第3章:風の契約、刃の覚醒
朝の光が、風の聖堂の古い石壁を淡く照らしていた。学園島の北端に位置するこの聖堂は、風属性の魔力が最も強く集まる場所とされている。八角形の建物は、高い尖塔と幾重にも重なるアーチが特徴的で、窓から差し込む光が幾何学模様の影を床に落としていた。
俺は聖堂の中央にある風の祭壇の前に立ち、不安と期待が入り混じった複雑な心境で周囲を見回していた。空気が微かに震え、耳に聞こえないほどの低い唸り声のような音が全身を包み込む。この場所には何かがある——魔力を感じられない俺でも、そう直感できるほどの存在感だ。
「なぜ俺がここにいるんだ…」
呟きが、高い天井に吸い込まれていく。昨日の夜、突然莉玖から呼び出しを受けた。「明日、日の出前に風の聖堂へ来て」というシンプルなメッセージだった。理由は告げられず、ただここに来るようにと。そして今、俺は一人でこの場所に立っていた。
祭壇には古代文字が刻まれ、中央には透明な水晶が置かれていた。水晶の中では、小さな風が渦を巻いているように見える。俺は思わず手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。魔力のない自分が触れていいものではないだろう。
「触れても大丈夫よ」
声がして振り返ると、莉玖が聖堂の入口に立っていた。儀式用と思われる純白のローブを身にまとい、彼女はまるで風の精霊のように見えた。その後ろには、紅とすずねの姿もあった。紅は赤と黒の厳格な装束で、すずねは薄紫の小さなローブ姿だ。
「みんな…なんでここに?」
「説明するわ」莉玖が俺に近づいた。「昨日、チーム編成を提出したの。私と、紅先輩と、あなたと——」
「それから、すずね!」すずねが元気よく手を挙げた。
莉玖は小さく頷いた。「ええ、小鳥遊すずねさん」
「四人一組で?」俺は困惑した。「それは体育祭のルールだけど、なぜ俺が…?それに、すずねは霧属性だろ?」
「特例よ」莉玖は静かに答えた。「霧属性は数が少ないから、希望すれば他チームに加われる規定があるの。すずねさんは私たちを選んだ」
すずねは嬉しそうに頷いた。「うん!だって、すずねは颯と一緒がいいもん!」
紅はため息をついた。「だが、問題がある。神楽坂には魔力がない。そのままでは、チームに大きなハンデを背負うことになる」
その言葉に、俺は顔を曇らせた。紅の言うことは正しい。魔力ゼロの自分が加わることで、チームの足を引っ張ることになる。
「だから、私たちは解決策を考えたわ」莉玖が一歩前に出た。「風の契約をするの」
「風の…契約?」
「風の力を、あなたに貸すの」
俺は言葉を失った。そんなことが可能なのか?魔力のない自分に、風の力を与えることができるというのか?
