クラゲは夢を見るか
※BL小説になります。性描写等はありませんが、15歳未満の方はご遠慮ください。
ジリジリと肌が焼けるような熱は、宮城でも同じで、少しは涼しいだろうと思ったのに、と湊は目を細めた。
大学進学と共に上京して二年。東京での生活にも随分と慣れ、地元、宮城にいる自分自身に少しの違和感を抱いてしまう。人生では比にならないくらいここでの生活が長いのに、東京では、いろんなものが大量に、忙しなく通り過ぎて行くものだから実際よりも長い時間いたような気がする。ここで過ごした十八年で得た知識や感じた体験が、東京の二年に凝縮されているような、そんな情報量が湊の中には入っていた。
年末にも帰省はしたから、半年ぶりくらいのはずなのに、と湊は時間の空白の埋め方も忘れてしまった体に呆れる。
――例えば、こういう待ち時間の暇つぶしの方法とか。
湊は太陽の光を避けるように日陰を探して、駅の片隅にあった駐輪場あたりで足をとめた。何年か放置されているのか、それとも単に古いだけなのかは分からない自転車が、海の潮のせいか、錆びたままで立てかけてあった。
湊の地元であるここ、浜波市は宮城県の北に位置し、市のおよそ半分が三陸海岸に面しているせいか、駅や道路が海に沿っている、ということは決して珍しい話ではなかった。けれど、東京に出ると、それがいかに珍しい光景であるかが良く分かる。
昔からずいぶんと聞き慣れていたはずの波の音や、海鳥の鳴き声は、いつしか懐かしい音になっている。人工的な東京の雑踏は、この町のどこにも存在しておらず、それが湊を孤独にさせるようだった。
落ち着かない気持ちのまま、湊はなんとか約束の時間をやり過ごそうと、ポケットに入れていた携帯を取り出す。画面の向こうの友人に海の写真を送れば、少し気が紛れた。
*
何分か、何十分か、そうして日陰に入って携帯を触っていると、控えめなクラクションの音がした。
湊が顔を上げると、車の窓が開く。
「……颯天!」
「悪い。遅くなった」
時間通りの到着にもかかわらず、颯天は律儀に謝った。
久しぶりに見るその顔に、湊は思わず胸をきゅっと締め付けられる。
あぁ、颯天だ。
自分は、この瞬間を待ちわびていたのだろうか。湊は先ほどよりも少しだけ間隔の狭まった自らの鼓動の音を聞きながら、そんなことを思う。
卒業以来、湊の脳内で繰り返し思い出されてはくたびれて色あせ始めていた記憶が、鮮明に蘇るほどに、颯天は変わっていなかった。
高校時代ほど肌は焼けていなかったが、大学生にもなっておしゃれに目覚めた様子もなく、かといって、身だしなみに気を使っていないわけではない。そんなところも、高校時代の颯天そのままだった。髪は少し伸びたような気がするが、さっぱりと整えられており、意思の強そうなくっきりとした瞳と、柔らかな口元が、湊をとらえていた。
あまり目に焼き付けてしまうと、ふたをして忘れようとしていた気持ちまでもが戻ってきそうで、湊は慌てて車へ駆け寄る。
「いや、俺が時間より早くついただけ」
口早にそう言ったのは嘘ではない。
新幹線は時間通りだったが、乗り換えがうまくいって、一本早い電車に乗れたのだ。生き急いでいる訳じゃないのに、どうしてか、歩く速度が速くなったような気がしている。
そういう自分が湊はなんとなく嫌だった。大人に近付いている感じがする。あんなにキラキラしていたはずの夏は、青春と呼んだ瞬間は、どこか遠くへといってしまった。
トランクにキャリーバッグをつめこみ、湊が助手席へ座ると、颯天はおもむろにチケットホルダーへと手を伸ばした。ゴツゴツとした男らしい手が、器用に隙間から薄い青みがかった紙を取り出す。
「親戚から貰ったんだけど、今日までなんだ。折角だから寄っていかないか?」
