エレノールさん?
かすかに、僕の頭のわきで音がした。
気をつけていなければわからないほどに、かすかな音。
家に帰り着いて、眼鏡を外し、ちょっとした疲れから寝入ってしまった。
はずの僕だったら、気づくことはないはずだった。
でも
「エレノールさん?」
びく、と人影の動く気配がした。
彼があわてて伸ばした手より、準備していた僕のそれのが速かった。
「狙いは、眼鏡だったんですね」
手早くかけた眼鏡の先。
はたして、エルフのエレノールが、しっかり立って僕を見ていた。
「そうか。魔眼の・・・・・・」
「はい、捻挫が嘘だっていうのは、わかってましたから」
「我ながら、下手な芝居だとは思ったのだがね」
エレノールはそういって笑った。
「自分自身に危害が加えられる、とは考えていなかったのか?」
「それにしては、やりかたが回りくどかったですし」
――ふつう、捨てませんよね。いくらボロボロの鞄でも――
「殺してしまえ、という者もいたのだがね」
え、ほんとうに? それはちょっと、予想外だったかも。
「もしかして、王さま、メネリオンさまですか?」
「そんなわけがないだろう。お妃さま、それから名誉のためにいっておけば、癒やし手のネイセルにもかかわりのないことだ」
「やっぱり、ミリエルのことなんですね」
エレノールは頷いた。
「エルフと人間が、わかりあえるはずもない。そんなふうにいう者たちもいる」
だから王女を連れ戻せ。場合によっては、相手を殺してでも、かな。
その考えは、わからないでもないけれど。
なにしろ、人間の間にだって、そういうところ、あるものな。
みんなのお役にたっていたつもりが、役立たずだって追放された僕のような例だってある。
「それで、こんな嫌がらせを? エルフは誇り高いんだって、思っていましたけれど」
「充分に誇り高いさ。自分たちがみとめたエルフ同士、その間ではな」
エレノールはもう一度笑った。
「まさか、あそこまでされて、笑って許せる者がいるとは思わないじゃあないか。怒って怒鳴って、帰れと叫ぶ。そう期待していたのだが」
「そこは、クロに感謝ですよね。丸く収めてくれたんだから」
「フェンリルか。今日はうまく引き離せた、とほくそ笑んでいたのだがね」
少なくとも、眼鏡を壊せば、エルフの里に王女を連れ帰る口実ができる。
そうなればそのあとはどうとでもなるじゃないか。
エレノールは淡々とそういった。
「ミリエルの好きにさせて、あげられないんですか?」
「そうできればいい、と・・・・・・いや、これ以上はいうべきじゃあないな、なにしろ」
――王女が、アイオン殿のもとに来たいなどと言い出すとは、誰にも予想できなかったのだから――
エレノールのその言葉にだけは、僕も完全に同意だった。
彼は笑みを消し、そうしてナイフを構える。
あれ、おかしいな。
謎がすべてとかれちゃったエレノールは、自分の行動を恥じてどこかへ退散する。
そういう予定だったんだけど。
「こうなれば、少し痛い目を見せてでも、姫さまに帰れといっていただかなければならん。恩人のアイオン殿に、こんなことはしたくないのだが」
ほんとうにすまなそうにそういうものだから、僕は逆に怒りがこみ上げてきた。
脅されたってミリエルにそんなことはいってやらないし、痛めつけられるのもゴメンだね。
「ちなみに、エレノールが踏んでいる床だけど、もう少しで割れて落ちるよ」
「なにを馬鹿な、いや、魔眼のちか・・・・・・」
エレノールが僕から視線を切り、足下に注意を向ける。
そのスキに、僕は立ち上がって彼に向けて突っ込んだ。
床のことは嘘。割れそうな場所なんてこの家にひとつもない。
丁寧に使ってくれていた、前の住人に感謝である。
勝負は一撃。
それで決められなかったら、どうあがいても僕に勝ち目はない。
僕にふところに入り込まれたエレノールは、とっさにナイフを持ち替えて、その柄を使って殴ろうとする。
危害はともかく、殺したくないっていうのは彼の本音だったみたいだ。
僕はそのナイフの柄を、横合いから思い切り殴りつけた。
「な!」
驚いた声をあげたエレノールの目の前で、ナイフの柄はバラバラになり、刃もとれて床に落ちる。
それぞれがからからと乾いた音をたてながら。
「どうする? まだやる?」
僕はせいいっぱい余裕ぶってそういった。
正直、これ以上やったらこっちがまいってしまいそうだ。
「いや、やめておこう」
落ちた刃を見ながら、エレノールがいった。
そうしてくれると、僕も助かる。
「できれば、見逃して欲しい」
「・・・・・・いいけど、これからエレノールはどうするつもりなの?」
「私は・・・・・・王に罪を告白しにいこうと思う」
負けたくらいで、なにもそこまで。という言葉を、僕はのみこんだ。
たぶん、エレノールはそうするきっかけをさがしていただけなんだろう。
「王女には、追って新しい護衛が派遣されることだろう。それまでの間、王女のことを頼んでもいいだろうか」
僕は、しっかりと頷いた。
エレノールは、今度はほんとうに満足そうに、満面の笑みを浮かべるのだった。