「でも、そんなこと…」
「可能よ」莉玖は自信たっぷりに言った。「古代の魔法書に記されていた儀式を、私が再現するわ。理論上は可能なの」
「理論上は?つまり、実績がないということか?」
「そうよ」莉玖は率直に認めた。「だから危険も伴うかもしれない。でも、私は自信がある」
紅が腕を組んで言った。「風祭の魔法理論は学園一だ。彼女が可能だと言うなら、信じていい」
「颯、私も信じてる!」すずねが元気よく言った。「だって、すずねにはわかるもん。颯には風の才能があるって」
三人の顔を順に見る。彼女たちは本気だ。俺のような魔力ゼロの落ちこぼれに、力を与えようとしている。その理由は分からないが、少なくとも彼女たちは俺を信じているようだ。
「…やってみる」
意を決して言うと、三人の表情がぱっと明るくなった。特に莉玖の顔に浮かんだ安堵の表情は、俺の胸を熱くした。
「では、準備を始めましょう」
莉玖の指示で、紅とすずねが祭壇の周りに青い蝋燭を置き始めた。その間、莉玖は俺の手を取り、祭壇の中央へと導いた。彼女の手は小さいのに、しっかりとした力があった。
「神楽坂颯」莉玖が儀式的な声色で言った。「あなたは風の契約を望みますか?」
「望む…」
何も分からず答える俺に、莉玖は小さく微笑んだ。
「では、始めます」
莉玖が祭壇の水晶に手を置くと、周囲の蝋燭が一斉に青い炎を灯した。その光は不思議と温かく、恐怖よりも安心感を覚えた。
「風よ、聞け。我らは契約を望む。風の力なき者へ、風の祝福を」
莉玖の唱える言葉は、古い言語のようでもあり、現代の言葉のようでもあった。彼女の周りに淡い青い光が広がり始める。その光が、まるで生きているかのように渦を巻き、俺の周りを取り囲んだ。
「風の契約とは、魂の結合。風祭莉玖、我が風の一部を神楽坂颯に与えん」
俺の周りを回っていた風が、突然強くなった。髪が揺れ、服がはためく。それなのに、恐怖は感じない。むしろ、懐かしさのようなものを覚えた。生まれる前から知っていたような、でも今まで忘れていたような感覚。
「颯、手を出して」
莉玖の言葉に従い、俺は両手を前に差し出した。彼女も同じように手を出し、指先が触れるか触れないかの距離で止まる。その間に、青い光の帯が生まれた。
「風の名において、契約を結ぶ」
莉玖がそう言った瞬間、激しい痛みが俺の全身を襲った。まるで体中の血管に火がついたような感覚。思わず叫び声を上げそうになったが、喉から出たのは風のような音だった。
「颯!大丈夫?」すずねが心配そうに叫んだ。
俺は答えられない。全身を痛みが駆け巡る。だが、その痛みは徐々に変わってきた。痛みから、熱へ。熱から、力へ。
俺の両手に、青い光が集まり始めた。それは小さな炎のように揺らめき、やがて手のひら全体を覆った。その光は痛くも熱くもなく、むしろ心地良い感覚だった。
「起きている…」莉玖の目が驚きと喜びで輝いた。「風があなたを選んだわ」
「本当だ…」紅も信じられないという表情だった。
俺は自分の手を見つめた。青い光が手から腕へ、やがて全身へと広がっていく。そして、その光が肌の中へと吸収されていった。外からは見えなくなったが、体の中で何かが目覚めたような感覚があった。
「これが…魔力?」
莉玖は嬉しそうに頷いた。「ええ、あなたの中に風の力が宿ったわ。まだ弱いけど、確かにそこにある」
「やったー!」すずねが飛び跳ねながら喜んだ。「すずね知ってたよ!颯には風の才能があるって!」
「驚いた」紅も珍しく感情を表に出していた。「まさか本当に成功するとは」
「…これで終わりなのか?」
俺は自分の体を見回した。外見は変わっていない。でも、確かに中には何かがある。生まれて初めて感じる魔力の存在。小さいが、確かにそこにあった。
「いいえ、まだよ」莉玖が言った。「次は、その力を形にしなくては。風の刃を」
「風の刃?」
「風属性の基本形よ。風を切り裂く刃として具現化する術」
莉玖に導かれ、俺たちは聖堂を出た。外の広場には、巨大な石の柱が立っていた。修行用のものらしい。
「あの柱を切ってみて」莉玖が言った。
「切る?でも、どうやって…」
「感じるの。あなたの中にある風を。それを集中させ、手の形で導く」
紅が横から助言を加えた。「力を入れすぎるな。流れるように。風は自由だ。縛りつけようとすると逃げる」
すずねも応援する。「颯なら、できるよ!」
俺は深呼吸をして、柱に向き合った。目を閉じ、体の中の新しい感覚に意識を向ける。そこには確かに何かがあった。風のような、軽やかで自由な何か。
「風よ…」
俺の呟きに反応するように、体内の何かが動いた。その感覚を追いかけ、手に集中させる。手のひらがじんじんと熱くなった。
「形にして…」
風を握りしめるようなイメージで手を握ると、掌から青い光が漏れ出した。その光が伸び、刀の形になる。風の刃だ。
「すごい!」すずねが歓声を上げた。
「やってみて」莉玖が促した。
俺は風の刃を構え、柱に向かって一閃した。
刹那、轟音が響いた。石の柱が、まるで紙を切るかのように真っ二つに切断されていた。切断面は驚くほど滑らかで、まるでレーザーで切ったようだった。
「ああ…」
あまりの力に、俺自身が驚いて言葉を失った。手にした風の刃が消え、代わりに疲労感が押し寄せてきた。膝から力が抜け、座り込みそうになる。
「大丈夫?」莉玖が駆け寄り、俺の肩を支えた。
「ああ、ただ…疲れた」
「初めてにしては素晴らしいわ」彼女の顔には明らかな喜びがあった。「あなたは天才よ、颯」
天才?俺が?魔力ゼロだった俺が?
