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無事に大学に入学できた俺は始まる新生活に対し、不安と期待をごちゃ混ぜにしたようなだけど、これからの生活が光に満ち、輝かしいものになるであろうと信じて疑わなかった。だが、俺は自分の中に巣くうモノを忘れようと必死に楽しい振りをしていたにすぎなかったのである。光あらば影があり、奴はこの光に満ちた大学生活からすぐに顔を覗かせることになる。
その時が来たのは、俺が初めて学食に訪れた時だった。なんとか出来た友達数人と一緒に学食に行こうというリア充さながらなシチュからお誘いを受け断れるはずもなく、なんなくついていった俺を誰が責められよう。一抹の不安を抱えつつも、さすがにそこまで俺の運は悪くないと高を括り、まんまと奴を呼び寄せたのだ。
「食べた後どうする?」「学校終わったらどこ行く」「今日はドコで飲もうか」
皆、一様にこれからを楽しもうとしている。俺もその輪に加わり、輪は回りだし俺をリア充ヴァルハラへと誘おうとする。喜んで誘われようではないか。あぁもっと光を!
学食に着くと、すでに授業を終えたたくさんの学生が先に生を謳歌しているようであった。俺も今からこの中に加わるのだ。その姿を想像するだけで高揚していく。5人の仲間達とずいずい人をかき分け進む。もう怖いものなど何もない。
へぇ今日はシチューか
仲間の一人がウインドウに飾られているモノに対し感嘆ともいえる雄叫びをあげた。俺はそれが死地へと誘う死神の文句へと聞こえた。急いでその場から離れようとするも、体はすでに動かなくなっていた。もう全てが手遅れであった。
横に女が立っていた。さきほどまでは居なかった女。5人の仲間達にシレっとした顔で加わり、ジッとショーウインドウの中のシチューを見つめている。その目は熱を帯び真剣そのものであった。奴が奴がきやがった!そうシチュー女である。シチュー女はショーウインドウに入っていたシチューからスッと目を離すとおもむろに近くのシチューを食べている学生へと近づいていった。体が動かない俺はどうすることもできずただシチュー女の動向を見守っているしかできずいにいる。シチュー女はシチューの入っている皿を手に取ると口のほうへ誘い、斜めに傾け、己へとシチューを注ぎだした。なにが起こっているか分からず唖然とした表情でシチュー女を見上げる学生。声も上げれず非難もしない。ただただ困惑している。シチュー女は皿のシチューを飲み干し空の皿をそっとその学生に返す。空の皿を返された学生は皿とシチュー女を交互に見やり事態を把握したのか抗議の声を上げようと立ち上がった。だが、シチュー女にとって、それは終わった出来事であった。奴には次の獲物しか目に入ってはいなかった。口から少しこぼれたシチューを腕でぬぐい、そうして今まさにシチューを食べようとスプーンを握りしめた学生に近づくと、当然のようにシチューを奪い飲みだした。スプーンを握ったまま、上手く状況が呑み込めずにいる学生。彼のスプーンで掬うシチューを飲み干していくシチュー女。スプーンはもうシチューを掬えないのだ。学生はスプーンを机へと置いた。
周囲がこの異変に気付きだすのはすぐだった。ざわめきだした学生達の視線はシチュー女へと注がれている。まだまだ満たされないシチュー女には不満や苛立ち。そういった負の感情が覆い隠せぬほど溢れかえっていた。シチュー女は各テーブルに散らばっている小物達にはもう先ほど示したような激情を見せることはしなかった。小物共を幾ら潰したところで私を満足させることはできないだろう。シチュー女は本能と経験で知っている。このたくさんの小物共を辿れば、大物へと辿り着くと・・。辺りを舐めるように見回すシチュー女。目当ての大物はすぐに見つかった。寸胴の大鍋である。食べ盛りの学生達の胃袋の全てを満たそうとする大鍋だ。シチュー女の目がにわかに輝きだす。シチュー女が優雅に動き出した。他の小物共には目もくれず、シチュー女はまっすぐ大鍋のある厨房を目指していた。はやく!はやく!奴を止めないと・・奴の目論見に気づいているのは俺だけなのだ。奴はシチュー女はシチューしか眼中にない。虫がより強い光に集まるように、奴はより多いシチューに反応を示すのだ。だが、体どころか口すらも動かない。目だけがシチュー女の動向を追っている。このままでは、俺の大学生活は・・・誰か・・誰か・・!!
