act.2【虫喰みの森と晴空の射手座】1
そこは、太陽の光も届かない鬱蒼とした場所。幾重にも重なり、空を覆う深緑は暗澹とした薄闇を作り出し、鈍重な空気を生み出していた。
若い女が、湿った土を踏みつけながら、疲れた足を一歩、また一歩と進めていく。その手には産まれたばかりの赤子。泥だらけ、汗だらけの女の顔とは対照的に、赤子の身体には汚れひとつとして付着してはいなかった。
深い深い森に、小さな赤子を抱いた女性の姿は、正直似つかわしくないものではあった。それでも、女は歩みを止めなかった。
森の奥から、キラキラと光がこちらへと向かってくる。不規則に飛び回る光は、
女の行先は、音の方へ。すっかり重くなった足を前へ。
もう少し、もう少しで。
この子が、安全に暮らせる場所へ。
〜〜〜〜〜
人工列島-アロイ・アイル-、盾の島 《スクタム》。
来栖美羽は、強大な敵と対峙していた。
「……なんで、こんな所にいるんですか?」
喉元に切先を突きつけられているような感覚。美羽がこれまで生きてきた17年間、幾度となく対峙してきた相手。だが、この場所、新しい自宅にまで現れるとは思っていなかった。
お互いにお互いの姿は捉えている。不用意な動きは隙にしかならない。動くときは、仕留めるときだ。美羽にとってはホームグラウンドにあたるが、相手はそんな事はモノともしない。
失敗ったら、終わりだ。
武器を握る手に力が入る。一撃で斃さなくてはいけない。
瞬きすらも忘れるような緊張の中、先に動いたのは美羽だった。
ジリジリと、摺足の様に対象に近づく。大きな動きをしてはならない。確実に仕留められる距離へ。あと五歩、三歩、一歩。
そしてーーー。
「ただいまー」
「わあっ!?」
完全に意識の外から声をかけられた美羽は、まるで跳び上がらん勢いで驚いてしまった。
「美羽?」
「あ、ごめんなさい、ウテナ。ちょっと驚いちゃって……」
声の主は、蓮見蕚。この家は、ウテナと美羽が二人で暮らしている。とは言っても、二人はカップルとか、そういう訳ではない。
SHIP ……The safeguard helm of illegal phenomenon。
"超常の欠片"の保護、確保を目的として組織された団体、その所属であるウテナと美羽は、仕事上のパートナーという位置付けになる。
来栖美羽、神造機。S.H.I.P.が管理している"超常の欠片"の一種。人間の女性とよく似た外見をしているが、それぞれ個別に“機能”と呼ばれる特殊な能力を持っている。
例えば、来栖美羽の機能。
対象の怪我や病気を癒す能力。ただし、自分の身体に移し換える、という形で。
そして、もう一つ。
起動中、自分が負った傷を、相手にも背負わせる能力。
彼女は、その機能を『被虐の聖女』と言った。
蓮見蕚、人間。
神造機は、『花婿』と呼ばれるパートナーと契約することによって解放される機能がある。
例えば、美羽の『自分の傷を相手にも背負わせる』機能は、花婿との契約によって使用可能になる機能だ。
つまり、神造機が本来持つ機能は、花婿との契約ありきで発揮されるのだ。花婿との相性によっても神造機の機能の出力は変動するため、適切な花婿の選定もS.H.I.P.の重要な役割である。
そんなこんなで、蓮見蕚が来栖美羽の花婿として選定されたわけなのだが。
蓮見蕚も、普通の人間ではない。
蓮見蕚の左腕は、『怪腕』と呼ばれる"超常の欠片"とよく似た外見をしていた。青黒く、血管の異常に浮き出た、恐ろしいまでに筋肉質な腕。おおよそ人間の腕とはかけ離れたそれは、ウテナの左肩から先とすっかり置き換わっていた。
そのおかげでウテナは常人ならざる筋力を獲得しており、その力は『怪腕』の拳を押し返し、その巨躯を吹き飛ばすほどである。
とまあ、そんな筋力を持っていたとしても、だ。
「……で、何が出たって?」
「口に出すのも悍ましいです……」
「ああ……」
それで大体察した。美羽が戦っていたのは、家庭によく出没する主婦の敵、黒い弾丸、這い寄るもの、様々な異名を持つアレだ。
「虫、ダメなのね」
「そうなんです。ああもう困りました。何で新居なのに虫が出るのかしら。兄さんしっかり家の手入れしてたのかな……」
「じゃあ、さっき美羽は虫を退治しようとしてくれてた訳なんだな。悪い事した。後で責任持って退治しとくから」
「いえ……。でも、出来れば早めに何とかしてくれると助かります」
とは言え、『怪腕』の腕があっても、家で見失ってしまった虫を探し出すことは出来ないのである。
「居るとしたら家具の隙間とかその辺よな……」
そう呟きながら、重そうな棚をひょいっと持ち上げるウテナ。
「わ、凄いですね」
「どう、居そう?」
「んーと……。いや、見当たらないです」
「そしたら、次はこっちだな」
別の棚を持ち上げた時、影から黒い何かが飛び出した。
「わ"ーっ!?」
「お、居た?」
「ウテナ! お願いします! やっつけてください!」
「へ? あ、そう言えば、棚持ったままじゃ退治できないじゃん」
「あっ……」
顔から血の気が引く、っていうのは誇張した表現でもないんだな、とウテナは思った。
「神様……」
何故か神に祈りだす美羽。側からも相当追い込まれているのは容易に見てとれた。
近くにあった雑誌を丸め、筒状にする。対峙する敵は動かない。それは、美羽の出方を伺っているのか、或いは余裕の表れか。
再び両雄相見える。
ひりついた空気の静寂は、突然に切り裂かれた。
黒い弾丸の居住まいは、刹那の間に静から動へと切り替わった。
「わ"ーーーーーっ!?!?」
美羽に向けた猛然とした突撃。余談であるが、この黒い弾丸は、あたかも人の恐怖心というものを感じ取っているかの如く、ソレを恐れている人間に向かって特攻する。まるで、それが最も生存確率が高いと知っているかのように。
そして、それは効果的面である。
恐怖と驚愕でネコ科の動物のようにその場で跳躍する美羽。そんな状態で着地が上手くいく訳もなく、その場で尻餅をつく。
「美羽、落ち着いて!」
「起動!『被虐の聖女』!」
「今使っても意味なくない!?」
『被虐の聖女』は、自分のダメージを相手と共有する。当然このタイミングでは何の意味もなさない。それ程までに美羽は錯乱していた。
あわあわと目をグルグルとさせながらへたり込む美羽。黒い弾丸はそれにも関わらず美羽へと進む。
万事休すか。
「やっほー! 美羽、準備できたー?」
玄関を開け飛び込んできたのは、今時のギャルのような風貌の女の子。リコリス・ビスコッティ。美羽と同じくS.H.I.P.所属の神造機であり、皆からはリコと呼ばれている。
「って、何この状況」
リコが見たのは棚を抱えたウテナ。真っ青な顔で座り込む美羽。
「……DV?」
「違う!!!」




