深夜のコンビニ
ハッピーミッドナイト
深夜三時半を過ぎた。夜なべのブルーライトがそろそろ目を赤く滲ませてきた。
僕は一旦ノートパソコンをパタンッと閉じ、腕を組んで椅子の背もたれに上半身を湾曲させる。今の時代、何をするにもモニターを覗かなくてはならない。仕事、娯楽、情報収集。紙でできることはモニター上でいとも容易く実行される。また、メインはアナログであっても、殆どの場合において、付随してデジタル機器が用いられる。ノートパソコン以下デジタル機器たちは、現在進行系で、その利便性を向上させている。今の時代に対して便利すぎる、とさえ思える。どうしたって僕は、こいつらから逃れることはできまい。
でも今は少し休憩を。
首を曲げて背面の壁を窺うと、ブルーライトの長方形がそのまま映っている。今夜の部屋は、若干光度を落としてある。ミッドナイトはもうじき終わるだろう。最近は朝日が昇るのもだんだんと早まってきている。
こう徹夜を繰り返していればすぐに夏が来てしまうな、なんてことを長考した。そうしているうちに時間だけが刻々と経っていた。思わずそのことに気がついて、画面右下のデジタル時計を見遣れば、午前四時十分。この様では、夏はまだしも、春なんて冬の寒さと同じことにして消えてしまうぞ、と自嘲してしまった。冷暖房が年中稼働しているこの部屋だ。冬の寒さくらいだ、気に留まるのは。
さあて、と意気込んで、またブルーライトの猛攻と向き合った。タイプは淡々と為される。意味をなすか、なさないか、執筆中には五里霧中の文字列。部屋に充満する、第三世界の香りだ。夜半にこそ強まる芳しい空気を吸いながら、吐露として灰色の煙を吹き出す。それでも第三世界は在り続ける。僕は単なる変換媒体のように、部屋の芳香を文字にする。コンピュータは入力された文字をまた、人間には理解できない形に変換しているそうだ。――きっと、芳香の主は、僕の作品を理解できないんだろうな。僕も、コンピュータがこの作品から何を感じ取っているのか、理解しようがない。
ハッピーミッドナイト。
片手ほどのメモ帳にプロットを書き込んでいたら、多少の加減のせいか、万年筆のペン先が紙を滑った。罫線を横断する赤黒い傷をつけて、遂にフローリングにインクの溜まりをつくってしまった。両手をディスプレイの前にかざしてみたら、指が痙攣を起こしている。徐ろに頭を反響する、ハッピーミッドナイト。胸からみぞおちにかけて、痛みが疾走った。部屋中を飽和する、ハッピーミッドナイト。唖然として、ソファーの傍の掛け絵を見た。収まれ、収まれ。混濁していく言葉と、言葉。渦を為す情景。掛け絵は、とぐろを巻く雲と蒼穹の下、地平線のその先まで広がる草原を描いていた。僕は空想する。黒一点の影が時も知らずに息遣いだけを感じる。ここがこの世の果てなのだと、そう納得さえして、生死なんて扱いようもないと諦めて、成るがままになる。周期的にブルーライトがちらついた。その度に僕は、現代思想の、ニヒリズムの犠牲となったのだ。まさに吐息だけが、僕を現に繋いでいる。
――僕はそれから、何も書けなくなっていた。
花は綺麗だから、愛でるもの。所詮際限のある世界に過ごしていることが、直面する現実なのだ。自分の創造性の一切が贋作なのだという、根源的なものに触れてしまったようで、動悸が肩を揺らした。いつしか視線は絵画から外れて、血潮のように広がるインクへと落ちていた。ふと胸元を擦ると、露骨に骨や筋肉の構造が皮膚と衣服を介して伝わった。ああ、僕は生きた動物なのだと、実感させられる。機械や記憶媒体ではない、精神的な神秘でもない。命を抱える存在であるのだ。
攣った腕を乱雑に振ってから、後頭部を支える体勢にした。ゆっくりと体重を後ろにかける。なんとか椅子が直立を保つところで白天井を仰いだ。首元の乾燥が消化器官を通じ、胃まで達するようだった。
――かて。
僕の口は、そう呟く。まるでため息の残響のような、曖昧な二文字。草原の一陣に蹴散らされた、草花を揺らす薫風だった。ただし、野草の葉片の代わりに空腹感を残していった。夜なべの恒例ではあるのだが、今宵もやはり、夜食を求める腹が哭いている。
