1 ボク。
殺人や自殺に触れる部分があります。苦手な方はご注意ください。
殺人や自殺を肯定するものではありません。
「どうして僕を選んだの?」
興味本位の質問だった。
いや、興味さえなかったかも知れない。手招きするのも億劫で、傍においでと言う代りに訊いた気がする。
すると彼女は長い髪をサラリと揺らし、少しだけ頭を傾けて答えた。
「私を、知らなかったから」
僕はその答えが酷く気に気に入り、彼女とだけは何度も会った。
適当に選んだラブホテルの部屋は、甘ったるい色付きの照明。黒っぽい髪と眼の他は、全部がピンクに染まって見える。
色のよく解らないシーツの上に、彼女の腕で押し倒された。そこから見上げる格好で、甘そうな肌に軽く噛み付く。
本当に甘い訳はないのに、少しひやりとした肌は、舌でなぞると熱っぽく頭の芯を痺れさせた。
名前も知らない、二度と会わない相手と寝るのが好きだった。
決まった女と会うのは苦手だ。最初の内はお互い遊びと物分りのいい顔をするくせに、いつの間にか特定の恋人になりたがるから。
だから彼女だけは特別で、でも実は、感じていたのだ。僕よりずっと彼女の方が、特別な関係を嫌っていると。
気が向いたらメールして。キスして、話して、抱き合って。ふざけて僕の服を着せてみたり、口先だけで愛を語った。
不思議な事に、舌を絡めてキスした直後に愛してると言った所で、本気じゃないと僕達には解ってた。これほどの居心地のよさは、他にない。
だから彼女について知っていたのは、地元の人間じゃないって事。多分偽名のレイコって名前。それから写真を、極端に嫌うって事だけだった。
いつも通り無責任に抱き合って、次の約束もなく別れた夜。
それを最後に彼女は消えた。
しばらくして、理由を知る。有名人の私生活を覗く週刊誌に、僕等二人が載ったのだ。
自分のペットや小動物のゲージを抱えながら、待合室で暇を持て余したおばちゃん達が週刊誌の写真を指す。「綺麗な子ねぇ。先生、こんな子どう?」等と言いながら、診察室の中にまで話し掛ける。
犬や猫の鳴き声に囲まれた獣医師は、苦笑いだ。三十過ぎて独身だと、こうやってからかわれてしまう。
そこには見開きで大きく、男とキスする彼女の写真。自分だからそう思えるのか、目元は黒く塗られていても紛れもなくこれは僕だ。
腕の中で丸まった猫の顎を掻きながら、よく知ったおばちゃん達の顔を眺める。実はこの相手の男は僕なんです。なんて言ったら、一体どんな顔をするんだろう。
もちろん、僕は有名人なんかじゃない。記事によると、どうやら彼女はモデルらしい。そう言う事に疎いから、知らないけど。
だがこんなに大きく紙面を割かれた本当の理由は、彼女の母親の様だった。
地方の歓楽街で適当な男と遊ぶモデルは、実は有名女優の一人娘。と、記事には面白そうに書かれていた。
この記事を見て初めて、僕は彼女の名前を知った。モデルか、なるほど。綺麗なはずだ。でも私生活まで晒されて、大変そう。
今考えれば呑気なものだが、この時点で僕が考えたのはこの程度。他人事だ。
本当に困るのは、翌週の雑誌が発売されてから。
僕等が載った最初の号には、彼女と、彼女の母親の事しか載っていなかった。だが次の号では相手の男、つまり僕について触れていたのだ。
仕事を休んでいた僕は、携帯電話に掛かった通話を自宅で受けた。その音声は、何だかザラザラと耳を撫でる。
『ごめんね』
最初の一言を言ったきり、電話の相手は黙り込む。
僕の記事を載せた週刊誌が発売されて、数日。電話の彼女は何だか無口だ。
考えてみれば連絡はいつもメールで、電話で話すのは初めてだ。少し話すのも新鮮かな、なんて思う。
「レイコ」
『え?』
「レイコって、お母さんの名前なんだね」
偽名に母親の名前なんて、歪んでる。ふざけたつもりでそう言うと、意外にも彼女は否定しようとしなかった
『そうかも知れないわ』
傷付いた様に消えそうな声が、ザラリと僕の好奇心に触れる。
「嫌いなの? お母さんが」
『そうよ。大嫌い』
「へえ」
どれくらい?