颯天は少し照れたように笑った。
手渡されたそれは、最近出来たばかりの水族館のチケットで、湊は思わずじっと見つめてしまう。いい歳をした男二人で行くような場所ではない。そんなことはお互いに分かっていた。
けれど、湊も、そして颯天も、行かない、という選択肢を持ち合わせてなどいなかった。
*
湊と颯天は、高校で三年間同じ部活に所属し、一緒に過ごした仲間であり、時にはライバルで、友人で、そして一番近くにいた存在だった。
初めて二人が出会ったのは、浜波高校の受験日だった。
二人は、別々の制服を着ていて、まだ互いの名前も知らなかった。
偶然、割り当てられた番号順で隣同士になり、湊は颯天を、そして颯天は湊を正反対の人間だと思った。というのも、湊は国語や英語の答案用紙を颯天の二倍近い速度で埋めていたし、颯天は数学や理科の答案用紙を湊の二倍近い速度で埋めていた。互いの鉛筆の音がすれ違っていくのを、二人は密かに耳で確かめあっていた。
そして、試験が終了したとき、二人はその姿を互いに目に焼き付けた。
あまりにも正反対だった。
湊は背が低く、髪は耳元にかかっていて、ともすれば女子と見間違える容姿だった。対して、颯天は背が高く、髪は短くそろえられていて、高校生だといわれても不思議はないような体つきだった。
二人が次に出会ったのは、合格発表の日で、湊は友人と声を上げて喜び、颯天は小さく一人ガッツポーズした。
「受験の時、隣にいたやつだよな?」
相手の存在に気付いたのは、湊が先で、颯天に声をかけた。颯天も湊を見て、すぐに思い出したのか、
「あぁ。俺も覚えてるよ」
そう言った。
「俺、八雲湊。二中なんだ」
「俺は、水浦颯天。四中だ。受かったんだろ? さっき、声が聞こえた」
「おう! 水浦は?」
「受かった。来月からよろしく」
受験に合格した喜びからか、二人はどことなく舞いあがっていて、颯天は思わず手を差し出していたし、湊もそれをきつく握り返した。良い友達になれそうな、そんな気がした。
それから、入学式で会い、偶然にもクラスメイトとなり、二人は再び隣同士になった。
「八雲とは縁がありそうだ」
「俺もそう思った。知らないやつばっかりだから水浦がいてくれて良かったよ」
「俺も。八雲がいて、正直安心した」
「俺のこと、湊でいいよ」
「じゃあ、湊。いい名前だよな、俺、海好きだから湊って響き、好きだ」
「そう? 女子みたいだし、俺は水浦みたいな名前が良かったけど」
「はは、じゃぁ俺のことも、颯天でいいよ」
「じゃぁって何だよ」
「いや、湊がそう呼びたがってるのかと思って」
「はは、何だそれ」
そんな他愛のない会話を二人は積み重ねた。仲良くなるのに時間はかからなかった。
二度あることは三度ある、とはよく言ったもので、二人は同じ部活を希望した。
そのことがさらに二人の距離を縮め、二年になってクラスが離れても、三年になって部活を引退した後も、二人は仲を深める一方だった。
部活での二人は、喧嘩もしたし、時にレギュラーの座を争って互いに闘志を燃やしたりもした。
二人の所属した部活は、海沿いの町ならではの部活で、競技ボート部という。
そもそもの競技人口も決して多いわけではなく、小さな地方大会では一つ勝ち進めば決勝などということもざらにあったが、それでも伝統ある部活で、巷では有名だった。珍しさもあったかもしれないが、二人が入部した当時は、五十名程度の部員が所属しており、その中から、エイトと呼ばれる競技に選抜されるのはたったの九人だった。しかも一人は漕ぎ手ではないので、オールを握れるのは実質八人。先輩達もいる中でレギュラーを、というのはそう簡単な話ではなかった。