すずねが嬉しそうに飛びついてきた。「すずね知ってた!颯はすごいんだよ!」
「おい、重いぞ」俺は弱々しく笑った。
紅も近づいてきて、珍しく微笑んでいた。「見直したぞ、神楽坂。その力、磨くといい」
「ありがとう…」
だが、その時だった。突然、激しい痛みが俺の胸を襲った。まるで心臓が引き裂かれるような痛み。
「うっ…!」
俺はその場にうずくまり、胸を押さえた。体内の風の力が暴れ出したかのように、全身が震える。
「颯!」莉玖が俺の元に駆け寄った。「大丈夫?何が…」
「風が…暴れてる…」
俺の体から、制御を失った風の力が漏れ出し始めた。周囲の小石や落ち葉が宙に舞い上がる。
「拒絶反応…」莉玖の表情に焦りが浮かんだ。「風があなたの体を拒否している…」
「どうすれば…」
痛みに耐えながら言うのがやっとだった。体が燃えるように熱い。
「チュー式補助魔法!」
突然、すずねが叫んだ。彼女は俺の前に跪き、決意に満ちた表情を見せた。
「すずね?」
「すずねのチューは、魔力を安定させるんだよ!」
そう言って、すずねは顔を近づけてきた。彼女の唇が、俺の額に軽く触れる。
その瞬間、不思議なことが起きた。痛みが和らぎ、暴れていた風の力が静まっていく。体中を駆け巡っていた力が、穏やかな流れに変わった。
「これ、本当に効くのか…?」紅が半信半疑の表情で見ていた。
すずねが満面の笑みで言った。「すずねの魔法だよ!先生に教わったの!」
「すごい…」莉玖も驚いていた。「霧属性の安定化魔法…聞いたことはあったけど、実際に見たのは初めて」
俺は立ち上がった。体内の力が安定し、痛みはすっかり消えていた。代わりに、心地良い感覚が体中を流れている。
「ありがとう、すずね」
彼女は照れたように頬を赤くした。「えへへ、すずねのチューは特別なんだから!」
莉玖は安堵の表情を浮かべていた。「よかった…成功したのね」
「風の契約、成立したんだな」紅も満足げだった。
「これで、俺も…」
「ええ、あなたも立派な風属性よ」莉玖が微笑んだ。「これからは、私たちの仲間として共に戦いましょう」
その言葉に、胸が熱くなった。生まれて初めて、本当の意味での仲間ができた気がした。魔力ゼロの落ちこぼれではなく、風の力を持つ一人の魔法使いとして。
すずねが俺の腕に抱きついた。「やったね、颯!」
「ああ」
俺は空を見上げた。蒼い空には、白い雲が浮かんでいる。その雲が、風に乗って形を変えていく様は、まるで自分の心のようだった。
これから、俺も変わっていくのだろうか。
「さあ、帰りましょう」莉玖が言った。「明日は最初の試練、『幻晶獣討伐の儀』よ。休息も必要」
四人で聖堂を後にする中、俺は自分の手を見つめていた。目には見えないが、確かにそこには風の力が宿っていた。
蒼天が広がる空の下、俺の新しい物語が始まったのだ。