memory 1:魔王討伐の翌日
# memory 1:魔王討伐の翌日
朝の光は、王城の高い窓から斜めに差し込んで、絨毯の上に金色の帯を落としていた。
アズルはその帯の端で目を覚ました。
頭の奥が、鈍く脈打つ。
酒――。
昨夜の祝賀会の光景が、不意に脳裏をかすめた。
王城の大広間。無数の燭台。高く掲げられた杯。
王が何かを語っていたはずなのに、言葉だけが音を失っている。周囲は確かに笑い、拍手し、歓声を上げているのに、肝心の声が耳に届かない。
誰かが――壇上の奥で、こちらを見ていた気がした。
笑っていた、ような。
だが、顔が思い出せない。
その存在を思い浮かべようとした瞬間、記憶は白く滲み、途切れた。
昨夜の祝賀会の記憶が、きらきらした破片みたいに浮かんでは沈む。杯を重ね、誰かが歌い、誰かが笑って、王都の大広間が熱を持っていた。
その“翌朝”が、こんなにも静かだなんて。
彼は身を起こそうとして、動きを止めた。
……息が、近い。
視線を落とすと、隣の寝台にヴェールがいた。薄い寝間着の胸元が、呼吸に合わせてわずかに上下している。母性的で優しいはずの彼女の寝顔は、子どもみたいに無防備で――そして、無防備すぎた。
(……見ちゃだめだ)
アズルは咄嗟に顔を背けた。
向かいの寝台では、ルージュが大の字で寝ていた。赤い髪が枕から溢れ、布団は半分落ち、片脚が堂々と外に出ている。昨日までの快活な小悪魔っぽさは影をひそめ、ただただ無邪気に眠っている。
さらにその奥。
ノワールは――一見するといつも通りに整っているようで、髪だけがわずかに乱れていた。きちんとした寝相。だが枕元に落ちた黒いリボンが、彼女の“崩れた形”を主張している。
(……なんで、四人で同じ部屋なんだよ)
豪華な客間。天蓋付きの寝台が二つと、簡易な寝台がいくつか増やされている。英雄用、というやつだろう。だが英雄にしては、ずいぶん雑な扱いだ。
アズルは咳払いを一つして、なるべく平静を装って立ち上がった。
足元が少しふらつく。
(くそ……酒、強くないんだって)
そう思いながらも、昨夜の自分が断り切れなかったことを思い出して、苦笑する。
部屋の隅に置かれた水差しから杯に水を注ぎ、一口。
冷たい水が喉を通って、ようやく現実が輪郭を取り戻す。
――魔王。
その単語がふっと頭をよぎった。
アズルは眉をひそめる。
(……魔王を、倒した)
昨夜、そう言われた。王は泣き、貴族たちは拍手し、民は街を挙げて踊った。
なのに。
胸の奥に、何かが引っかかっている。
“倒した”という実感が、どうしても薄い。
まるで、乾いた紙の上を指でなぞっているような感覚。確かに文字は書かれているのに、インクが染みていない。
(……変だ)
アズルが考え込んだ、そのとき。
「……ん……」
ヴェールが小さく声を漏らして、寝返りを打った。胸元がさらに――
(あっ)
アズルは反射的に視線を逸らし、机の上の花瓶に目をやった。
生けられているのは白い花。
花の名前が、ふと出てこない。
(……俺、何考えてる)
自分で自分に突っ込みながら、彼はルージュの方へ近づく。
「おい、ルージュ。起きろ」
「んー……あと五分……」
寝言のまま布団を抱きしめる。
(騎士団出身がそれでいいのか)
アズルが肩を軽く揺すってやると、ルージュはようやく片目を開けた。
「……あ、アズル? おはよ。……頭、割れそう」
「同感だ」
彼らのやり取りに反応したのか、ノワールが静かに起き上がる。
「……警戒が甘い。城とはいえ、同室は」
「それ以前に、服だ」
アズルは視線を逸らしながら言った。
部屋の隅には、人数分の衣装が丁寧に並べられている。どれも仕立てが良く、装飾過多で、いかにも“英雄用”だった。
「うわ……なにこれ。派手すぎない?」
ルージュが一着を持ち上げ、顔をしかめる。
「これ、絶対貴族の趣味だよ。動きづらそう」
ルージュはそう言いながら、アズルの外套を手に取った。
距離が、近い。
「え、あ……ルージュ?」
「ここ、留め具が……」
指先が胸元に触れそうになり、アズルは反射的に一歩下がった。
「だ、大丈夫だ! 自分でやる!」
ルージュがにやにや笑う。
「なに赤くなってんのさ。昨日はあんなに――」
「言うな!」
ノワールは無言で衣装を手に取り、完璧な手順で着替えを始めていた。その動きには一切の無駄がない。
(……温度差がすごい)
「それは俺が言いたい」
アズルが即座に返すと、ノワールは一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの無表情に戻った。
ヴェールもようやく上体を起こし、寝ぼけ眼で周囲を見回す。
「……朝、ですか……」
その直後、部屋の外から、かすかな音が聞こえた。
遠くで鳴る太鼓の低い響き。人の声が重なり合うざわめき。
――歓声?
