第九話 光のパズル
午後になると同時に美波の家に人が押し寄せた。人の良さそうな葬式屋、美波も顔の知らない親戚、鶴子と仲が良かった近所のおばさん。おばさん達以外は急遽休みを取って駆けつけたようで、スーツや作業服を着たままの人も多かった。美波は悲しむ暇もなく、ひっきりなしに出入りする親戚にお茶を出すのに精一杯だった。お盆を持って台所といくつかある和室とを何度も往復した。史恵は葬式屋との話し合いで手が空かず、奏海と絵美は遺品の整理で忙しかったのだ。
鶴子が選んだのは自宅葬だった。嫁いだ時から半世紀近く住んでいるこの家で最後の儀式を迎えたかったのだろう。葬式屋との話し合いでお通夜は明日、お葬式と火葬は明後日に決まった。美波にとっても、絵美や奏海においても、鶴子が死んだという事実がいまだに夢のように思えて仕方がなかった。手のひらは硬くて大きくて、力持ちで、いつも元気だった鶴子が死んだ。医学的知識のない三人には死の兆候など分かるはずもなく、ただただ突然の事態を飲め込めないまま呆然としているしかなかった。
美波はふと胸の方に忍ばせてある勾玉を覗いた。こんな時に首飾りなど不謹慎だ、と親戚から思われないように服の中に突っ込んである。美波が暗い気持ちになっている時はひんやりと冷たく、そうでない時はほんのりと温かい。感情に合わせて温度が変わるらしく、本当に不思議な石だった。あれから奏海は美波と目を合わせようとしないし、勾玉について聞いてもごまかして答えてくれない。美波の中で不満とはまた違った違和感が膨らみつつあった。
それからというものは本当にあっさりとぼんやりと時間が過ぎていった。鶴子が棺に入れられる瞬間も、お経を詠まれているその時も、線香みたいに跡形もなく消えていった。傍から見れば現実逃避、しかし美波にはそんな意識の欠片もなかった。あまりにも強すぎる悲しみのエネルギーに、思考が停止してしまったかのようだった。
涙の栓が外れたのは、鶴子の骨をお墓に納めて自宅へ戻ってきた時だった。
持ち主を失った家はいつもに増してしんと静まり返っている。普段なら聞こえるはずの蝉の声も、家中に優しく響く風鈴の音色も、色んな音が行き場をなくしたように彷徨っていた。
大半の親戚はそれぞれの生活に戻ったようであったが、数名の男と女はここが自分の家であるかのように我が物顔であぐらをかいている。史恵や絵美でさえも知らないその男が、史恵たちを見下すように口を開いた。
「この度はご愁傷様でしたー。それでよ、死んだばあちゃんの遺産のことなんだけどよ……」
美波の眉がぴくっと動いた。
「俺らの家とあんたらの家で半分ずつ分け合うってのはどうだ?」
「あなたは一体何を言っているのですか?」
史恵がメガネの奥から鋭い視線で男を睨みつけた。
「別に俺は何も間違ったことは言ってない。なんたって俺はばあちゃんの甥っ子なんだからな!」
「私は長女です! それに次女も孫もいるんです! どうしてあなたにお金を渡さないといけないんですか」
「遺族には金を受け継ぐ権利ってもんがあるだろ! 血のつながりもあるんだよ!」
男は畳を思い切り踏みつけて立ち上がった。対抗するように史恵も立ち上がる。
「血のつながりって……。あなた一回でもこの家に顔出しましたか? それなのにお母さんが死んだ途端に金って……、ふざけるのもいい加減にしてください!」
美波の中で何か得体のしれないものがふつふつと湧き上がってきた。それは胸の方から頭へと駆け上がって美波自身には制御することも抵抗することもできなかった。心の奥深く、本人でさえも知らない爆発的な感情がどんどん膨れ上がる。
「ふざけるな……? じゃあ、この家を売ってその金をよこせ! まぁ、こんなボロい家売れるはずもないと思うけどな」
鼓動に合わせて……大きく……強く……。
「どうしてそんなことしなくちゃならないんですか! もう帰って――」
ちゃぶ台に置かれたティッシュの箱が、幼い美波とその両親との写真に投げつけられた。棚の上に置かれていた写真が真っ逆さまに落ちていく。ふすまの敷居に叩きつけられたガラス製の写真立ては嫌な音とともに砕け散った。
「うるさい! さっきから二人ともうるさい!」
「美波……ちゃん……?」
「お金の話ばっかり! この人も、家を売ればいいって……私はどこで住んだらいいの!」
「美波ちゃん、ちょっと落ち着いて……」
「おばあちゃんはもういないのに、どうして落ち着いていられるの! 大人の言うことなんて分からない!」