二人はそれでもボートの楽しさに魅了され、必死に練習を重ねる日々を送った。
先に選抜されたのは、颯天だった。元々、中学時代にサッカー部だった彼は、体力があり、その上声が大きかった。およそ二キロもの距離をこぎ続けるうえで、スタミナがあるということはもっとも重要視されていることだったし、疲労に耐えうるだけの忍耐力や、仲間を鼓舞する気持ちの強さは必要不可欠なものだった。颯天はそれをすでに備えていたのだ。
颯天がレギュラーに選ばれたことは、湊にとっても喜ばしいことだったが、反面、それが湊にとって、レギュラーになりたいと強く思う原動力にもなった。
初めて喧嘩をしたのはそのころだ。オーバーワーク気味だった湊に、颯天は気を使って声をかけたつもりだったが、湊にはそれが癪に障った。二人はしばらく口をきかなかったが、ある日、湊が風邪で倒れ、颯天がそれを看病する形で、自然と終息したのだった。
先輩からの嫌がらせを受けた颯天を、湊が支えたこともあった。
結局、二人がそろってボートの上に座ったのは、二年の秋だった。海から吹く風は冷たくなっていた。夏休み最後の大会で先輩が引退し、湊はそのポジションを譲りうけたのだ。颯天は自分のことのように喜び、その日は二人で、陽が沈むまで海を眺めて語り合った。
三年になり、将来のことを考えなくてはならなくなった。
二人は地元で就職するか、大学に進学するか、という岐路に立たされ、迷うことなく違う道を選んだ。
颯天の家は元々その土地に古くから根をおろしている家系で、颯天の祖父が漁師を、その娘である母親は魚を扱う小料理屋を営んでおり、父親にいたっては海洋生物研究家という、まさしく海とともに生きている家族だった。颯天は母親を手伝いながら、自分もいつかは料理屋を開く、と宣言した。海も好きだし、魚も好きだ。俺にはこの町が合っている、と湊に告げた。
湊は、両親もごく普通の会社員だったし、町に特別な思い入れもなかった。どちらかといえば、海外留学をしてみたい、という気持ちもあって、東京の大学へと進学することを決めたのだった。
まだ実感こそなかったものの、お互いに残された時間がわずかであることは日に日に感じていた。同時に、もうこんな風に話すことすら簡単には出来なくなるのか、という孤独感に苛まれたりもした。
そんな中で、湊が颯天を、颯天が湊を、好きだという気持ちに気づくのは、時間の問題だった。
一緒に過ごせる時間に限りがあることをつきつけられた時の焦燥感、クラスメイトの女子に告白されているのを知ったときに感じた不安、二人で、夜遅くのファミレスで他愛もない会話をするときの幸福感。いくつものそれら小さな感情の重なりを、二人は確実に共有していたのだ。
――あの頃の俺たちは、美しい瞬間を、その気持ちを共有することを『恋』と呼んでいた。
湊も、颯天も今は、そうしてふたをしている。
けれど、二人には確かに、友達と呼ぶにはあまりに強い絆で結ばれていて、仲間というには脆い何かで繋がっていた。しかし、愛に性別は関係ない、とはいうものの、それを乗り越えられるほど、二人は大人ではなかったし、誰かにそれを打ち明ける勇気も持ち合わせていなかった。二人は進んでいく時間のままに卒業し、離れ離れになった。
卒業後、しばらくはまめに連絡をとりあっていたものの、湊が東京へ引っ越し、颯天は、実家とはいえ、一社会人として互いに日々を過ごす中で次第に連絡は途絶えて行った。そして、湊が海外へ留学したのをきっかけに、完全に連絡は途絶えた。
それでも、二人は今でも思っている。
――この気持ちは『恋』だ。
けれど、二人は今でこそ思っている。
一生叶うことのない夢なのだ、と。
*
卒業して二年がたっても友人以上にはなれないままだ。多分、これからもずっと。
