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秋空に響け、ビールの宴 1

ナレーター(以降、「>」と表す。): オクトーバーフェスト。由来や歴史が気になる方は詳しい文献ぶんけんにあたってもらうとして、ざっくり中身を説明するとビール祭りだ。このお祭りが日本でも開かれるのは必然と言えた。毎晩あちこちの居酒屋で「とりあえずビール」の言葉が唱えられるとおり、日本での酒類消費量のうち最大派閥はビール類(ビールおよびビール類似種)だからだ。


>これは、妙な日本感化を受けた外国人旅行者にとって「え、日本人だったら、清酒や焼酎じゃないの!?」と驚かれる点で、「え、日本人なのに、ちょんまげじゃないの!?」に続く、日本三大ガッカリポイント――あ、はい、うそです。当番組による調査結果でもなく、口から出まかせで言いました。


※注釈:本件に関わらず、当作品の至る所で「口から出まかせ」的な内容が含まれているので、まともに受け止めないようにしましょう。


十月オクトーバーと呼ばれるわりには、九月に開催されることも多いオクトーバーフェストだが、そのような些細ささいなことは、ビール好きにとって問題ではなかった。ウマいビールをお祭り気分で味わえるだけで幸せだったのだ。特に、昼間っから酒を飲めるだなんて! 大切な事だから二度言いますが、昼間っからお酒を飲めるのはもう開放感(あふ)れる大人の楽しみ――お子様は成人に達してから試してくださいね。ただしビールは、飲めるようになってからもしばらくは、「どうしてこんな物がありがたがられるんだ!?」と思いがちな難しい飲み物です。でも、一日お仕事を終えて「とりあえずビール」したら、ある時突然「ウマい!」と思える瞬間が来ると思うので、楽しみにしておいてください。ということで、一仕事終えた後のビールがウマいというのが基本ですが、たまにしか飲めない昼間からビールもまたウマいのです。『マー!』――あ、「ウマい」は「馬」とは関係ない? まして、『人生バンジー、最高がマー』はお呼びじゃない? そういえば、先週の『人生バンジー、最高がマー』のチャンピオンは――あ、しつこい? じゃあ、もう止めておきますね。……でも、最後に一つだけ言わせてください。『マーー!!』


>はい、気分発散できたところで、説明を続けましょう。……あ、そうですね。実はシーズン1のラストより時間はさかのぼっています。ラストでパンツイッチョマンが生死不明(・・・・)となる前の段階なので……はい、生死不明でもなかったですね。「そうするつもりだったのに、何故そっとしておかなかった」と本編終了後の『イッチョマンRADIO(レイディオ)』で最勝寺先生にネチネチと言われました。今更取りつくろっても仕方ないので、はっきり断言しておきましょう。「パンツイッチョマンは、生きているぞ!」「マー!」――あ、「マー」は不要? そうですね。でも、もうわかっていただけていると思いますが、マイブームなのです。しかし、あのタイミングでバンジー爆弾(ボム)が爆発してしまうとは……あ、先週の『人生バンジー、最高がマー』についてもどうでも良かったですね。すみません。


>ともかく、オクトーバーフェストであった。世の時流に乗って、というか「都会の流行に乗り遅れないようにしよう」とやや必死なところもある――そういうところが、まだ「都会」として胸を張れていない証明でもあるんだけど、こういう姿勢は自分たちからではわからないんですよね――枚鴨まいがも市では、やはりオクトーバーフェストも開催されていた。開催場所は、もう視聴者の方々もお馴染みの城跡(しろあと)公園であった。「他には無いのか?」とうんざりされている方もおられるかもしれませんが、駅から近い広場と言えば、はい、ここしかありません。しかし、これは他メディア化した際には、ロケ地や背景セル画(レイヤー)が一緒でも、手抜きではなく原作どおり、という利点でもあった。……ええ、いつもの絵空事です。


>オクトーバーフェスト会場は、両脇に屋台が並び、中央にテーブルとチェアが並ぶフードコート配列(フォーメーション)をとっていた。もちろん、この飲食席は、「飲食以外のご利用はご遠慮ください」とあちこちで明記されていた。それを無視して、休憩しようとする人たち、あるいは、食事が終わっても居座る人たちを排除する実行部隊もいた。「オクトーバーフェスト実行委員」とプリントされた赤いシャツを着ている、実質セキュリティを担当している威圧感のある男女だ。どうしてこんな怖い人たちが選ばれているのかは、探ると暗い闇に突き当たりそうなので、掘り起こさないようにしましょう。

