第5章:霧の迷宮探検
「ここが霧の迷宮か…」
俺たちは学園島の西側に位置する霧の森の入口に立っていた。通常は立ち入り禁止区域とされるこの森は、体育祭の期間中だけ特別に開放される。うっそうと茂る木々の間から、薄い青い霧が立ち込めていた。
「怖いよ…」
すずねが俺の腕にしがみついた。
「森の中、暗いし…」
確かに不気味な雰囲気だった。木々は通常の木々より濃い緑色で、幹はねじれ、枝は不自然に絡み合っていた。まるで生きているかのようだ。そして森全体を包む霧は、天蒼の霧よりも濃く、所々で渦を巻いていた。
「霧の迷宮は単なる森じゃない」
莉玖が魔導書を開きながら説明した。
「この森自体が古代の魔法によって作られた巨大な迷宮なの。空間が歪み、重力が変化し、時間の流れさえ不安定…」
「おまけに幻影や幻聴も発生するらしい」
紅が補足した。
「心が弱い者は、幻に惑わされて永遠に彷徨うことになる」
「ほ、本当に入るの?」
すずねの顔が青ざめた。
「試練だからな」
紅はため息をついた。
「だが心配するな。お前の霧属性は、この迷宮では有利に働くはずだ」
「そうね。霧属性は『見えないものを見る』能力がある。幻影を見破るのに役立つわ」
莉玖が頷いた。
「そっか…すずねの出番だね!」
幻晶獣討伐から三日経ち、俺たちは第二の試練「霧の迷宮探検」に臨むところだった。この間、チームの連携を高めるため、毎日特訓を重ねてきた。俺自身も風の力の扱いに少しずつ慣れてきた。まだ完全とは言えないが、少なくとも基本的な風の刃は安定して出せるようになった。
「作戦を確認します」
莉玖が地図を広げた。それは正確な地図というより、過去の記録から再現された概略図だった。
「迷宮の中心に『重力の石碑』があるわ。それを起動させて、出口への道を開くのが目的」
「道中には三つの関門がある」
紅が言った。
「重力反転の通路、時間逆行の間、そして幻影の回廊だ」
「それぞれの関門には、古代のルーンが刻まれているはず」
莉玖が続けた。
「私がそれを解読し、突破する手がかりを得る。すずねさんは幻影を見破り、颯と紅先輩は私たちを守る役割」
「では、行きましょう」
莉玖の合図で、私たちは森の中へと足を踏み入れた。入った瞬間、空気が変わった。より冷たく、より重く感じる。霧が肌に触れると、微かにぴりぴりとした感覚がある。魔力を帯びた霧なのだろう。
「気をつけて」
紅が警戒心を強めた声で言った。
「何が起きても慌てるな。常に互いの姿が見えるよう、近くにいろ」
森の中は予想以上に暗かった。木々が密集し、空からの光をほとんど遮っている。だが不思議なことに、霧自体が微かに発光していた。青白い光が森全体を幻想的に照らしていた。
「綺麗…」
すずねが呟いた。
「彼女の周りの霧が特別に強く反応し、小さな渦を作っている。彼女の霧属性が共鳴しているのだろう。」
「第一関門は…」
莉玖が立ち止まり、空気の流れを感じ取るように手を広げた。
「あっちね」
彼女が示した方向に進むと、やがて開けた空間に出た。そこには複数の大きな石碑が立ち並んでいた。一つ一つに奇妙な模様が刻まれている。
「重力反転の石碑…」
莉玖が近づいて石碑を調べた。
「古代のルーンが刻まれているわ」
彼女がルーンを解読している間、俺たちは周囲を警戒した。この森には幻晶獣とは別の魔物が潜んでいると言われている。
「これは…」
莉玖の声に、ハッとして振り返る。
「『床は天井、天井は床、歩む者は道を見失う』…警告文ね」
「どういう意味だ?」
紅が尋ねた。
答える間もなく、足元から異変が起きた。地面が揺れ、まるで重力が変わるように感覚が狂い始める。
「うわっ!」
気づくと、私たちの体が宙に浮いていた。いや、正確には重力が反転し、私たちは「天井」に立っていたのだ。上下の感覚が完全に狂い、めまいがした。
「皆、冷静に!」
莉玖が叫んだ。
「これが最初の試練よ。重力の反転」