だって、男同士なんて、ありえない。相手に引かれて、友人でいられなくなるくらいならこのままでいい。
湊と颯天は、そう思っている。
二年離れてもなお、会いたいという気持ちであったことまでは誤魔化しきれず、二人はこうして今日、再び会うことに決めたのだのが。
あの時伝えられなかった気持ちは、もう時効になっていて、笑い話にできるのだろうか。
出来るわけなどないだろう、と思ってはいるものの、そうなってほしい、とどこかで思っていることも事実だった。
だからこそ颯天は、親戚からチケットを貰ったが今日までだから、仕方なく、湊を誘ったのだし、湊は、そんな颯天に気を使って、仕方なく、了承したのだ。
「いいじゃん、水族館。俺、中学校以来だ」
彼女でもいたなら、きっと一度くらい行っていたのだろうが、高校時代の二人は、ボートと友情が全てで、恋愛なんてしている暇などなかった。いや、お互い、そういう気持ちに見て見ぬふりをして過ごすことで精いっぱいだった。もちろん、それで良いと思っていたし、後悔もない。すぐ近くにいて、同じものに全力を注いで、それだけで満足出来ていた。
いいじゃん、といった湊の返答に、颯天はどこかホッとしたように笑う。
「良かった。じゃぁ、行ってみるか」
「おう! なんか結構楽しみかも!」
そんな顔するなよ。
二人は、口には出さずに、そう思う。
颯天が車にエンジンをかけ、駅のロータリーを出るまでの時間が、湊には長く感じられた。
久しぶりで少し緊張しているだけだ、と自分に言い聞かせて、湊は手にしたチケットを見つめる。意識してしまわないように、なんとか話題を見つけて口を開く。
「……それにしても、良く手に入ったな。最近出来たばっかりなんだろ、ここ」
東京でも、たまに宣伝を見かける。新設だから綺麗だし、特に若いカップルには最近の流行を取り入れた展示がSNS映えすると人気だ。東京から新幹線で二時間。旅行にはちょうど良い距離ともいえる。
湊もやはり帰省前には、地元だろ、夏休みに行くのか、と大学の友人に何度か聞かれたほどだ。しかし、夏休みは入館に制限がかかるうえ、チケットも簡単には買えないらしいとの噂もあって、端から行く予定など立ててはいなかった。そんなわけで、湊はこのチケットには素直に驚いたのだった。
あぁ、としばらく言葉を選ぶように逡巡した颯天は
「ほら。俺んち、ちょっと特殊だから」
少し曖昧に笑って、そう答えた。親のつてで、というのは気が引けるらしい。颯天は、他の人には言うなよ、といたずらっぽくつけたして笑った。颯天は、何度か水族館へは行ったことがあるのかもしれない。カーナビこそ設定していたものの、ほとんどその画面を見ることはなく、スムーズに車を走らせていた。
湊は、そんな颯天の家族のことを思い出しながら、相槌をうつ。
「そうだった。おっちゃんもおばちゃんも元気?」
「うん、おかげさまで」
「良かった。じいちゃんは……亡くなったんだっけ」
「湊が東京に行ってすぐだったかな。良かったら、帰りに、線香でもあげてってくれよ」
「そうする」
そこで再び会話が途切れ、ウィンカーの音が車内に響く。
空白の二年間を埋めるために、話したいことは山ほどあるはずなのに、それを埋めてしまったら、もうこれ以上気持ちを隠し通すことは出来ないと分かる。
そのことが、二人の口を余計に重くさせた。
*
「おおー! でかい! 綺麗!」
東京で、こんな建物など見慣れているだろうに、湊はキラキラと目を輝かせた。
柔らかな髪が風になびいて光を反射させる。あの頃と何も変わらない。颯天は湊の横顔を盗み見た。
