは音ではなく、骨に伝わる震え。
――来い。
そんな呼びかけにも似ていた。
「……俺は、ここで何かを終わらせた」
理由は思い出せない。
それでも、身体だけが確信している。
思い出してはいけない、と同時に。
ヴェールがそっとアズルの袖を掴んだ。
「一人で背負わないで。……ここ、きっと、みんなの場所だから」
ルージュが鼻で笑い、いつもの調子を装う。
「はいはい、感動は後で。まずは生きて帰るのが先」
ノワールは影の位置を確かめ、淡々と頷く。
「進む。核心が近い」
アズルは青い剣の柄を握り直した。
もう一本の重さを背中に感じながら。
彼らは、さらに奥へと歩を進めた。




