2 レイコ。
一ヵ月ほど経った頃、僕は彼女の母親に呼ばれた。
東京まで足を運び、指定された住所を訪ねる。驚いた事に、そこは彼女達親子の自宅だった。
高い壁と、大きな門に守られた家。その前に立ってやっと、後悔めいたものが胸に湧く。
来るべきではなかった。そう思ったのに。
僕は上着のポケットから片方だけ手を出して、インターフォンを押した。客の到着を住人に知らせる、呼び鈴の電子音。
どこか遠くにそれを聞きながら、ポケットに残した指先でプラスチックの筒を撫でた。ずっと上着の中にあったせいで、指先で触れても体温と同じに温かった。
少しすると応答があり、門の隣にドアがあるからそこから入れと指示を受ける。
本物の「レイコ」だ。
すっきりと豪華に、クリーム色の大理石で統一された玄関。そこで僕を迎える彼女の母親は、さすがに綺麗な人だった。
「お上がりになって」
「……どうも」
他には誰もいない。これは呼び出しを受けた時、僕が頼んだ。よってたかって責められるなんて、冗談じゃないと。
しかし正直、本当に誰も同席させないとは驚きだ。
絨毯の敷き詰められたリビングに通され、勧められるままソファに座る。「レイコ」は少し遅れ、用意してあったらしいティーセットをトレイに載せて運んで来た。
そしてテーブルを間に置いて、膝の向きが僕と直角になる様な形で斜め前の椅子に座った。口を開かず、紅茶を準備する。その女性の横顔を、そっと見た。
彼女の母親なのだから、五十前後なのだと思う。だとしたら、この人は僕の知っているおばちゃん達とは違う生き物なのかも知れない。
そう思いたくなるほど美しく、そしてやはり彼女に似ていた。
「どうぞ」
「すいません」
出された紅茶に眼を落し、しかし手を付けずに傍の女性へ視線を移す。
「お話と言うのは?」
女優らしく、と言うべきか。「レイコ」はワンピースのゆったりした袖をたくし上げ、演じる様に腕を組んだ。
「もう、娘に関わらないで頂きたいの」
「なんだ。そんな話ですか」
「大事な話だわ」
むっとして、眉を歪める。まるで、それが正解のポーズみたいに。
「そうですね。失礼しました。でもそれなら、電話で済んだでしょう」
「受け取って頂戴」
「それは?」
「五百万入っています。足りないなんて、仰るのかしら?」
パンかケーキでも入っていそうな紙袋を、テーブルの上に置いて言う。僕は堪らず、吹き出して笑った。女優は一層、不機嫌な顔を作る。
「ふざけてらっしゃるの?」
「すいません。何だか、ドラマみたいで」
「お金が必要でしょ。ご迷惑をお掛けした様だし」
「まあ確かに、仕事は辞めてくれと言われていますね」
この事を知っていたのだと、やっと気付く。それでわざわざ、金を渡すために呼んだのだ。
仕事を失うなんて、面倒な事になったとは思うが、仕方がないとも諦めている。僕は、信用をなくしたのだから。
「大変だこと。これからどうなさるの」
「さあ……。決めていませんが、職場も変えて、どこかに引っ越すでしょうね。誰も僕を知らない場所へ」
中学の頃、そうした様に。
今までだって僕は僕じゃなく、誰でもない誰かみたいに振舞って来たのだ。
――誰か。
誰かって、誰だ?
