12.みんながいるから
道中で手に入れていた獲物の肉。それの仕込みが終わってしまった。
「・・・あ、あのアヤメ姐さん」
「お、ありがとうコーラル」
「はい・・・」
少し躊躇ってしまい、きちんと声を掛けられなかった。
それでもアヤメ姐さんは笑顔でスー手から差し出された赤い肉を受け取ってくれる。
「・・・釜の火とお湯。もう大丈夫」
「じゃあパンも焼いとこか。これ入れといてヤナギ」
「・・・うん」
薄い鉄板に並べられた白いパン生地。小さく丸いそれは、焼き上がるときに膨らむので間隔を持って置かれている。それをヤナギは受け取り釜の中へ入れ込んで蓋をする。
やはりヤナギもスーと同様に動きが固い。
受けた毒は身体の内でまだ燻っている。しかしそれは活動する上で何の問題も無い。スー達の行動を阻害しているのは身体ではなく、心の問題。
原因は先のダークとの戦いで私情を優先した振る舞いをしてしまった事にある。
ナズナ殿が私室から立ち去ってからスー達は食堂を借りて食事の用意を始めた。しかしその間、スーとヤナギはあの事について切り出せないまま今に至ってしまっている。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
ヤナギとお互いに何を考えているかは分かっている。
はっきり言ってスー達があの時、毒をわざと食らった事にまともな理由なんてなかった。
粘液から漂う臭気などで、それが過去にスーに使われた薬の材料に類する物だと分かった。そして分体を斬り裂けば更にその確証は深まった。薬の材料はこいつの肉体であると。
その時点で終わらせて良かった。でも終わらせなかった。・・・意地が出てしまった。
過去に薬を盛られてしまい、何も抵抗が出来なくなった。そんな無力であった自分が心の中にしこりとして残り続けている。ヤナギと剣を合わせて培ってきた自身の強さを台無しにしてしまったと感じた。
そんなスーの気持ちをヤナギは知っている。そしてヤナギは悔いている。ヤナギは何も悪くないのにスーに対して、助けてあげられなかったと思っている。
だからこそ、お互いにあの毒を目の前にした時に意地が出た。こんな毒なんかに負けてなるものかと。身に受けたとて、相手を仕留めるのに支障など出る筈が無いと。何よりも、薬なんかで懸想していない男に肌を晒した事がカイル殿への不貞に感じたが故に負けるわけにはいかないと。
・・・結果はまさにスーとヤナギの思い描いた通りになった。剣も力も十全に振るえた。自分達は暗い過去の一つに打ち勝ったのだと感じた。スー達の心の強さは本物であったと。
・・・思い返せばなんと愚かな振る舞いであったか。
結果良ければ、と言う言葉があるが、今回の事はする必要の無い事だった。アヤメ姐さんに言われた事に否定など出来る筈が無い。それなのにあの時、口を出してしまったのは単純に図星だったから。認めたくなかったから。
いつから自分が強くなったと錯覚していた。未だ進むべき道の途中であるのに。未熟者の筈なのに。
「それじゃあパンもそろそろ焼けるし、食べる用意しよか」
「うん」
「器を出してきます」
返事は出来る。しかし顔は真っ直ぐに見れない。言葉に出来ない感情が胸の内に渦巻いている。アヤメ姐さんにカイル殿の事を言われたのを、後になって思い返して気付いた事があった。
スー達はいつからカイル殿が居てくれるのが当たり前になっていたのだろう。彼に会うまでは、強い人間はいずれスー達が『王』を倒す為の仮想相手であった筈なのに。・・・いつからただの女になっていたのか。
スーは戦士になりたかった筈なのに、いつからカイル殿が居なければ戦えない理由が出来てしまったのだろう。いつからヤナギとスーは2人で戦うことが当たり前になっていたのだろう。
「ナズナちゃんの分も用意しとこか。あの娘もお腹空いとったみたいやしな」
「アーちゃん」「アヤメ姐さん」
気付けば声を掛けていた。
「どうしたん? ヤナギ。スターチス」
・・・まだ何も決まっていない。ただ咄嗟に呼んでしまった。アヤメ姐さんの顔もまだ上手く見れないし、感覚もぼやけて目の前の彼女を捉えられていない。・・・ただ返事をしてくれたアヤメ姐さんの声はとても優しく聞こえた。
近くに居るヤナギと目を合わす。その目は不安と後悔が見える。それはスーの目も一緒だ、だってこんなにも胸が苦しいのだから。・・・こんなにも、自分自身が嫌な人間に感じているのだから。
お互いにアヤメ姐さんの顔を直視する事が出来ずに俯いてしまう。
「「・・・・・・」」
あの日、薬を盛られて動けなくなったスーは成すがままになっていた。衣服を剥ぎ取られ、肌に手を這わされ、薬が湧き起こす熱とそれが引き寄せる感覚に囚われていた。
心と体が一致しない恐怖。助けを呼ぼうにも口から出るのは意味を成さない吐息のみ。そもそもがスーはヤナギ以外の人を信用なんてしていなかった。ヤナギしか心許せる相手はいないと考えていた。
