これくらいの敵ならたいしたことはないけれど
どれほど歩いただろう。
ここサクセン山は割と大きな規模のようで、すこし進んだくらいではまったく降りきることができない。魔獣が頻繁に出没することも相俟って、人が通ることはほとんどない――はずなのだが。
「いやぁぁぁぁぁぁあ!」
突如聞こえたそれは、間違いなく女性の悲鳴だった。
「…………!」
ルハネスはさっと太刀の柄に手を添える。
瞳を閉じ、意識を研ぎ澄ませる。
――この気配。
巨大な紅熊と、小さな人間が対峙しているようだ。
人間からはたいした戦闘力が感じられない。サクセン山にはたいして強い魔獣は存在しないはずだが、おそらく、この人間では紅熊に敵わないだろう。それだけの圧倒的な差があった。
――なのになぜ、こんな山奥にやってきた……!
疑問点は残るが、しかしただ突っ立っているわけにはいくまい。困っている人を見捨てるのはルハネスの流儀に反する。
ルハネスはこれらの思考をものの数秒で済ませると、地を蹴り、全力で疾走した。周囲の風景が高速で後方に流れていく。
途中、いくつもの木々が行く手を阻むが、それを避けながら進むくらいは朝飯前だ。伊達に何年も山奥で修行をしていない。
慌てるな。
冷静になれ。
焦りは緊張を生む――
師匠から仕込まれた教えを脳裏に蘇らせながら、ルハネスはただ無心に疾駆する。
ほどなくして、大きな紅熊の姿が見えてきた。
腹を空かせているようだ。口腔から涎を無尽蔵に垂れ流しているさまは、獰猛の一言に尽きる。
「いやっ! あっちいけっ!」
対する女性のほうは完全にパニックに陥っているようだ。
わけわからんことを喚きながら、片手から小さな火球を放出している。それもたいした威力ではないので、紅熊にはまるで通じていないようだが。
――火球。
ということは、あの子は魔術師なのか。あまり強そうには見えないが……
「う、うう……!」
女性は瞳に涙を溜め、泣き声にも似た声を発する。
「お姉ちゃん……私には、私にはやっぱり無理です……。ごめんなさい……」
そう言いながらも懸命に火球を発するが、徐々に威力が小さくなっていくのが遠目でもわかる。あれでは勝ち目などないだろう。
「グルルル……」
勝利を確信したのか、紅熊がにやりと笑った――ような気がした。野太い片腕を高々と掲げる。
――間に合ええッ!
「おおおおおおっ!」
絶叫とともに、ルハネスは太刀を引き放つ。
――秋陰一刀流、枯葉之舞。
師匠から教わったすべての技術。
それをつぎ込んだルハネスの刀身が、紅熊の身体を的確に捉えた。
「グオ……?」
「え……?」
女性と紅熊が同時に目を見開いた、その瞬間。
紅熊の周囲で、無慮千もの枯れ葉が舞い上がっていた。もちろん、普通の枯れ葉などではない。ひとつひとつが鋭利な切っ先を持った、凶悪な刃とでもいうべき葉っぱだ。
これが、秋陰一刀流、枯葉之舞である。
一太刀浴びせたあと、千もの枯れ葉を出現させる剣技――これを喰らって立ち上がれる者はそうそういない。
「おとなしく眠ってな。もう人を襲っちゃ駄目だぞ?」
「ギャアアアアア!」
数秒後には、無数の枯れ葉に切り刻まれ、動かなくなった紅熊がいた。
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