考える内に、僕は気付いた。
そうだ。僕は、――僕も、演じて来た。「新しい自分」になったんじゃない。「自分以外の誰か」を借りて、嘘で生きて来ただけだ。
なるほど。と、納得する。
女も友人も、僕にはいない。関わりたくないから。そのはずだ。関われる訳がない。本当の自分にさえ、もう関わっていないのだから。
口元に当てた手の平に、薄く汗が滲んでいる。
僕は、どんな人間だっただろう。
狂った様に嘲笑の声を上げ、滅茶苦茶になるまで自分を痛め付けたい気分になった。
「それが宜しいわ」
はっきりとした発声に耳を打たれて、すっと頭が冷やされる。何の話をしていたのかと考えを巡らせ、仕事の事だったと思い出す。
どう考えても興味なんてないだろうに、美しい横顔は冷たげに頷いていた。
それにしても、と思う。
五百万とは結構な大金だ。相場はよく知らないが、いわゆる手切れ金としてこれほどの金額を用意するのか。
意外な気がして、口を滑らす様に訊いてしまった。
「誰のためのお金です?」
「え?」
「娘さんのため? それとも、あなたの?」
「失礼な人ね。私は、娘に傷を付けたくないだけだわ」
「母親らしいセリフですね」
思わず笑うと、斜め前に座った女性はふと表情を曇らせた。戸惑う様なそれを見て、初めて素顔の表情を見た気がした。
だとしたら、きっとどうして僕が笑うのか、解ってはいないだろう。
その鈍感さに、苛々する。
「娘さんを傷付けるのは、あなたですよ」
「……何ですって?」
「僕じゃありません。娘さんを苦しめるのは、あなただ。きっとあなたがいなければ、あの人はもっと楽になれるんでしょうね」
「あなた、頭がおかしいんじゃありません? 育てたのは私だわ。私がいないと、娘は何もできないもの。私が全部与えたの。私が……私は、娘のために生きて来たわ!」
それのどこを責めると言うの。
艶かしい唇をきゅっと結んで、「レイコ」はきつく僕を睨んだ。
「参ったな」
肩を竦める様に、上着のポケットに両手を納める。部屋に通されてからも、僕は上着を脱がずにいたのだ。
「だから彼女も、あなたのために生きるべきだと?」
「不愉快だわ。お金を持って、帰って頂戴!」
腹立たしげにわめいて、椅子から立ち上がる。目の前の女性とタイミングを合せ、僕も立ち上がってその腕を掴んだ。
何が起ったのか、解らないみたいだった。掴まれた腕に眼をやって、それからはっとしてこちらを見る。
その時にはもう、僕はポケットの中に忍ばせていた物を取り出して、半透明のキャップ部分を口に銜えていた。
手早くワンピースの袖を捲くり上げ、白い腕を直接掴む。逃れようと身を捩って抵抗するが、女の力で男を振りほどくのは無理だろう。
「な……何をするの!」
噛んだキャップから本体を抜き出し、白い腕に針を当てた。
「あの記事を読んだなら、ご存知ですよね。獣医なんです、僕」
半透明の白いキャップが、僕の口から離れて落ちる。音もなく絨毯の上に着地して、ストッキングに包まれた爪先の傍に転がった。
「それが、何なの」
「薬が、簡単に手に入るって事です」
目盛りが入った、筒状のプラスチック。僕の体温で温くなった注射器は、薬液で満たしてある。
人間相手は慣れてない。血管らしき場所を探して、針を刺すと一気に薬液を押し込んだ。引き攣れた様な悲鳴が、「レイコ」の喉から微かに漏れる。
「筋弛緩剤です。聞いた事くらい、ありますよね。あなたはサスペンスドラマにも出る様だし」
言い訳みたいに説明しながら、だらりと力を失った身体をソファに寝かせる。ふと気になって、ワンピースの裾を整えた。
「すいません。苦しいでしょう? この薬は自発呼吸を止めるから」
眼には見えないが、鼻と口をぴったりと塞がれているのに近い。自分の意思では肺の筋肉を動かせず、空気を体内に取り込めないのだ。
窒息の苦しさに、整った眼の端から涙が滲む。そのまま雫が盛り上り、流れ落ちた瞬間に僕は堪らず顔を背けた。
仕上げのために、カードを選ぶ。
銀行や、クレジットカードは却下。なくなっても、すぐには気付かないヤツがいい。その方が自然だ。レンタルショップのカードなんて、どうだろう。
財布から抜き出したそれを、自分が座っていたソファの下に滑り込ませた。
キャップを拾って注射器に被せ、ポケットに納める。それから手を引っ込めた袖口で、ドアノブや柱の指紋を拭き取りながら玄関に戻った。
全てを終えて、高い壁と大きな門を来た時と同じ様にして見上げる。
今頃はもう、「レイコ」は死んでいるだろうか。本当は、死を確認するまで傍にいるべきだった。
でも、できない。
彼女に似た顔が死んで行くのは、とても見ていられなかった。