確かに、上を見上げれば(実際には下を見下ろせば)、先ほどまで立っていた地面が見える。空間全体が上下逆さまになったようだった。
「う、気持ち悪い…」
すずねが顔を青ざめさせた。
「大丈夫か?」
俺はすずねの肩を支えた。
「うん…ちょっと、めまいがするだけ…」
「この状態で進まなければならないのか」
紅が周囲を見回した。
「ええ、次の石碑まで」
莉玖が頷いた。
重力が反転した状態で歩くのは非常に難しかった。脳が混乱し、一歩一歩が恐怖との戦いだった。天井(今の私たちにとっては床)は平らではなく、所々に突起や窪みがあり、足場が不安定だった。
「風で安定させるわ」
莉玖が風の魔法を使い、私たちの周りに薄い風の膜を張った。それにより、多少は歩きやすくなる。
「火で照らすぞ」
紅も火剣から炎を出し、周囲を明るく照らした。石碑群の向こうに、新たな通路が見えた。
「あそこに行けばいいのね」
慎重に歩を進める中、突然、すずねが立ち止まった。
「待って…あそこに何かいる!」
彼女が指さす方向を見ると、霧の中に人影のようなものが見える。だが、よく見ると人の形をしているようで、でも人ではない…何かが歪んでいた。
「幻影だ」
紅が警戒した。
「近づくな」
「これは…幻じゃないよ。本物の何か…」
すずねの声が震えていた。
彼女の言葉通り、霧の中から何かが飛び出してきた。半透明の生き物、まるで霧そのものが形を取ったかのような存在だった。
「霧の使い魔!」
莉玖が叫んだ。
その生き物は私たちに向かって突進してきた。紅が素早く火剣を振るい、炎の壁を作って防御した。炎に触れた使い魔は悲鳴を上げ、一瞬後退した。
「颯、行くよ!」
紅が声をかけた。
「ああ!」
俺は風の刃を形成し、使い魔に向かって跳んだ。上下逆さまの世界で跳躍するのは難しかったが、体内の風を操って体勢を安定させる。
「はあっ!」
風の刃が使い魔を貫いた。だが、霧のような体は刃を通り抜けるだけで、ダメージを与えられない。
「物理攻撃は効かないわ!」
莉玖が叫んだ。
「魔力で押し返して!」
彼女が強力な風の渦を起こし、使い魔を包み込んだ。風の圧力で使い魔の体が圧縮され、苦しそうに身もだえする。
「すずね、助ける!」
「霧よ、我が声を聞け。同胞の迷いを解き放て!」
すずねの魔法が使い魔に触れると、その体が徐々に霧に戻っていった。やがて完全に消え、通常の霧と同化した。
「すごい…」
俺は思わず呟いた。
「すずね、お前それができたのか」
「うん、霧を操るのは基本…でも、大きいのはまだ難しいよ」
すずねは少し照れた様子で頷いた。
「頼もしいな」
紅も珍しく褒めた。
「さあ、進みましょう」
莉玖が言った。
私たちは慎重に進み、やがて新たな石碑群に到達した。そこには先ほどとは違う模様が刻まれていた。
「これは…」
莉玖がルーンを解読する。
「『正しき順に踏めば道は開かれん』…」
「踏む?何を?」
紅が尋ねた。
「これらの模様を、正しい順序で踏むことで次に進めるんだわ」
莉玖が説明した。
「でも、正しい順序って…」
俺が疑問に思っていると、すずねが声を上げた。
「あ!石碑に同じ模様があるよ!」
確かに、石碑には地面の模様と同じものが刻まれていた。だが、その配置は異なっている。
「解読してみるわ…」
莉玖が石碑を詳しく調べた。
「これは…星座の配置を表しているわ。北斗七星、オリオン…古代の星座信仰ね」
彼女は地面の模様を見て回り、「最初はこれ、次にこれ…」と順序を決めていった。
「準備はいい?」
莉玖が私たちに尋ねた。
「間違えると、罠が作動するかもしれないわ」
全員が頷き、莉玖の指示通りに模様を踏んでいった。最後の模様を踏むと、石碑が光り始め、私たちの前に新たな通路が開いた。同時に、重力が元に戻り、私たちは通常の地面に立っていた。
「ふう…」
すずねが安堵の息を吐いた。
「やっと普通に歩ける」
「まだ油断するな」
紅が言った。