>皆さんもご存知のアオダイショウと呼ばれる長いエスカレーターを登ってきた場合、飲食席の奥に少し高く設けられた舞台がありました。そこで、お祭りらしく様々な出し物が披露されていました。多くは市民が参加したもので、つまり趣味の発表会ですね。太極拳愛好会の集団演舞があり、変わった衣装で踊る子供たちもいました。これは、ハロウィーンに開かれる予定のキッズダンスコンテストの抽選に漏れた子供たちでした。実はこの少し早めのハロウィーンコスプレダンスキッズは、毎年恒例となっていた。


>と色々説明しましたが、今回まず注目するのは、舞台ではありません。飲食席の一つに座っている二人の男です。五十代とおぼしき男と、若い男。若いと言っても、もう一人と比べてで、見かけでいえば三十歳前後(アラサー)ですね。若い男はビジネススーツに細めのグラスのメガネ、いわゆるインテリ眼鏡をかけていた。年齢の男は、黒のバイカースーツにブルー系のサングラス。

>話はれますが、れるのはいつものこと、もはやどれが本線でどれが脱線なのかわからないスパゲティ状態なので、ためらいなく進めさせていただくと、枚鴨まいがも市民はサングラスの使用率が他と比べて高かった。やはり、パンツイッチョマンの影響ではないか、と私は考えています。


>年配の男性のサングラスは、パンツイッチョマンの真似でもなければ、「俺の方が昔から愛用していたぜ」という対抗心からでもなかった。しかし、着用理由は、もしかするとパンツイッチョマンと同じかもしれなかった。変装目的だ。

>実はこの男性、世界的に有名な存在だった。あの服飾メーカー『オルヒト』の社長だったのです!――あ、オルヒトはゴツゴウ・ユニバースで有名なだけで、そっちでは存在していませんでしたね。しかし、ゴツゴウ・ユニバースの多くの人が見聞きした事のあるオルヒトですが、そのトップが誰かはほとんどの一般人は知りません。「だったら芸能人ぶって、サングラスなんか掛けてるんじゃねえよ」と苛立いらだつ方もいるかもしれませんが、業界内ではさすがに顔が指します。そして、市場の大きなアパレル業界に身を置いている人はあちこちにいます。だから、黒眼鏡を身に着けても自意識過剰じいしきかじょうとは言えないのです。……もちろん、逆に、サングラスを掛けているから、このオジサマが自意識過剰じいしきかじょうではない、とも言えません。

>数学の集合の思考ですね。AならばBが成立するなら、BならばAも成立する……とは限らないのです。「わけわかんねえよ!」と思われた方は、具体例を考えると理解しやすいですよ。「パンツイッチョマンはヒーローである」なら、「ヒーローはパンツイッチョマンである」とはなりませんよね。ヒーローは、花鳥風月かちょうふうげつという正統派のカッチョイイ若者がいますからね! ……あ、登場していないから実感ないですか? ん? それと、今回の例えが先の自意識過剰じいしきかじょうとどう関連するかよく分からない。……それはご自身で考えていただくとして、「数学なんて実生活で役に立たない」と言われますが、数学的思考はこのようになにかと役に立つんですよ。激しく意見を言い合っている二人が、実は集合関係が違う不毛な議論をしている、という事態も回避できます。……まあ、「(難しい事を)ごちゃごちゃうるせー!」と別の意味で議論になる可能性も増えますね。でも、こう言い出す人は手も出してくるかもしれませんから、そうなるとやはり議論は終了するでしょう。……はい、殴り合いという新しいステージです!