だからスーは自分の世界が変わったあの日まで、助けてくれた人がいた、という事実を受け止められていなかった。
スーの最後の証を奪おうと手を掛けようとしたあの男バルサムは自身の父親から呼び出されて、渋々動けないスーを置いて部屋を出て行った。父親からのお前に客が来ているという呼び出しには逆らえなかったのだ。
それでもスーは動けなかった。薬の影響もある恐怖もあった。しかし何より悔しかった。何も出来なかった自分が悔しくて情けなくて仕方なかった。
どれだけの時間が経ったのかは分からなかった。這いずる事が出来るまで回復したスーは、隣の部屋でバルサムと父親が誰かと交わい始めた音から逃げるように部屋から抜け出した。
助かったとしか思わなかった。誰か、『王』や男に色目を使っていた多くの女性の誰かが来たのだとしか思っていなかった。感覚で拾える情報も、毒で霞んではいても少しは拾えていたのに、理解しようとしていなかった。
そして中庭でヤナギに保護された。スーはもう泣く事しか出来なかった。何もかも怖くて仕方なかった。ヤナギしか頼れる相手はいないと思った。思ってしまった。
「・・・大丈夫か?」
―――頭を撫でられる。顔を上げれば優しく微笑むアヤメ姐さんが見える。
戦いの後で、涙を流していたアヤメ姐さんは目の周りの化粧を落としている。隈取りの無くなったその顔は・・・とても穏やかで、柔らかくて、美しかった。そんな女性がスーを気に掛けて触れてくれている。
囚われていたスーの為に、身を差し出してまで逃げる時間を作ってくれていた女性。スーを助ける為に好きでも無い者に身を許した女性。
そしてスーとヤナギがこの国を出る時に、陰から手を貸してくれていた女性。まだ隠行が完全とは言えなかったスー達が逃げやすいように人を誘導して道を作ってくれていた女性。
いつだってスーとヤナギの事を気に掛けてくれていた女性。
―――手が握られる。隣を見ればヤナギがスーを真っ直ぐ見てる。
・・・そうだ。言うべき事なんて最初から決まっていた。
「・・・アヤメ姐さん」「アーちゃん」
彼女の顔を真っ直ぐ見る。そこにいるのはスーとヤナギを大事に思ってくれていた女性。
「「心配をかけて申し訳ありませんでした!」」
スーとヤナギの世界は2人ぼっちの世界なんかじゃ無かった。他にもスー達に手を差し伸ばしてくれた人はいた。居てくれていた。
あの日、カイル殿とあった日に気付けた筈だったのに、また見えなくなっていた。・・・スー達が傷付けば悲しんでくれる人が他にもいるという事に。
頭を下げる。そのまま時間が過ぎていく。その時間はいつもよりも長く感じて・・・、それでも頭を下げ続けた。
「・・・ふぅー」
アヤメ姐さんが息を吐いたのが聞こえた。・・・そして。
「・・・ええよ。もう怒ってないし、許してるよ」
「あう」「あう」
ヤナギと一緒に頭を撫でられる。
「分かってくれたらええんよ。もう無茶な事はせんといてな? じゃあほら、頭上げて御飯にしよ?」
やっぱりその手は温かくて、嬉しかった。
頭を上げれば花が咲いたように笑っているアヤメ姐さんが、もう少しだけスー達の頭を撫でてから背を向けて釜の方へ歩いて行った。
「・・・手伝う!」
「スーも手伝います!」
「うっひゃ!? ちょい待て急に抱きつかんといて!? 前に釜! 釜がある!」
スー達はぶつかるようにアヤメ姐さんの背に抱き付く。そんなに大きくはない背中。そんなに広くはない背中。・・・それでもスーとヤナギの事を背負ってくれていた大きな背中。
「大丈夫。それぐらい熱いだけ」
「鍛えられてるアヤメ姐さんなら火傷もしません」
「そういう問題ちゃうやろ!? てゆうか最近同じ事したよな!?」
「もっふもっふ」
「ふーわふーわ」
「えええい! 手伝う気があるなら離れんかい!」
回るアヤメ姐さんに振り回されるスーとヤナギ。皆笑ってる。
―――ああそうだった、そうだったんだ。スーとヤナギの中にあったあの男への憎悪が薄まっていた理由。それはとても単純な理由だった。
そんな物よりも大事な物が沢山増えたからだ。だからあの男と記憶が、スー達の心の中で小さくなっていたのだ。
「アーちゃん」「アヤメ姐さん」
「ふふ・・・はいはい。どうしたん2人とも」
ここで改めて心に決めよう。自分達がいつだってそうしてきて、当たり前になりすぎて、身落ちしがちなるけれど、それでも心にある大事な物。
「「大好き!」」
大好きな人達の為に。
「・・・うちもあんたらの事、好きやで。・・・初めて2人を見た、あの日から」
さあ、これから皆で御飯を食べよう。そしてまた頑張ろう。他の皆も頑張っている、戦っている、走っている。それはきっと皆が同じ気持ちを心に抱えているから。
ヤナギとスー。そして皆の牙と爪は大好きな人達の為にある。