ハングリーミッドナイト。
思考が飯に取り憑かれるというのは、オーバーフローして複雑化した思慮を緩和させる一つの転換点となる。夜食は徹夜の執行を助長するだけなので、かえって心身を削る。ここ数日ほど金銭にか細くて、ひもじいままに就寝していた。ではさて、今宵はどうするか。
また天井を漠然と眺める。どうせこのまま蒲団で横になっても、寝静まることができずに朝陽を迎えるだろう。今日の感覚は、まるで沈没船の船内。格子の隙間から海面を眺めているようだった。海は荒れ狂い、浮かんだ言葉を難破させる。想像が渦を巻いていく。渦郭の牙城から逃亡しなければいけない。
――逃亡ということなら、夜風を食むのもいいかもしれない。ウォーキングミッドナイト。空気は栄養分となるだろうか。光合成の、太陽光の残りかすを僅かに含有しているかもしれない。オールミッドナイトの心が凍りついて仕舞うのを阻害する、微かな期待。籠城しているよりも外が寒いのはわかりきっている。そのうえで一握の期待。高濃度に含有する其れを喰らいたい。判然としない、計画性皆無の未来視だ。
ハングリーミッドナイトが思考を占有した結果の産物なのかもしれないが、逃亡の勇気が吟声のごとき正当性の訴えとともに浮き沈みする。僕は外で起こるであろう顛末に泥酔したみたいだ。
足取りは浮き、朧々たる階段を駆け下りていた。妄想世界から、不可思議黒蕩々の地へ、出奔の中にいる。
ミッドナイト、ハッピー・ハングリー・ウォーキング。
深夜四時四十五分。スマホのロック画面は、明るさを最小限にしたのにも関わらず、眩しいブルーライトを放つ。デジタル時計を一瞥したら、画面を覆い隠すようにポケットへ突っ込んだ。仄かな夜の街灯が坂を縫う。落陽を連想した。光源は、孤高を照らすにはあまりにも儚く、明滅していた。
「太陽が眩しかったから」
という言い訳は到底通用しないであろう。闇は歩くほど濃密になる。僕は遂に夜の底に居た。
一人だけの舞踏会。
華やかさもかき消される闇の中では、僕も華やかだと偽って。軽快で清楚なステップが、靴底の舞いに合わせて反響する。誰もが寝静まっている。窓明かりの一切が見当たらなかったし、自動車もおろか歩行者は僕一人。悲壮の極限においては、むしろ夜風の涼しさだった。高度に発展した文明社会の構造物群の、家並みの隙間を探検する。悲壮は悲壮として、温かい空気をまとっていた。
オリオンは高く謳い、二対の犬が宇宙に遠吠える。彼らの息遣いが確かにあることのみを感じるが、決して聴くことはできないようだ。彼らと僕、僕らの周波数は異なっているらしい。更には光の視認すらままならない。本来この夜空に開かれているはずの宴は、その片鱗のみを遠目に眺めることができている。
天動よりも、今は地動だ。アスファルトを蹴って、路傍に視線を落とす。住処は遠のくばかり。真っ黒な箱が並ぶだけで、帰るべき場所を見失って仕舞ってもおかしくはない。
公園の錆びたフェンスから伸びていた小径に沿って、レンガ敷きを歩いていたら、昭和後期の風貌を呈する商店街に出た。
本町商店街。
白いペンキで丸々と快活に書かれている。そんな表看板は、闇夜に傾斜している。
両側に連なる三階建ての建屋を結んで、半透明の天井がある。本来の役割は遮光と、風雨を凌ぐことであろう。天井の下、商店街は深海のようないさら波と、祭りの残灯の如き繁盛の漂泊に支配されていた。一方で、このレンガ敷きには幾筋もの月光が差し込んでいる。僕は光の池をステップした。相変わらず天井は半透明だ。とともに、碧かった。
天井から正面へ視線を移したとき、進行方向から、迫ってくる影があった。ライトを付けていなかったが為にすぐには正体が認識できなかったが、動きを読むにつれてそれがカゴ付きの自転車だとはっきりした。自転車は赤みがかった看板が印象的な店舗の、シャッターの前で停まった。
僕は少し距離を取って、恐らく開店準備がはじまるのだろう、その様子を観察することにした。