>ともかく、オルヒトの社長、貝積かいつみ呉酒ごしゅが何故、こんな辺鄙へんぴ――と言っちゃあ、枚鴨まいがも市の関係者に失礼ですね。しかし、何か理由がない限りその場に居ないレベルの存在ですから、なんとなく(・・・・・)ふらりと寄ったはずがありません。

>……ふむふむ。これを説明するには、まずオルヒトが何故これほどまで幅を効かせているか、から掘り下げないといけません。「もういいからパンツ出せ!」と思っている方は、最勝寺先生お得意の「読み飛ばしてください!」をしていただいて結構です。つーか、「もういいからパンツ出せ!」ってセリフは露出(ろしゅつ)せまる性犯罪者ですね。あやゆくスルーしかけましたよ。……しかし、犯罪者であろうとなかろうと、今週パンツイッチョマンが本当に登場するかは、今のところわかりませんので、あしからず。そのまま今週分終了まで行き着くかもしれません。「この投稿者、内容毎にチャプター設定しておけよ、素人が!」とウェブ動画を見てボヤく事態と同じことになるかもしれません。あ、また話がれていましたね。


>オルヒトの強みは、「価格の割には品質が良い」という点にあった。しかしこれは、繁栄している他のアパレルメーカーも多くは同じ強みを持っていた。高級ブランドとされているメーカーも、素材や製造に関わる一流職人たちの人件費を考えると、実は割安と言える場合がほとんどだ。……たぶん。割安さに加えて、何らかの要素がなければ、苛烈かれつな業界で繁栄するのは難しい。

>一応オルヒトは、母体として紡績ぼうせき業と染料せんりょう業の二社が合併したという、製造側での強みがあった。メーカー直販というスタイルだったので、ここから売り場へ直通というスピード感、コストカットという効果があるにはあったのだが、そもそもこの合併は、母体となった二社が品質は高くとも、労働力をコストダウンした勢力に負けた結果、支え合うしかなかったので、やはりコスト競争力は高くなかった。そこで発揮はっきされたのが、貝積かいつみの奇才だった。


>ズバリ言ってしまうと、オルヒトの強みは「抱えている在庫が少ない」点にあった。「何だよ。もったいつけたわりには、たったそれだけかよ!」と、特に若い視聴者が思われるかもしれませんが、在庫に掛かる費用って、ちっともたったそれだけ(・・・・・・・)とは言えないのです。

>売れ残りは、ほとんど処分しなくてはなりません。食品のように衣料品はくさらないのは科学的事実ですが、経済的な実状では腐る(・・)のです。まず、大半は季節物なので、次の機会が巡ってくるのは一年後です。春秋物なら半年サイクルですが、春物と秋物はカラーが違うので回せない物の方が多いです。そして、一年経つと流行が変わるので、店頭に並べたところで結局売れ残ってしまうのです。なので、そうならないよう各地で在庫処分セール的なものが開かれますが、あれはブランドイメージの低下という弊害へいがいを生みます。

>……あ、実施している方にとっては「うっせえよ! 売れ残り続けるよりマシだろ」と思いますよね。おっしゃるとおりです。ブランドの立ち位置によって、在庫処分セールがどの程度ダメージを受けるのかは変わってきますから、実質問題ない企業の方はもちろんそれでいいです。しかし、ブランドイメージの低下を受けなくとも、「どうせまたセールするだろうから、待つか」と客に思われるのはよくありません。それよりかは「あそこは在庫処分セールしないから、欲しいと思った時に買わないと」と思われたいですよね。

>素人でも考えつく売れ残り対策の一つに、「必ず売れるだけしか用意しない」という生産量を絞る方法もあります。が、もちろんこれも悪手です。客として考えた時に「あそこはすぐに売り切れる」という印象があると、「店に寄っても無駄足か」と考えられて客足が遠のいてしまうからです。それ以前に、もっと売れるはずの機会を自ら捨ててしまっている、という目に見えにくい損害がありますし、本来自分たちに向けられていたはずの需要が競合他社の売り上げになってしまう、という結果を生むのです。

>だから理想は、ちょっとだけ売れ残るくらいの生産量に調整する、となるのですが、事前にそんなこと分かれば苦労はありません。無駄のない生産量は幻想でしかない! ……はずでしたが、貝積かいつみ呉酒ごしゅが、その奇跡を実践してしまいました。当初は偶然だと評された、貝積かいつみの流行の風を読んだ予測も、十年近く続けば、偶然と片づけられません。

>この『風読み』について、オルヒトは積極的に広めませんでしたが、異常な現象なので、すぐに社外に流失します。ビジネス系の報道は直接そのコツを聞き、ライバル会社はスパイを送り込んでカラクリを探ろうとしましたが、明らかになったのは当時一社員だった貝積かいつみという男の判断だ、というやる気の失せる事実でした。