背は三年間で少し伸びたようだが、それでも自分より顔一つ分程度小柄な湊は、相変わらず華奢な体つきで、着ている服のせいなのか、一層線が細くなったような気さえした。大学での生活は、想像しているよりも大変なのかもしれない。
湊の少し緑がかったグレーのような淡い色を映す瞳や、白く滑らかな肌が、颯天にとっては美しいもののように見えた。
「すごいな、颯天」
「有名な建築家がデザインしたらしい」
颯天がそういってパンフレットを差し出せば、湊は、おおっと声をあげて、良く分からないけどさすがだな、と笑った。
「ていうか、いつの間にパンフレットとか取ってきたんだよ! 相変わらず気が利くな!」
「はは、そりゃどうも」
そういう湊こそ相変わらず人をのせるのがうまいな、とは何故か言えず、颯天は内心ドキドキと音を立てる鼓動を無視した。
一週間もすれば、湊はまた届かぬ場所へ帰っていく。つまり、意識するだけ無駄なのだ。チリチリと焼け付くような胸の痛みにも、俺はいつしか慣れていく、と颯天は自分に言い聞かせて、それ以上を考えるのは早々にやめた。
チケットの購入列は長く、湊は、
「いやぁ、颯天様々だなぁ」
と笑った。
「あんまり大きい声で言うなよ。ある意味ずるなんだから」
「おっちゃんの正当な報酬じゃないの?」
「いや、まぁ、そうだけどさ……。ほら、ちょっと後ろめたいから」
「はは、相変わらず真面目だな」
「それはどうも」
そうして購入列の横を悠々と通り過ぎて、館内へ入ると、ひやりと冷たい風が頬を撫でた。今日のように暑い日にはありがたい。
二人は、体にまとわりついていた熱気がゆっくりと冷えていくのを感じながら足を進める。
館内はたくさんの人で賑わっているはずなのに、広々とした空間にいるせいか、あまり混雑しているようには感じなかった。うまく人が分散するように、展示の配置にも気を配っているのかもしれなかった。人混みに慣れた湊は、思ってたより空いてるな、と笑ったくらいだ。
東京の電車は、床が見えなくなるという噂を聞いたことがあるし、それに比べれば、大したことなどないのかもしれない。
家族連れやカップル、友人同士のグループが往々に行き交う清潔感の溢れる館内で、男二人は目立つのでは、というのはどうやら考えすぎだったようだ。中には、湊と颯天のように男二人で展示を見ている人たちもいて、少し安堵した。
「颯天! 行くぞ〜!」
いつの間にか前を歩いていた湊に呼ばれ、颯天は足を進めた。
思っているよりも居心地の良い空間に、二人の緊張も次第にほどけていく。口数が増え、思い出話にも花が咲いたし、展示も満喫できるものだった。
少しだけ薄暗い館内に、綺麗に展示された魚の水槽をゆっくりと眺めるだけでも、二人には満足だったが、魚が頭上を行き来するトンネルをくぐるのは年甲斐もなくワクワクしたし、何百もの魚が行き交う大水槽には圧倒された。
大きなエイが体を揺らして空を飛ぶように泳ぐ姿には久しぶりに胸が高鳴り、イルカやペンギンがスイスイと水を切る姿は愛らしかった。
色とりどりの熱帯魚に湊は足を止め、ペットショップで見た、と名前をいくつか颯天に言ってみせた。颯天は、良く料理に使われる魚を指差しては、職業病だ、と湊にからかわれた。イワシが大群で泳ぐ様には、二人で口を開けて眺めていた。
何年振りかの水族館は、想像していた以上に楽しめる。颯天にいたっては、家族や友人と来るよりも、湊と来る方が何倍も楽しいとさえ感じていた。
この魚知ってる、とか、あれは美味いとか、そんな他愛のない会話が尽きることのないまま時間がゆっくりと過ぎて行く感覚が心地よかった。まるで、高校時代に戻ったようだ。
*
表示の説明を読んで、感嘆の声をあげるのは湊で、颯天はそんな彼を見つめていた。
「綺麗だなー」
