第八話 始まり
黒い木で作られたタンスはちょうど四段あったので、一人一段ずつ中身を調べることになった。すべての段に白い紙で包まれた着物が入っていて、時折紙に空いた穴から肌触りの良い布が顔を覗かせていた。
普段の鶴子が和服を着ているところを美波は見たことがなかった。タンスが着物で埋まっているのを見て、生きてきた時代が違うことを改めて実感させられた。一つずつシワがつかないように丁寧にタンスから出して、また次の着物を出していく。全体的に落ち着いた色でまとまっている分、美波が最後に出そうとした着物には驚かされた。
白い紙に透かしてもわかるほど鮮やかな青。他の着物よりも布が薄く面積は大きい。シワをつけないためか、折る回数を最小限に抑えて畳まれたそれに、美波はなんとなく見覚えがあった。確実に見たことがあるはずなのに記憶はぼんやりとしていてうまく思い出せない。心に違和感を抱えたまま最後の着物を外に出し、美波は、自分の担当した段には箱が入っていないことを確認した。
黙々と作業する奏海の隣では、史恵と絵美が懐かしそうに話しながら着物を眺めていた。
「あ、史恵。これ覚えてる? 成人式の時にお母さんが貸してくれた振袖」
「あー、そういえば。懐かしいね。あの時は、みんなのより地味であんまり好きじゃなかったけど、すごくいい匂いがしたよね、その着物」
「そうそう。畳の匂い? 結局みんなで着回して今に至るってわけか。なんか感慨深いね」
「そうだね。次は美波ちゃんが着るのかな? いつまで受け継がれていくんだろうね」
思い出話に花を咲かせる二人の手は全く動いていない。いつもなら美波が作業を促していただろうが、今日はあえて何も言わない。鶴子に関する話題を途切れさせたくなかったのだ。史恵と絵美もそう思っているのかもしれない。
話題が一段落したところで、突然美波に話が飛んできた。
「そうだ、美波ちゃん。着物って何年着れるか知ってる?」
絵美は急に得意げになって美波に尋ねた。きっと美波の大はずれな回答を期待しているのだろう。
「えーっと……何年だろ……」
「さあどれくらいでしょうかー?」
「んーっと……、ちゃんと保管したら100年くらいもつんじゃないの?」
「あちゃー。正解だ……」
「急にどうしたの?」
「いやー、この夏まで二年間くらい東京の和服専門クリーニング店でパートしてたからね。ちょっと仕入れた知識を披露しようと思ってたのに」
あ、と何かを思いだしたように美波は口を小さく開けた。
「確かおばあちゃんが言ってた。私の小さい時の浴衣をどうしようか迷ってた時に、そんな話になったんだった。浴衣の寿命は限りがあるけど、着物は大事にすればいつまでも着れる、って」
目の前の着物の山を眺めながら、美波は思い出を振り返った。
「あの時は、おばあちゃんに着物のイメージがなかったから不思議だったけど、こういうことだったんだね」
美波はもう一度美しい光沢を持つ着物を隅々まで見つめた。ただの黒い布だと思っていた着物も、目を凝らすと少しだけ金色の糸が織り込まれていたりする。百年どころか千年でも、その先もずっと着れそうな気がした。
「よし! それじゃおばあちゃんの手紙探しますか!」
絵美は袖をまくり直して作業を再開した。
美波はふと気づいた。みんな無意識のうちに「遺書」という言葉を使うのを避けている、ということに。いや、無意識などではない。やっぱりここにいる誰もが、鶴子の死をまだまだ受け入れられてないのだ。鶴子は今も縁側でのんびりとお茶を飲んでいるのかもしれない。そう思えば、本当にそこに座っていそうだった。
死を乗り越えて前を向くことができたわけではない。かといって後ろを向いているわけでもない。四人は、ちょうど横を向いたまま立ち止まっているようなものだった。前に進めないなら無理に動く必要はない。次の一歩のための準備をすればいいのだから。鶴子の家はそういう風にして家族になっていった。そして今は、血を継ぐ三人と奏海がその思いを受けて"家族"になろうとしていた。
そんな中、桐の箱を見つけたのは絵美だった。なんとなく絵美が見つけると思っていたが、やっぱり美波自身が見つけ出したかった。
箱を持ち上げると、重力に従って自然に蓋は開いた。木とは思えないほど箱は軽い。そして中には何もない。四人の鼓動は高まっていく。箱をひっくり返して底を数回叩くと、上からはめられた底板と共に封筒が出てきた。
三人の視線が史恵に集まる。鶴子の夫もすでに他界している今、その長女である史恵が遺書を読むのが適当だろう。みな納得した視線で遺書と史恵とを交互に見た。
史恵は手を震わせながら数枚の紙を取り出し、ゆっくりと読み上げていった。