>他にも、たくさんの在庫を減らす工夫がなされているのですが、ビジネス番組ではないので、この程度として、「貝積かいつみ社長がどうして枚鴨まいがも市なんかにいるのだ」という点について進めていきましょう。「そういえば、そういう話だったよな」と思うくらいグルッと大きく回ってきましたね。――と言っている今も回り道なんですよ。

貝積かいつみ社長の『風読み』は、本人()わく「現場の風を感じないとわからない」という事らしく、勤務日でも大抵本社に居らず外出しています。それも、都会過ぎると「よどんでいてわかりにくい」らしく、東京やパリ、ニューヨークといった大都市の風を読む時は、都市部ではなくその周辺部を好みます。「現場」と言うだけあって、ただ地理的に訪れるのではダメらしく、多くの場合繁華街の喫茶店などで何か(・・)を感じ取っているようです。

>という事で、貝積かいつみ社長は世界中を飛び回っていた。さすがにグローバルな完全な『風読み』は時間的に不可能なようで、北米やヨーロッパ市場では大まかな生産量の調整しかできなかった。対してアジアは粒度が細かくなり、特になんだかんだ言って一年のうち一番過ごしている関東地域では、店舗毎の流通量を指示している事すらあった。

>そりゃあ時間が足りなくなるよね、というわけで、休日となっていても貝積かいつみ社長はずっと仕事をしていた。オルヒトは、全体としては労働環境が整っている、と評価されている職場だったが、トップは真っ黒なブラック労働環境だったのだ。しかし、好きでやっている、というか、もうほとんどロボットのようにそれしかできないような精神になっているようで、本人は過労とはあまり感じてないようだった。仕事で忙しくなると睡眠不足になりがちだが、貝積かいつみ社長は移動中によく寝ていて、むしろ現代病と言われている睡眠不足の心配はなかった。

>社長自身は平気でも、その周囲は大変である。例えば、出張のプランを預かり、会議――多くがウェブ会議になるのは必然だった――などのスケジュール管理をする秘書は激務であった。特に、旅行慣れている割には旅に関わる色んな事を独りですんなりできない貝積かいつみ社長の補佐として付き従う秘書――秘書課では「従軍秘書」と呼ばれていた――は消耗が激しく、向いていると見なされる人材でも半年から一年以内に限界に達していた。競合他社にとっては卑怯な(チート)能力者だとうらやましがられている貝積かいつみ社長であったが、オルヒトにとっては、社長が流通量について采配を振るわないことには会社が回らないいびつな構造の根元と言えた。しかし、それを修正する余裕もなく、会社としては社長に世界中を飛び回ってもらうしかなかった。そこで仕方なく、秘書たちはローテーションを組んで従軍していたのだが、この手の環境はアレルギー症状しょうじょうに似たところがあり、限界に達する期間がそれぞれ徐々に短くなっていっていた。だからといって、安易に新人を投入するわけには行かなかった。会社の仕組みを理解している者でないと業務内容が分からないところがあったし、ただでさえスパイを送られてきやすい(貝積かいつみ社長の指示を盗み取ることでトレンドを読もうとする連中は多かった)環境だったので、ある程度の経験を積み、他と繋がっていないと身辺調査を済ませた者でしか務まらなかったのだ。秘書の損耗(そんもう)が、供給を上回り、貝積かいつみ社長の全世界グローバル行脚あんぎゃ鈍化どんかする危機におちいろうとした時、新たに秘書課へ入った若者がいた。理解の早さと何より図太い神経を持ったその男こそ、今、貝積かいつみ社長と一緒にいる添谷そえたに涼真りょうまだった。

>今や添谷そえたには、実質専用の従軍秘書になっていた。従軍歴は二年を越えた。おかげで他の秘書は、後方支援に専念できた。ローテーションもなくなったわけではなかったが、添谷そえたに休暇きゅうか時にスポット参戦するだけでよくなったのだ。全く目立っては居なかったが、添谷そえたにはオルヒトが赤字転落する危機の救世主といえた。