ゆらりと尾を揺らして泳ぐ魚を見つめていた湊が、ふいに颯天の方を振り向いた。
綺麗だな、と颯天が見つめていたのは湊で、多分、その目は彼自身が分かるほどに熱を持っていたと思う。それに気付いたのか、それとも同じように何か思うところがあったのか、湊は、にっと笑った後、その目をすぐに逸らした。
湊が照れかくしをするときの癖だ。
懐かしさと愛おしさがあふれて、颯天は思わず口を滑らせる。
「えっと……湊が、楽しそうで良かったな、と思って……って何言ってんだ、俺」
湊が少し困ったような、本当に照れたような顔で颯天の方を見たので、颯天はとってつけたようにはにかんで、次行くか、と足を順路に向けた。
「いや、俺も結構舞い上がっちゃってる。楽しいな、水族館って」
颯天を追いかけるように、湊も足を進めたが、それ以上、互いに視線があうことはなかった。
なんだあの目、と湊は自分の赤くなった顔を冷ますために手を当てる。
あ、ひんやりして気持ちいい。
館内の空調はちょうど良かったが、手は少し冷えていた。
*
大会の時も、こんなことがあったな、と湊は昔を思い起こす。
ボートはチーム競技だ。漕ぎ手八人と、指示一人、九人全員の息が揃って初めてボートは水の上を走る。そのため、学校によって、円陣を組んだり、気合入れを全員で行ったりと、団結力を高めるための様々な工夫を施す。
浜波高校も例にもれず、やはりチームの団結力を高めるために、必ず行っているルーティンワークがあった。
大会当日の朝に行う瞑想。
レギュラーメンバーだけで行うそれは、レギュラーになる前までは、あまりにも神聖な儀式のように見えたし、見ているだけでもいかにそれが大切なことであるかが伝わってくるようだった。
大会当日の朝、レギュラーメンバー九人は、向かい合って、円をつくるように座り、隣り合った人の手を互いに繋ぐ。そして目を閉じて、みんなで呼吸を合わせるのだ。円の中心にみんなの気持ちを集めて、美しい真円上の球を作り上げるイメージをする。
不思議なもので、太陽の照りつける暑い日でも、海の風が心地よい日でも、最初は互いに少し手が冷えているような気がするのだ。それでも緊張で冷えた手が、少しずつ瞑想の間に暖かくなっていくのを感じるあの瞬間、本当に心がつながった感じがして、湊はそれが好きだった。
みんな、元気かな。
颯天の背中を見つめて、湊はさらに想いを馳せた。
颯天の背はいつも前にあって、ボートを漕いでいる時の道しるべだった。頼もしい背中に、湊は、自分のすべてを預けても良い、と思っていたほどだ。それほどまでに、信頼していた。眩しい背中だ、と思った。
湊は足を止め、先を行く颯天に声をかけた。
「颯天、俺、懐かしいこと思いだしちゃった」
「何」
颯天が湊の方を振り返れば、湊はにこりと微笑んだ。
「大会の時のこと」
「ああ、懐かしいな」
颯天もまた、そういった湊の声に、大会のことを思い出していた。
後ろにいる湊に、すべてを託していた。一糸乱れぬオール運びを伝えるのは、湊の役目だ。後ろから聞こえる湊の声が、颯天をコントロールしていた。チームの雰囲気や、仲間をまとめあげるのがうまい湊を尊敬していた。
二人は、同じことを思い返していた。
高校の友達は一生の友達だ、と部活の顧問をしていた先生は言っていた。
――今の二人は、互いがそうあることをただ願うばかりだ。
*
湊がゆっくりと足を止めたのは、クラゲのエリアだった。
どのエリアよりも照明の少ないその場所は、ライトアップされた水槽内の明かりが頼りだ。間接照明の柔らかな光は、水によって拡散され、さらにはクラゲによってさらに淡い光へと変化していた。