アズルは窓の方へ視線を向ける。
「……もう、人が集まってるのか?」
理由は分からない。ただ、胸の奥がざわついた。
「……朝、ですか……。おはよう、アズル。みんな」
その声は優しく、いつも通りだ。
いつも通り――のはずなのに。
アズルは、何かが足りない感覚を覚える。
昨夜まで、確かに彼らは“何か”を共有していた。
命を懸けて、同じ方向を見ていた。
それが。
今朝は、薄い膜一枚隔てているように感じる。
「ねえねえ、昨日さ……」
ルージュが髪をかき上げながら、にやっと笑った。
「私、結構飲んだよね? アズルも、顔赤かったし」
「……言うな」
「ヴェールなんてさ、途中からずーっとアズルの隣を死守してたし?」
「え……?」
ヴェールが頬を赤くして、困ったように微笑む。
「そ、そんな……。わたし、そんなこと……」
(……したのか?)
アズルは昨夜の記憶を探る。
杯。笑い声。王の言葉。
――そして。
肝心の、魔王のこと。
思い出そうとした瞬間、頭の中が白くなる。
手が止まる。
呼吸がわずかに浅くなる。
(……なんだ、これ)
「アズル?」
ノワールが、気づいたようにこちらを見る。
アズルは平静を装って、わざと軽い調子で言った。
「……なあ。魔王って、どんなやつだったっけ」
――部屋の空気が、止まった。
ルージュの笑みが一瞬だけ固まる。
ヴェールの指先が、胸元を押さえる。
ノワールが視線を落とし、言葉を探す。
「……どんな、って……」
ルージュが口を開くが、続かない。
「……ごめん。今、思い出そうとしたら……」
ヴェールの声は小さかった。
アズルの胸の奥に、冷たいものが落ちる。
(俺だけじゃない)
「……妙ですね」
ノワールが呟く。
「昨夜、確かに討伐の報告を受けて……王は泣いて……」
「そう。みんな、祝ってた」
アズルは喉の乾きを感じる。
「なのに、肝心の部分が……抜けてる」
ルージュが、わざと明るく笑い直した。
「ま、まあ! 昨日飲みすぎたんだよ! そーいうこと、あるって!」
「……あるか?」
アズルが突っ込むと、ルージュはむっとして頬を膨らませた。
「あるの!」
ヴェールが間に入るように、柔らかく言う。
「きっと……疲れていたんです。みんな」
その言葉は、慰めの形をしている。
だけど、慰めで片づけていい違和感じゃない。
アズルの胸の奥で、“何か”が鳴っている。
――忘れたままではいけない。
そう告げる、見えない鐘の音。
そのとき。
コンコン、と扉が叩かれた。
四人が同時に顔を上げる。
「失礼いたします」
扉が開き、王城の衛兵が一礼して入ってきた。
整った鎧。堅い表情。
だがその目には、どこか「当然」の色があった。
「英雄の皆さま。パレードの準備が整いました。これよりご案内いたします」
「……パレード?」
アズルの口から、素直な疑問が漏れた。
衛兵がわずかに眉を動かす。
「はい。王都の大通りにて。民が皆、皆さまの凱旋を待っております」
ヴェールが小さく息を飲む。
ノワールが短く言う。
「……聞いていない」
「えぇ?」
衛兵の表情に、一瞬だけ“困惑”が混じる。
だがすぐに、それも消える。
「……失礼。準備はすでに整っております。お時間はあまりございませんので」
まるで。
こちらの都合など、最初から数に入っていないかのように。
アズルは唇を噛んだ。
(……俺たちは、英雄なんだろ?)
それなのに、何かが――おかしい。
ルージュが肩をすくめて、笑った。
「ま、いっか! 行ってみようよ。英雄パレードだってさ!」
ヴェールも頷く。
「……行きましょう。民の方々が……待っているなら」
ノワールは何も言わず、ただ扉の方へ歩き出した。
アズルは最後にもう一度、部屋を見回す。
白い花。
朝の光。
そして、胸の奥の空白。
(……俺たちは、本当に世界を救ったのか?)
その問いを、飲み込むように喉の奥へ押し込めて。
アズルは、衛兵の後に続いた。
---