小径の道幅ほど離れたところから、ジャージを着込んだ男の観察がはじまった。男の目が研ぎ澄まされているということだろうか、僕の存在はすぐに気づかれて、訝しげな顔を向けられた。
自転車の小荷物とともに、男は店内に姿を消した。金属の衝突し合う音がひととおり響いた後、中華スープの香ばしい香りが鼻についた。
僕は若干の確信を得た。空いているのはまず腹なんだ。
かといって空腹を満たしたところで、それがかてとなり得ると言い切るのは違う。食事は気休めの連続でしかない。
商店街からは即刻立ち去ろうと思った。まさに並び立つシャッターは空腹を助長する。
商店街からの去り際、また一つシャッターが上がるのを見た。
宙を思考が舞っている。夜明けの浅葱、最前線への出奔を期待していたがために、思わず何も無い宙の闇の一角を凝視してしまっている。茫っと夜空に託身するような、舞台と人さえ違えば作品のネタにでもなりそうな情景だ。人――自分の姿は、というと。鼻元の不精ひげ。垂れる顎ひげ。折り目が交錯するシャツを覗かせている。その醜さに一蹴されそうなルックを以って、徒に健康と時間を浪費する青年。死にたがりやにしか見えない。
静寂な暗窟が刹那、燃え上がった。
僕の眼の前を、速度を上げた自動車が走り去っていた。数歩前に居たら、間違いなく交通事故となっていただろう。それにしても、自動車が。朝が近いということだろうか? さらりと右手の様子を見遣ると、そちらには車両のライトの一閃が一定間隔で現れている。大通りが近かったのだ。
風晒しに立ち止まっていると、さすがに底冷えを感じる。そろそろ温もりたい。
――あと、夜明けの空には恐ろしくて目を向けられない。浅葱ですらそれは、危険信号なのだ。
帰ろう。だが何か……かてに近しいものが欲しい。食い物がいいだろう。息を繋ぐために。
適当にコンビニでも寄ればいいか、ということで大通りに向かった。できるだけ、道の左端を歩いて。
赤信号がアスファルトに照っている。異彩に白色光を放つコンビニが、車道を挟んで向かいにある。静けさが大通りを包む瞬間を狙って、横断歩道の白線を踏み越えていった。丁度歩道に足を踏み込んだところで、背中を殴る一陣。夜半の――暴走車両。静かな夜はこれだから、かき乱される。
コンビニ前の、店舗三倍にはなるであろう面積の駐車場には、車両の一台もなかった。
店内に駆け込むも、やはり僕と、若年の男性店員以外には誰もいない。僕は両手をズボンのポケットに突っ込んで、視界を遮る前髪の間から、店員にアイコンタクトを送った。
「いらっしゃいませー」
店員は平常――を装っていた。彼の目には若干の、不審感。まもなくレジの辺りで何かしらの処理をはじめた。頻りに僕からは目を逸らそうとしていた。
一方の僕も、勢いで店内に入ったが、天井の蛍光灯が眩しすぎた、から。急に手持無沙汰になって、なんとなくブックコーナーをうろついていた。どうにか店員の死角に入ろう、なんて不思議な行動原理を抱えていた。
――ヒューマン・ハングリー・ミッドナイト。
「あの、お願いします」
惣菜コーナーとパンコーナー、いずれも売れ残りのおにぎりと菓子パンをレジに運んだ。僕はここで、店員の顔をまじまじと見つめて、しまったのだ。目の隈と蒼白が気になった。僕がそうやって考え込み始めたところで、店員は手を止めてレジに立った。
「……少々お待ち下さい。会計いたします」
たった商品二つ。バーコードを読み取るのは僅か数秒で済む。
「以上二点で三四二円です。こちらの機械よりお支払いの方、お願いします」
「あの、ちょっといいですか」
彼は手元でなにをしていたのだろうか、と少し背伸びして覗いてみたら、紛れもない原稿用紙が重ねられていた。その中でひとつ、釘付けになった言葉を挙げるならば。
それは、ミッドナイト。
店員の呆気にとられた様子を認めた上で、僕はどうしても問訊したかった。
「こんなミッドナイトに、何をしているんですか」
機械に硬貨が落下する。空箱にレシートが流れた。
彼は言った。
「バイト、じゃなくて……あれだ――」
ハッピーミッドナイト。
小人たちは高く謳い、夜を明かす。
白昼の悪戯はもうすぐそこまで迫っている。