ぼんやりと明るい水の中を、ふわり、ふわりとクラゲが浮かぶ。そして、そのクラゲの動きに合わせるように、緩やかなピアノの曲が流れていて、時折、ポツリ、ポツリと浮かんでは消える泡のように鍵盤がはじかれる。
幻想的で、少しだけ切ない。
その雰囲気に、二人は自然と黙ってしまった。何度か来ているはずの颯天でさえ、湊と一緒にいるからだろうか、そうした気持ちにさせられた。
お昼時で人がちょうどいなくなり、エリアには二人きりだった。
目があったら、多分、もう戻れないだろう。
二人の気持ちには気づかないで、小さくて頼りない半透明は踊る。
いくつもの柱のような水槽が立ち並んでいて、それぞれに違う種類のクラゲが入っているそれを、ぼーっと、一つずつ眺める。この先にあるのはお土産コーナーで、つまり、ここが最後のエリアだった。二人の歩調は自然と遅くなり、やがて完全にぴたりと止まる。
――なんだか名残惜しいな。
口には出さず、颯天が目の前を浮遊するクラゲを見つめていると湊はぽつりと言った。
「……なんか、ざわざわする」
湊は胸のあたりをキュッと掴んで、ふわりと水の中を漂うクラゲを少しだけ切なそうに見つめていた。柔らかな照明の光に照らされた彼は、高校生の時から変わらないままに美しかった。
「はは、なんだそれ」
颯天はわざと軽く笑う。そうでなければ、なぜか泣いてしまいそうだった。
これは、一生の別れではない。会おうと思えばいつでも会える。
「わかんないかなぁ。ずっとここにいたら、消えちゃいそうな気持ちになるじゃん」
湊は真剣な瞳でそう呟いた。
わかるよ、と颯天は胸の中で呟いた。
なぜそんな気持ちになるのか、それはよくは分からなかったが、水の中をただ漂っているだけにも見えるクラゲの不安定さに、自らの心を投影してしまうからかもしれない。
クラゲの透明な傘に、光が伝って、点滅しながら水に溶けていく。
この生き物は、なにを考えて生きているのだろう。
湊も、颯天も、ぼんやりとした明かりにシルエットだけが浮かび上がっていた。
正直に気持ちを伝える最後のチャンスが今だ、とそう思う。
けれど、自分たちはもうそのチャンスに夢中で手を伸ばせるほど、真っ直ぐではいられなくなってしまった。相手を抱きすくめて、冗談だと言って済ませられるほど、若くもなくなった気がする。人一人分の距離をあけて、水槽を眺めるのが関の山だ。
ただ、漂うクラゲの真ん中に、二人の空間が滲んでいく。
それは薄暗い館内に混ざって、いつしか消えてしまう、淡い微かな空間だった。
このまま、二人の境界など溶けて消え去ってしまえばいいとさえ思う。
「……そういえば、クラゲって、なんとなく湊っぽいかもな」
無くなってしまった何かを求めるように、寂しい気持ちを誤魔化すように、颯天は言う。
「えぇ〜、それどういう意味よ」
眉を下げて、軽く笑う湊の後ろをクラゲがたゆたう。
水の流れに流されているだけのようにも見えるその動きを、颯天と湊は自然と目で追っていた。
二人はわざと、視線の合わないように、そうして互いにクラゲを目で追った。
「いや、こう、ふわふわしてそうで、意外と毒がある? みたいな」
褒め言葉のつもりだったけど、言葉のチョイスを間違えたな、と口に出してから颯天は思う。
「毒?! 颯天、俺のことなんだと思ってんの?! ひでぇ!」
「いや、間違えた。すまん! 違う、そうじゃなくて、ほら。芯があるっていうか!」
あー、うー、と唸る颯天を湊はケラケラとからかうように笑う。
言葉の意味は分かっているつもりだ。
ちゃんと伝わってるよ、と言ってあげても良かったが、颯天相手にその必要はないか、と湊はしばらくこの冗談を楽しむことにした。
「ふわふわって言うのも、なーんか、納得できねぇなぁ」
ニヤニヤと笑いながら言う湊に、颯天は、悪かったって! と声をあげる。