その時、俺の仲間の一人がシチュー女の肩をつかんだ。仲間はあきらかに動揺している。
「おい、どうしたんだお前?お前・・・止めろよ」
仲間の一人が優し気に語り掛けるも、シチュー女は振り向きもせずに肩にかかった手を取り、手首を半回転だけ捻った。そのひと動作だけで肩に手をかけた俺の仲間は近くの机に顔から突っ込み机を割った。突っ込んだ仲間は起き上がらず、周囲の人間も仲間を助けに行かない。この異常な光景についていけている人間は俺以外に誰もいないのである。
皆が一様にシチュー女の動向を見守る中、シチュー女はそれを気にする風でもなしに、一枚の板で隔てられた厨房へと足を踏み入れた。勘のいい何人かはすぐに気づいた。手で口を覆い、そんなまさか・・・と今から起こるであろう惨事を信じられずにいた。厨房の人間達は先ほど机に突っ込んだ学生を目の当たりにして、シチュー女が聖域に踏み込もうが誰も何もできずにいる。シチュー女を避けるようにして道を開いていった。シチュ-女は皆に見守られながら厨房の奥へと進んでいく。そうして目当てのモノの前まで歩を進め、そこで初めて進むのを止めた。
寸動の大鍋である。奴はその取っ手の両方を持ち、自分の体の近くまで引き寄せると、海老反りのごとく体ごと寸胴の大鍋を傾けだした。周囲の人間のいくつかはこの異様な光景を記録しようとスマフォを取り出しカメラを回しだす。やめて・・やめてくれ・・・。仲間は机に突っ込んだ俺の仲間の肩を抱き、意識のない彼にしきりに声をかけている。
トプ・・・トプ・・・トプ・・・
寸胴の大鍋の傾きが次第に大きくなっていく。だが、中のシチューは一滴たりとも零れはしなかった。全てシチュー女の中へと吸い込まれていっている。騒めきとも歓声とも取れぬ声が口々から上がる。魔法でもトリックでも技術でもない。超常ともいうべき異常がそこにはあったのだ。体の角度が次第に小さくなっていき、それに伴い寸胴の大鍋も天高く持ち上げられていく。寸胴の大鍋がついには垂直に持ち上がり、頂点を迎えたところで、先ほどの動きと逆向きにゆっくりと戻りだした。周囲の人間もこの異様な光景を見逃すまいと、シチュー女にスマフォを向けた。シチュー女は抱いている寸胴の大鍋に光をかざし、中にシチューが残っていないことを確認すると、寸胴の大鍋を興味をなくしたオモチャのように放った。そこで俺の意識は途絶えた。
目を覚まして見たモノは見慣れない景色であった。様々な調理器具が並び、大型の食器洗浄機が置かれている。皿が何枚もあり、俺の横には空になった寸胴の大鍋が転がっていた。何枚も置かれている皿の横に身を寄せ合うようにして白衣を着た数人が固まり、俺に恐怖の視線を向けている。なにか違和感を感じ口を手で拭うとベッタリと食べた覚えのないシチューが手についた。一枚の板で隔たられた向こう側ではたくさんの学生が俺の事を見ていた。次に俺がどう動くのか気になって仕方がないらしい。まるで動物園の檻の中にいるようだ。だが俺と彼等の心の距離は無粋な鉄格子、まして隔てられた一枚の板などでは到底縮まらないほどの距離が開いたのである。