みんなへ。わしが死んだ今、みんなは泣いているのだろうか? もし泣いているなら涙を拭いてくれ。わしが死んだというのに陰気臭いのは嫌だからな。さて伝えておきたいことだけ書いておくとしよう。
まずは史恵と絵美に対してだ。二人は本当によく出来た子だ。ちゃんと働いて自分で生きていけるようになって、本当の意味での大人になったと思う。最近はなかなか会えなかったが、二人が今の面倒な世の中で必死に頑張っているのは伝わってきた。憎まれ口を叩いたりもしたが、実を言うと恥ずかしかっただけだ。二人のことを思い出さなかった日は一日もない。不思議なことに二人のことを思い出すと、今でも子供の史恵と絵美が頭に浮かんでしまう。親の性分というものかな。書きたいことが多すぎてこんな小さな紙には書ききれない。最後に覚えておいてほしいこと。立派な子に育ってくれてありがとう。わしの子に生まれてきてくれてありがとう。
美波も私にとっては四人目の子供みたいなものだった。日々心も体もどんどん大きくなっていく美波を見ているのが、わしは大好きだった。わしは美波の両親の代わりをしてやれただろうか。それだけが最後まで不安だ。育て役としては完全ではなかったかもしれないが、せめて美波を大学に行かせてやりたいと思って通帳に金を貯めてきた。わしの机の引き出しに入れてあるから、それを使って思い切り勉強してほしい。美波がいたおかげで最後まで幸せに過ごすことができた。美波と縁側でお茶を飲んだ時間は冥土の土産としようと思う。今まで本当にありがとう。それと、一年に一回でいいからわしの墓に顔を見せてほしい。美波が大人になっていくところをしっかり見届けてから、生まれ変わりたいからな。おばあちゃんとの最後の約束だ。
奏海ちゃん、いや奏海。わしは分かっておったよ。そのまま好きなように生きるがよい。
さて、わしの葬式と墓にかかる金はもう払ってある。最後に書いてある電話番号にかければ、わしの骨が墓に入るまで業者が全部手伝ってくれるはずだ。それなりにいい会社といい男を選んだからな。
最後に。私がずっと大事にしてきた首飾りがある。それを美波にやろう。きっと死んでるわしの首にかかっているはずだから、それを形見としてくれ。
それでは、さようなら。わしの大好きな家族よ。
遺書を読み終えた史恵は目にうっすらと溜まった涙を拭った。鶴子の望み通り、涙を見せないように……。
顔を隠すように史恵は立ち上がった。
「まずは業者さんに電話しよう。それから通帳と首飾りを探して、私達も、お母さんを送り出せるように手伝おう」
「そうだね。その前に史恵。ほら」
絵美はそう言ってハンカチを差し出した。
「泣いてちゃダメでしょ、お姉ちゃん」
「絵美……。ありがとう……」
史恵はハンカチを目に押し当てた。
絵美は昔から、こういうところだけ心配りができた。お姉ちゃんという立場上、なかなか絵美に弱いところは見せなかった。それでも絵美は何かあるたびに、史絵が助けを求める前に手を差し伸ばす。史恵は温かいものが心の奥深くまで染みこんでくるのをはっきりと感じた。
葬式屋を呼ぶ前に首飾りと通帳を探しにもう一度鶴子の部屋へ戻った。ふすまの滑りが悪くなっているのか、なかなか素直に開いてくれなかった。
そこは誰も立ち入ってはいけない空間のように思えた。壁と天井に囲まれているからではなく、もっと別の何かがこの部屋と外界とを断ち切ってしまったようだ。この部屋だけぴたりと時間が止まってしまったのか。空気に溶け込む色んな物が、部屋の圧迫感と閉塞感を高めていた。
「美波ちゃん。私達は通帳を探すから、美波ちゃんはお母さんの首飾りを」
「分かりました……」
美波はもう一度鶴子に手を合わせてから、寝間着のボタンを一つ丁寧に外した。首に焦げ茶色の紐がかかっているのが見えた。その紐の先、服に潜り込んだ先端を丁寧に引っ張り出した。
あ! と思わず声を上げてしまった。
「どうしたの美波ちゃん」
通帳を探していた三人が寄ってくる。
「これって……」
美波の持つ紐には、勾玉の形をした純白の石が結び付けられていた。光沢はあるのに、一度貯めこんだ光は二度と逃さないような不思議な白をしている。黒が何色にも染まらないのは他の色を黒に染めてしまうから。でもこの白は、他のすべての色を抜き取ってしまうから何色にも染まらない。美波が初めて見た白だった。
奏海の頬が僅かに緩んだあと、驚いたような表情を見せた。
「すごく綺麗ですね!」
「ねえ奏海、これってもしかして―」
「美波にぴったりだと思います! それは美波が持っておくべきです!」
奏海は美波の言葉を遮って、白い勾玉を持つ美波の手をぎゅっと握らせた。
周りの音が聞こえない。その時、美波は気づいてしまった。それが月白の勾玉であるということに……。
第八話「始まり」
おわり