憎むくらい?
いなければいいと、願うくらい?
次々に重ねて問うと、何かを持て余すかの様な空白の後、彼女は肯定で返した。
有名女優の娘と言うのは、想像以上に苦労が多いものらしい。
子供の頃から母親のアクセサリーの様に人目に晒され、着る服や友達も自分では選ばせて貰えなかった。
出会う人々は皆が皆、自分ではなくその後ろの母親を見る。彼女がどんな人間か、ではなく、彼女が誰の娘か。その事だけが重要だとでも言う様に。
成長して、母親と同じ芸能事務所からモデルとして仕事を始めた。すると、それはもっと顕著になった。女優の娘。で、モデル。
モデル。で、母親は女優。そう変る日を待っていたのに。
『今も私はあの人の人形よ』
「苦しい?」
『ええ』
「ならどうして、一緒にいるの」
僕には理解できなかった。
自分を苦しめるだけの人間なら、捨ててしまえばいいのに。
一瞬、沈黙。それから。
『……中学の彼女も、そうやって捨てたの?』
これはきっと、週刊誌の情報だろう。
ほんの少しだけ驚いたが、「そうだよ」と答えるのには余り苦労しなかった。
僕は中学三年で転校し、家族と離れて暮し始めた。高校も大学も、遠くを選んで進学した。
以来今も、生まれ育ったあの場所には戻れずにいる。戻りたいかどうかも、解らない。
中三で転校する直前に、僕は当時付き合っていた彼女を死なせたから。
正しく言おう。
僕が転校する事になったのは、あの子が死んだせいだ。
あの子が死んだのは、僕が一方的に別れたせいだ。
僕のせいだと、遺書には理由が書いてあった。別れたがったのは事実だから、否定はしなかった。
ただ、彼女が何を考えていたかは知らない。自分に取って唯一の事実を言い続け、そんな僕を周囲は責めた。
今回みたいな写真はないが、当時は週刊誌にも載ったはずだ。
この過去が、今回の事で掘り返された。
今、周りにいる人達は誰も知らなかった事。だけど週刊誌の記事は僕の住むおおまかな地域と、職業を暴露してしまっていた。僕を知っていれば、充分に特定できる。
仕事を休んでいるのは、そのためだ。
『何で別れたかったの? あっちは死んじゃうくらい、あなたの事が好きだったのに』
「知らない。死んだら、僕が感激するとでも思ったのかな。だとしたら、勘違いもいい所だけど」
『酷い人ね』
「どっちが。欲しくもない好意を押し付けられたって、迷惑なだけだよ」
『そうかしら……』
「違う?」
僕の問いに、神経を凝らして考え込む姿が見える様だ。
『きっと、そうね』
長い沈黙の後で、考える事を放棄したみたいに彼女が言った。納得は、して貰えなかったみたいだけど。
だからか、どうか。
何であんな事を言ったのだろうと、自分でも不思議で仕方がない。
「殺してあげようか」
『何?』
「今、お母さんだったらどうかって、考えてたでしょ」
僕とあの子について考えるふりをして、彼女はきっと自分と母親に置き換えて考えていたと思う。
「ねえ。大嫌いなお母さんが死んだら、君はどう思う?」
彼女は答えず、電話を切った。
どうして、僕はこんな事を言ったんだろう。
ついこの間まで名前も知らなかった女のために、そんな事をしてやるはずなんかないのに。