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天井から生えるようにダラリと伸びた脚が時折、ピクリとピクリと痙攣しプラプラと不規則に揺れていた。その脚を見上げた仲間達は感情を上手く表せず、ただただ絶句しているようだった。
こうして日常は異変に異変から異常にそうして非日常へと移り変わった。この早さに対応できる人間なんて軍人か俺くらいなものだろう。横で人間が天井に刺さったことなど、まして自分がその原因であること。全て理解しているはずなのに、「そんな些細がどうかした?」そう言わんばかりに、目を向けることもなく一直線にシチュー女はシチューの元に向かっていった。
「お、おい新入りまたねぇかっ!!」
気丈にも、最初に声を張り上げたのはヤマさんだったた。彼はシチュー女の次にシチューを楽しみにしている人間だった。大切ななケン太が絞められたこの日、非日常にもっとも近しい人間もまたヤマさんだったのだ。だが、ヤマさんの勇気ある呼びかけは悲しくも空気に溶けてしまったかのように、シチュー女に影響を及ぼさい。だが
「お前なにやりやがった!!!」
ヤマさんの勇気は仲間達にはちゃんと伝わっていた。続々と我に返ったように男達が立ち上がっていく。親方もこの異変に遅まきながらもようやく気付いたようであった。まず、怒りで己を奮い立たせる男達が目についた。そうして、こちらにまっすぐ直進してくるシチュー女に。その少し後ろから垂れ下がる不気味な脚の姿に。何が起こった・・・?親方の心情を言葉にするならこうだろう。何一つ理解が追い付かない光景に直面して親方はシチューをかき混ぜているオタマをぎゅっと握りしめた。
シチュー女の右足に仲間の一人がしがみついた。彼の行動は実に理に適っているものだった。あきらかに様子がおかしく話の通じない相手に対し、とりあえず歩みを止めさせ、足を絡めとることで行動を制限してしまおうというのだ。だがそれは、人間相手の正しい行いであり、彼にはシチュー女の情報があまりに不足していた。シチュー女は掴まれた足をそのまま後方に振り上げた。
「アアアアア」
当然、足に引き摺られるように仲間がシチュー女の懐へと導かれてしまう。そこは先ほどまでシチュー女の足が置かれていた場所。すなわち死地であった。あとは簡単だった。ただシチュー女は振り上げていた足をボールを蹴るかのごとく振り下ろした。瞬間、仲間の姿が消えた。遅れて、斜め前方から轟音が鳴り響いた。壁には大きな穴が空いていた。穴から見えた景色は緑深く、実に和であった。空いた穴から仲間が顔を覗かせることはついぞなかった。
今や状況は絶望だった。いまだ天井にぶら下がる仲間に家に空いた大きな横穴。それは、確かな現実として皆の戦意を根こそぎ刈り取った。シチュー女は戦車。そうして仲間達は弾であった。支配者はどちらか?議論すら起こらないであろう絶対的な支配的階級。人の心をへし折るにはそれで十分だった。
心を折られた仲間に構わず一心不乱にシチューの元に向かうシチュー女。だがシチューとシチュー女の間に一つの隔たりが存在していた。親方である。元海軍勤めの親方は、戦闘や逃げより、守衛の訓練をより多く受けていた。その訓練によって培われた精神性は親方の内側に今なお強く根付いている。親方は咄嗟にシチュー女の前へと出た。右手にはオタマ。左手には鍋の蓋。到底、シチュー女に勝てるとは思えない。正しいとは言えない。ただ、壁になっただけだ。だが、シチュー女は親方へと振り回されるように反応した。いや、正確にはシチューを混ぜるために使っていたオタマに。シチュー女はオタマから垂れたシチューに飛びついた。床を舐めて、恍惚の表情を浮かべる。満悦である。行為から描かれた表情に誰もが目を背けた。
親方は人間の尊厳をかなぐり捨てた映像を間近で見てしまい、あまりの恐怖に構えていたオタマを手からスルリと落としてしまった。落ちてきたシチューに飛びついたシチュー女。長い寸胴の大鍋をかき混ぜていたオタマには、ほどよくシチューがこびりついているのであった。シチュー女は犬が骨をしゃぶるようにオタマをしゃぶった。シチュー女にはもはや本能しかないようだった。親方はその光景を見て、目つきが座っていった。ただの壁だった親方の目に意志が宿っていく。今の今まで理不尽に遅れていた体が天井から垂れ下がる無様な脚を直視することで奮起していく。いまだ眼前でオタマをしゃぶるシチュー女。
「おい、新入り」
咄嗟に「親方」と俺は叫んだ。だが、親方が俺の返答に気付いた様子はない。沈んだ目で親方とシチュー女を交互に見つめた。もはや俺にはシチュー女に抵抗するだけの気力は残っていない。親方は呼びかけにも応じず一心不乱にシチューを舐めるシチュー女を見て、心底軽蔑したような眼差しを向けた。それから顔を上げ、今や棒立ちとなっていた仲間達をぐるりと見渡した。その中に俺の姿は、あるのだろうか?
「わりぃな、ヤマさん」
親方はそう言って寸胴の大鍋の取っ手を掴むと、窓に向かっておもいっきり放り投げた。親方はこの場の中で誰よりも冷静であり勇者であった。真に守るべきものを選び、それを守るために犠牲は厭わなかったのだ。
人間には、たった二つしか手がついていない。片手は自分の命をつなぐために。片手は人をつなぐために存在している。シチュー女とガチリと両腕を組んでいる俺は人とつながることなど出来るはずがなかったのだ。ともあれ、放り出さられたシチューに引っ張られるように放り出たシチュー女。それに引っ張られる俺の意識は放物線を描く寸胴の大鍋がシチューを撒き散らしながら崖から落ちる様を目撃したのであった。