「次は時間逆行の間だ」
新たな通路を進むと、さらに霧が濃くなっていった。光の加減か、霧の色が少し変わり、青みがかった緑色に見えた。
「碧霧…」
すずねが小声で言った。
「先生が話してた霧だ」
「碧霧?」
俺は聞き返した。
「うん、普通の霧より、魔力が強いんだって。時間に影響するって」
「時間逆行の間に関係あるのかもな」
私たちが話している間に、森の様子がさらに変わっていった。木々が密集し、道が曲がりくねり、方向感覚がどんどん失われていく。
「あそこ」
莉玖が指さした先に、円形の空間が見えた。中央には大きな水晶の時計が置かれている。
「時間逆行の間ね」
時計の周りには碧色の霧が渦巻き、不思議な光景を作り出していた。床には複雑な魔法陣が描かれ、それが微かに光っている。
「注意して」
紅が警戒した。
「何か起きそうだ」
私たちが空間に足を踏み入れると、突然、時計が動き始めた。針が逆回りし始め、音もなく高速で回転する。
「あ!」
すずねが声を上げた。
気づくと、私たちの周りの景色が少しずつ変化していた。木々が若返り、枯れていた葉が緑に戻り、地面から新たな芽が出ている。時間が逆行しているのだ。
「これは…時間魔法?」
俺は驚きを隠せなかった。
「いいえ、完全な時間逆行じゃないわ」
莉玖が説明した。
「この空間の中だけ、限定的に時間の流れが逆転しているの」
その時、空間全体が揺れた。そして次の瞬間、私たちは入口に戻っていた。先ほどまでの行動が「巻き戻された」のだ。
「なっ…」
紅も驚いた様子だった。
「繰り返しのループに入ったわ」
莉玖が言った。
「時計を止めない限り、永遠にここから出られない」
「じゃあ、時計を壊せばいいの?」
すずねが提案した。
「そう単純ではないはず…」
莉玖が周囲を調べ始めた。
「何か仕掛けがある」
私たちは再び中央へと進み、時計を詳しく観察した。すると、時計の周りに小さなルーンが刻まれているのが見えた。
「『過去に囚われし者に未来なし。現在を生きる者のみ道は開かれん』…」
莉玖がルーンを解読した。
「意味は?」
紅が尋ねた。
その瞬間、再び時間が逆行し、私たちは入口に戻った。
「うぅ…もう嫌だよ…」
すずねが頭を抱えた。
「ぐるぐるするよ…」
「待って」
俺が考え込んだ。
「『現在を生きる者のみ』…もしかして」
「何か思いついた?」
莉玖が尋ねた。
「時間逆行しても、私たちの意識は逆行していないよな?つまり、私たちの「現在」は継続しているんだ」
莉玖の目が輝いた。
「なるほど!私たちの意識の「現在」が鍵なのね!」
「でも、どうすれば…」
その時、すずねが小さな声で言った。
「あそこ…」
彼女が指さす方向を見ると、時計の横に小さな台座があった。先ほどは気づかなかったものだ。
「霧の中、見えたの」
すずねが説明した。
「すずね、霧の中のものが見えるから」
私たちは再び中央へと進み、その台座を調べた。表面には手形が彫られていた。
「ここに手を置くのね」
莉玖が言った。
「でも…」
「全員で同時に」
紅が言った。
「『現在を生きる者』、つまり私たち全員だ」
私たちは時計が動き出す前に、急いで台座に手を置いた。すると、台座が光り始め、時計の針が止まった。空間全体から緊張感が抜け、碧色の霧が薄れていった。
「成功したわ!」
莉玖が喜んだ。
「やったー!」
すずねも飛び跳ねて喜んだ。
先に進むと、新たな通路が現れた。最後の関門、幻影の回廊へと続く道だ。
「最後の試練だ」
紅が言った。
「気を引き締めろ」
幻影の回廊は、その名の通り幻影に満ちた場所だった。廊下の両側に大きな鏡が並び、その中に様々な映像が映し出されていた。過去の記憶、恐怖の対象、願望…人それぞれが異なる幻影を見るようだった。
「自分の心に負けるな」
紅が警告した。