美波は大粒の涙をぼろぼろと流しながら、あふれる想いのままに叫び続けた。自分が何を言っているかさえも分からないようで、自分でない自分が、ただ暴れる感情に従っているだけであった。ただただひたすら泣いて、また泣いて……。堰が壊されたように一気に涙が溢れてくる。
「もう皆なんか知らない!」
美波はどたばたと乱暴に部屋を出て行った。古い廊下をどんどんと走り、玄関の引き戸をぴしゃんと力尽くで開けて外へ走る。不安、絶望感、怒り、悲しみ。いろんな負の感情が混ざってもう何が何か分からなかった。
家の前の道を走る。突き当りで右に曲がって、また走る。急な坂を泣きながら走る。息が切れようと、足が重くなろうとひたすら走る。涙を後ろに残して、どんどん坂を登る。
家を出て行った美波を、奏海は慌てて追いかけた。もともと海の世界では走ることなどなかったため、そこそこ運動ができる美波を視界から逃さないようにするのは体力的にかなり無理があった。真夏の夕方、まだまだ天高くに位置する太陽が奏海の長い髪を焼き付ける。
奏海がようやく追いついた時、美波は、坂の頂上から伸びる階段の前にいた。その階段は森をくり抜いたように作られていて、青々と茂る夏色のモミジに四方を覆われている。入り口には所々が腐り始めている控えめなサイズの鳥居。急傾斜の石段の先は数多なる葉に隠されて見えない。
「美波!」
美波は一瞬振り向こうとしたが、結局奏海の方を見なかった。そのまま一段ずつゆっくりと階段を登っていく。先程までずっと走っていて疲れたのか、その足取りは重く、一歩ずつ膝に手をつきながら歩いて行く。数十段ほどの間を置く開けて二人は深緑に染まる階段を登っていった。
モミジのトンネルの先、夕方の光がこぼれる少し開けた所で、ようやく美波の目的の場所についた。数百段の後、そこに現れたのは小さな神社だった。階段の頂点の両脇には、石造りの狐が二匹向かい合わせに座っている。全国どこにでもある稲荷神社の一つでしかないが、何者にも干渉されない静けさと、深い森に囲まれた密閉感が美波にとっては不思議とお気に入りだった。
固く閉ざされた本堂の扉の前、段差に被った埃をさっと払って美波はそこに腰掛けた。ようやく奏海も足に力が入らない様子で落ちるように美波の隣に座った。
「奏海……」
小さな声で奏海の名を呼んだ後、美波は足を引き寄せて膝の上に顎を乗せた。
「私、これからどうしたらいいのかな……。おばあちゃんの家にはもう住めないだろうし、史恵さんも絵美さんも結婚してるから多分私は引き取ってもらえない。血の近い親戚もあんなんだし……」
美波の目には普段の活力が全くといって無かった。悲しみからか、あるいは諦めからか、光を失ったような目をしている。目は開いているが景色を見てはいない、そんな生力のない表情。
悩んだ末に、奏海は鶴子が死んでからずっと考えていたことをついに美波に伝えることにした。
「それなら、私の家に来ませんか? 今の美波は勾玉の御加護で海の中でも息ができますから」
体を丸く抱え込む手の上に奏海は自分の手のひらををそっと重ねた。一旦泣き止んだかと思われたが、奏海が下から覗き込むと、美波の目には再び涙が溜まっている。
「奏海が竜渦に殺されたくなくて海から逃げてきたんじゃないの?」
「この前竜宮を見てきた時、誰にも見つからずに家まで行けることが分かったんです。それに私のお母さんとお父さんは、きっと私達を隠し通してくれます。とりあえず、今日だけでも家に来ませんか?」
「……ねえ奏海。どうして私にそこまでしてくれるの?」
「それは……、美波は私の命の恩人だからです! だから、美波が辛い時は少しでも力になりたいんです」
美波は目から溢れる涙をそっと拭った。ちょっと待ってね、とポケットから携帯を取り出して史恵に今日は友達の家に泊まる旨のメールを送った。
「なるべく早い方がいいです。それじゃあ、行きましょう……」
奏海は美波の手を引っ張った。半分自分で歩いて、半分奏海に引かれて歩いていく。精神的にかなり疲れているのか、今の美波には何かが欠けている。海へ向かう途中、奏海は一旦家に寄って和服と羽衣を風呂敷に包んだ。それを提げてまた海に向かって歩いて行く。
日が沈む時間が少しだけ早くなってきた。ひぐらしの声が寂しげに響く黄昏時。まだまだ日は照りつけるように暑いけれど、もう夏の終わりは近い。
第九話「光のパズル」
おわり