act.2【虫喰みの森と晴空の射手座】14
虫喰みの森、深奥部。
『碧落楽団』現頭領であるアマツは、儀礼用の衣装に身を包んでいた。
動きづらいな、と、煩わしそうに袖を払う。その所作からは、期待の膨らむのを抑えきれない様子が漏れ出していた。
たった一人で興し、数々の仲間と共に駆け抜け、そして今、次世代にバトンを引き継げる。老兵としてこれ以上の幸せはない。
新頭領は優しすぎるところはあるが、腕はいい。『碧落楽団』も安泰だろう。
残された自分の仕事は、跡を濁さず去ること。煩わしい継承式も必要なことと理解している。
「お祖父様、弦の強さの確認をお願いします」
「おう、上出来じゃねえの」
孫の成長に頬が緩む。若い芽が育っていることを感じながら弓の張りを確かめた。
会場の準備も、自分の準備も終わった。そう言えば主役はどこにいるのだろう。シノが呼びに行ったはずだが、準備は進んでいるだろうか。
継承式の会場で待とう。普段着ない正装に多少の動きにくさを感じながら居宅から出る。春を感じさせる柔らかな風が裾を揺らした。
ふと。
「……なんだ?」
普段の風に交じる違和感。森の様相がいつもと僅かに違うことに気づく。
見慣れた木々、聞き慣れたさざめき、そして。
「……血の、臭いか?」
「御名答です」
誰に投げ掛けた訳でもない質問へ、間髪入れずに応えが返ってくる。
アマツが声の方へ目を遣ると、いつの間にか黒衣に身を包んだ老人が立っていた。輪郭は霧のように不明瞭で、表情も影に包まれてよく分からない。
そして、『碧落楽団』頭領であるアマツですら、声を出すまで老人の存在を知覚できなかったのである。
「誰だい? お前さん、ウチの団員じゃないな」
「ええ、そうでしょう、そうでしょう。私に見覚えはないはず。なぜなら貴方とお会いするのは初めてだからです」
「回りくどい言い方じゃねえの。何が言いたいんだ?」
「ああ、いやいや、私は貴方と敵対するつもりはございませんので。それでは、本題がお望みのようですので」
ゆらり、と老人の輪郭が揺れた。
「恙無く進む継承の儀、準備万端の現頭領、到着の遅れている“2代目”はどこで何をしているのでしょう?」
その通りだ。ヒヨリの到着が遅れていることは気づいている。
「そして、彼女を呼びに行った妖精。“3代目”は彼女にだいぶ懐いておりましたねえ」
アマツの脳裏に過る最悪の予想。
背を伝う冷たいものに突き動かされるように、儀礼用の弓に矢を番えていた。
「お祖父様?」
「ヤクモ! 下がってろ!」
孫の前、いや、恐らくこれまでの生涯の中で最大の殺意を込めて弓を引く。それでも老人は顔色を変えず話し続ける。
「ああ、お待ちください。貴方と敵対するつもりはないと申し上げたはずです。」
「それはこっちが決めることだろうが」
老人は両手を上げてアマツを制す。老人の素性も能力も未知のため、警戒したまま弓は緩めなかった。
まるで敵意のないような喋り方。それが殊更アマツの警戒心を煽った。
「はて、困りましたねえ。ですが貴方も私に構っている時間はないのでは?」
刹那。
老人の胴体が爆ぜた。
ように見えた。
「即決ですか。それにしても、これが『碧落楽団』頭領の弓、聞いていたよりも疾そうだ」
老人の身体は弓に穿たれた部分から煙のように変化し、そのまま霧消していく。
「その矢は、護りたい者まで届きますかな?」
と、言葉を残し老人の痕跡が跡形もなく消える前に、アマツは血の臭いのする方へ走り出していた。