あぁ、変わらない。
お互いこんなくだらないやりとりが心地いいなんて。
求めている形とは違っても、永遠に続く道を選んでしまう。
ボートの上では、勝ちたい気持ち以外に、俺たちが譲らないでいるものなんて無かったように思うのに。
お土産コーナーからの光が差し込む、最後の水槽の前で湊と颯天はもう一度立ち止まった。
本当にこれが最後だ。
そう思うと、始まってすらいない関係の終わりを迎えるみたいで、足を踏み出すことはためらわれた。
湊が、ふわりと遊泳するクラゲを水槽越しに人差し指でなぞってぽつりと呟いた。
「……クラゲもさ、夢とか、見んのかな」
颯天は、そんな訳ないとも、そうかも、とも答えられなかった。
湊は、夢みてるのか。
視線の先にいる湊は今までに見たことのない顔をして笑っている。
儚くて、消えそうで、切なそうで、でもどこか嬉しそうな。
俺たちは叶うことのない夢を見ている。
颯天は、見たことのない顔をして、答えあぐねていた。
軽い冗談みたいな、あり得ないだろって一蹴されそうな、そんなちょっとしたことだったのに、やっぱりさすがだ。
それでも少し答えを探すようにクラゲを見つめて、彼は口を開く。
「見ても、いいよな」
柔らかに、落ち着いた声で颯天はそう言った。
そういうところがずるい。
漫画のようにも、小説のようにもいかないのが現実だ。
その答えに、ドラマチックな告白など出来るはずもなく、湊は結局、だよな、と曖昧に笑うしかなかった。
もしも、今の返事が俺への気持ちに対する颯天の答えだったら、なんて幸せなことなのだろうと思う。
けれども、そんなのは独りよがりな妄想だ。
湊の伏せた目をよそに、颯天は思う。
もしも、先ほどの問いが湊の気持ちで、俺の答えが伝わっていたのだとしたら、今の返答は肯定なのだろうか。
そうであるならどれほど幸せだろう。
けれども、そんなのは独りよがりな妄想だ。
だけど、俺たちにはそれで良かった。
それだけでずっと繋がっていられるような、そんな気がする。
「……そろそろ行くか」
心にひたりと溜まった気持ちにけりをつけるように、颯天は足を進めた。
「ありがとな、颯天」
颯天の背にかけた、湊のその言葉の真意は、誰にも分からない。
クラゲがゆらりと揺れる水槽を、湊は最後にもう一度そっと指でなぞって微笑む。
多分もう、ここにくることはないのだろうな、そう思えば、柔らかな痛みが胸のあたりを通り過ぎた。
颯天はそんな湊の指先を見て、チリリと胸の奥深くに焼き付く痛みを感じる。
まるでクラゲに刺されたような、永遠に消えない痛み。
これから先、いつかふさがってしまったとしても、完全になくなることはない。
その傷こそが、二人をつなぐ糸なのだと、湊も、颯天もそう思う。
二人には、それだけで良かった。
*
「さー、ラーメンでも食べて帰るか!」
「そうだな。あ、そういえば、最近美味い店出来たんだよ」
「まじで? 餃子ある?」
「はは、どうだったかな」
人一人分の距離。
これが俺たちの変わらないもの。永遠に続いていく関係だ。
颯天と湊は互いに一呼吸した。
ポロン、とピアノの音が耳を通り過ぎて、瞼の裏に、ふわりと漂うクラゲが浮かぶ。
二人きりの空間で、穏やかで静かなそれは、多分、二人が見た最初で最後の夢だと思う。
「……ボート、したいな」
「うん」
ふわり、ふわり。
心が、心地の良い何かに包まれてたゆたう。
君と一緒にいる間だけは、夢見ても良いだろうか。
二人の足が、エリアをしきるカーペットをまたぐ。
「じゃぁ、行くか」
「うん、また来ような」
「……あぁ」
多分、もう二人で来ることはないだろうけど。
この時間が永遠に続きますように。
その約束を、俺たちは夢見ている。