添谷(そえたに)(以下、「添」と表す): カイさん、このケバブ、美味しいですよ。さすが世界三大料理のトルコ料理ですね。


添谷(そえたに) がテーブルに並べた皿の一つをつつく。彼にとって、今がオンかオフかの差は呼び方でわかった。仕事でない場合は基本的に「社長」と呼ばなかったのだ。


貝積(かいつみ)(以下、「貝」と表す): ん。


貝積かいつみ社長はチラリと皿を見た後、(はし)を持った左手をそちらへ伸ばす。箸で挟んだ肉切れを口へと運ぶ間も、右手はタブレットを操作し、目もそちらへ落としている。添谷(そえたに) と違い、貝積かいつみにはオンもオフもなかった。ほとんどずっとが仕事で、それでも処理しきれないほど忙しかった。が、その動きがピタリと止まった。


貝: 確かに、美味(うま)いな。


添: ですよね。 


貝: これ、追加で買ってきてくれないか?


添: もちろん、いいですよ。


快諾かいだした添谷(そえたに) だったが、白々しくハッと気付いた顔に変わり、付け加える。


秘書: あ、でも、もう少ししてからにしましょう。今ある料理を先に食べ終えてから、まだ入るか判断してもいいですね。カイさん、お腹いっぱいで食べなくなりますから。


添谷(そえたに) は、態度からわかるように、はなから追加注文は受けるつもりはなかったようだ。しかし、これは軍隊で言うところの「イェッサー、ノーサー」だ。真っ向から否定せず、一旦受けてから反論をべた。

貝積かいつみ社長は、部下に「休みの日は休みなさい」と言う割には、休みの日のはずなのに秘書を食事に連れ出すような男で、完全な公私の切り分けには熱心ではなかった。一応本心から「プライベート時間では社長秘書の関係ではなく、一同僚として接して良い」と考えていたようだが、現実に部下から直ちの反論を食らうとイラッとする。まあ、この反応は多くの人も同じであろう。理論と感情は別、というやつだ。もちろん、思想としては即反論も場合によっては容認すべきと考えているので、その場で注意する事はしないが、内心不満は溜まる。それが両者の関係をギクシャクさせ、結果、激務の行軍に着いていけなくなる秘書はこれまでに何人もいた。しかし今回は、最終的に自分の指示に従わなくとも、一旦受けた後、正当な理由を付けて要望が却下させられたので、苛立ちは最小限に抑えられた。

貝積かいつみ社長がタブレットから顔を上げて秘書を見ると、相手は「何か?」と言うように悪びれず(おび)えもせず見返してきた。貝積かいつみ社長は、小さく首を振るとまたタブレットに視線を落とした。

>こういった対応が自然と取れるのも、今の秘書が歴代に比べてずっと安定して従軍(・・)できている理由だった。


添: あ、そろそろ出てきたようですよ。


添谷(そえたに) が目を向けた舞台に、楽器が運ばれてくる。特に目を引くのが大きな管楽器。象の鼻のように伸びて、先は花びらのように開いている。運んでくるのは、欧州ヨーロッパの民族衣装で身を包んだ人たち。白と青を基調とするフリルにいろどられた可愛らしい衣装だ。男の人たちはチューリップハットを、女性は花冠を被っていた。しばらくすると、同じような民族衣装だが、赤と白を基調に変わった女性が登場し、中央に進み出た。


添: アナベル切山(きりやま)です。


>本人が自己紹介をする前に、添谷(そえたに) が説明するが、貝積かいつみ社長は興味がなさそうだ。顔を上げずに、ジョッキからビールを一口飲む。


>楽団たちの準備が整ったのを見届けると、中央にいた女性が、ステージマイクを手にし、自己紹介を始めた。もう時間がかなり押してきたので、本人の言葉ではなく、私が概要をお伝えしましょう。本人だと言いにくい点も、中立の立場の私ならズバリ言及できますからね。

>アナベル切山(きりやま)とブランカ楽団。日本での知名度はイマイチだが、ヨーロッパではそれなりに名の知れたアーティストです。特に今の時期は人気で、各地を渡り歩くツアーを組んでいたほどだ。それを十年近く続けており、当地ではこの季節欠かせない存在と認知されていた。


貝: それが何故、今年は日本に?