俺は鏡の中に、かつての自分を見た。魔力がなく、周囲から疎外され、孤独に苦しむ姿。そして、その対極にある理想の自分。強大な魔力を持ち、誰からも認められる姿。どちらも「俺」ではあるが、過去と願望に過ぎない。
「鏡に見入るな」
莉玖の声が俺を現実に引き戻した。
「前だけ見て」
すずねは怯えた様子で俺の服の裾を掴んでいた。
「怖いよ…すずね、変なもの見える…」
「大丈夫だ」
俺はすずねの頭を撫でた。
「俺たちは一緒だ。幻に惑わされないぞ」
紅も前を向いたまま歩き続けた。彼女は何を見ているのだろう。表情からは何も読み取れない。
「出口が見えるわ」
莉玖が前方を指さした。
回廊の先には、明るい光が見えた。
だが、出口に近づこうとしたその時、鏡の中から霧のような存在が飛び出してきた。それは私たち一人一人の姿を模した幻影だった。
「なっ…!」
私たちの前に、もう一人の私たちが立ちはだかった。鏡像、あるいは影とでも言うべき存在。
「最後の試練ね」
莉玖が身構えた。
「自分自身との対決」
紅は無言で火剣を構え、鏡像の紅と対峙した。莉玖も風の魔法を準備する。すずねは恐る恐る自分の鏡像を見つめていた。
俺の前には、風の刃を持った別の俺が立っていた。表情は冷たく、目には敵意が宿っている。
「自分に打ち勝て…」
紅の声が響いた。
鏡像たちが一斉に攻撃を仕掛けてきた。紅の鏡像は炎の剣で斬りかかり、莉玖の鏡像は強力な風の渦を放った。すずねの鏡像は紫色の霧を吐き出し、俺の鏡像は風の刃で突進してきた。
「くっ…!」
俺は風の刃で鏡像の攻撃を受け止めた。驚くべきことに、鏡像の力は俺と全く同じ。いや、むしろより強いようにも感じる。
「皆、個別に戦わないで!」
莉玖が叫んだ。
「お互いの鏡像と戦いましょう!」
なるほど、自分と同じ力を持つ相手なら、弱点も同じということだ。
「すずね!」
俺が声をかけると、すずねは理解したように頷いた。
彼女は俺の鏡像に向かって霧の魔法を放った。鏡像が一瞬動きを止めたところを、俺が風の刃で攻撃する。鏡像は霧のように散った。
同様に、俺は莉玖の鏡像に風の刃を放ち、紅はすずねの鏡像を炎で包み込んだ。莉玖は紅の鏡像を強力な風で吹き飛ばした。
敵を入れ替えることで、私たちは次々と鏡像を打ち破っていった。最後の一体が消えると、回廊の鏡が全て砕け散り、出口への道が開かれた。
「やった…」
俺は肩で息をしながら言った。
「皆、よくやったわ」
莉玖も安堵の表情を見せた。
「協力すれば、自分自身の限界さえ超えられる…か」
紅が感慨深げに呟いた。
「すずね、怖かったよ~」
すずねが俺にしがみついた。
「でも、みんなといると強いね!」
出口を抜けると、そこは森の中心だった。小さな広場のような空間に、大きな石碑が立っていた。「重力の石碑」だ。
「これが目的地ね」
莉玖が石碑に近づいた。
「これを起動させれば…」
彼女がルーンを解読し、石碑に魔力を注ぐと、石碑が青く光り始めた。地面が揺れ、周囲の霧が渦を巻き、やがて晴れていった。森全体の霧が薄れ、出口への道が現れたのだ。
「任務完了」
紅が満足そうに言った。
「やったー!」
すずねが喜んだ。
森を出ると、試験官たちが私たちを出迎えた。
「霧の迷宮探検、成功です。おめでとうございます」
試験官の言葉に、他の生徒たちからも拍手が沸き起こった。すでに何チームかは戻っていたようだが、まだ迷宮の中にいるチームも多かった。
「二つ目の試練もクリアだな」
紅が言った。
「次は『幻影図書館の試練』ね」
莉玖が言った。
「さらに難易度が上がるわ」
「でも、私たちなら大丈夫!」
すずねが元気よく言った。
「颯たちと一緒なら、すずね、何でもできる気がする!」
俺は微笑んだ。
「次の試練までは少し時間があるわ」
莉玖が言った。
「休息して、力を蓄えましょう」
「ああ」
俺は頷いた。
「次も、絶対成功させよう」
蒼天の下、私たちの挑戦はまだ続く。だが、もはや恐れはなかった。この仲間たちと共にあれば、どんな試練も乗り越えられる気がしたから。