添谷(そえたに) からの、私と同じような内容の説明を受け、貝積(かいつみ)社長が問うた。


添: さあ、理由はわかりませんが、本場で認められた実力を日本で鑑賞できるレアな機会です。


>質問に対する解答は得られていないが、貝積(かいつみ)社長はうなずいた。それだけ「レアだ」という説得力は大きいのだ。


>アナベルさんが簡単に口上を済ませると、片手を振った。


♭ ブォオオー 


>特に目に付いた変わった楽器、象の鼻ラッパから音が吹き鳴らされる。……これって、パンツイッチョマンの登場シーン~~カブキバージョン~~で吹き鳴らされた法螺貝ほらがいみたいですね。――え? 単に「法螺貝ほらがいみたい」で良かった? ……そうですね。でも、こういうところが本番組の醍醐味だいごみでして……あ、思い出しました。確か音楽の授業で、世界の楽器としてあれを教わった事がありましたね。えーと、名前はナントカ・ホルン。「ナントカ」の部分は正式名称ではなく、何かがあてはまる○○みたいなやつですね。……気になる方は、ウェブで検索してみてください。ほら、どうせ、この番組はパソコンやスマホで鑑賞しているんでしょう? だったらすぐじゃないですか。 ……「そういうお前こそ」ですか? 残念ながらスタジオブース内はスマホ持ち込み禁止でして……。

>あ、お帰りなさい。これは律儀に、ウェブで調べて戻ってきた方への挨拶(あいさつ)です。……ふむふむ。ありがとうございます。わざわざ正式名称を伝えていただけていると思いますが、残念ながら、当番組は一方通行メディアなので聞こえません。でも、優しい心は届きましたので、ありがとうございます。……誰ですか? 「一方通行じゃなくて、一方的の間違いだろ」と言って笑っている方は……ん? 「一方通行と言っていたのに、対話しているのは矛盾していないか?」 いえ、何となくの波長は届くのです。でも具体的な固有名詞はわかりません。


>と楽しい視聴者との対話をしている間に、歌は始まってしまっていました。


♪ ……ヨーデルレルヒ~~デルレルッヒ~~


>そう、アナベル切山(きりやま)さんは、民族衣装から想像のついたとおり、ヨーデル歌手だったのだ。日本でも一応「ヨーデルクイーン」と業界内ではたたえられていた。ヨーロッパでも女王として認められていたが、若く見られがちな日本人なので、お姫様と称されることもあった。プリンセス・ヨーデルかといえば、少し違って、主に巡っていたのはドイツ語圏なので、ドイツ語で呼称されていた。フランス語でも呼ばれているそうだ。具体的にはどうなの? については、……ほら、皆さん、パソコンやスマホがあるでしょう?


♪ レリレリレリレリレリレリレリレリ、レリレリレリレリレリレリレリレリ、レリレリレリレリレリレリレリレリ、レリレリレリッヒ~~


>こ、これは……。音声多重(おんせいたじゅう)総天然色(そうてんねんしょく)3D(スリーディ)脳内構築(のうないこうちく)活劇(かつげき)形式とヨーデルって絶望的に相性悪いですね。同じフレーズでも、音階おんかいが変わっているし、そもそも裏声と表声、って言うんですか? まあ、なんにせよ、行ったり来たりが聞いていて楽しい歌い方なのに、音声多重(おんせいたじゅう)(以下略)では、ただのコピペにしか見えない!! 素晴らしい歌唱技術なのに残念です。


>……このまましばらく聞いておきたいところですが、もう終了時間が迫っているのに、一向にパンツの影が見えませんね。ここは、最勝寺先生の「読み飛ばしてください」を見習って、登場シーンまで飛ばしてみましょう!


♯ ビュューーン!!



貝: 何だ、あれは?


>いつの間にか席を立っていた貝積かいつみ社長が、まゆを寄せて一方を見つめた。視線の先は、テーブルエリアの向こう側――あ、今、おかしな光景が見えましたが、そこに触れるとまた長くなるので今は無視しましょう。……あ、私が()えて言わなければ、視聴者の方々も気づきませんでしたね。こりゃ失礼。……もう、聞いちゃったから気になります? 気になりますよね? でも教えてあーげない。あ、こんな事言っている場合じゃなかったや。

>向こうに見えたのは人の群れ。そこからにょきっと手が上へ突き出されます。人差し指を伸ばして天を指すその手は、まさか――


天を指す男: 私は文明の――


>おおっと! ここでまさかの時間終了! また来週~。

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