もう一人の幼馴染
奏海は美波が戸惑うであろうと分かっていた。しかし、実際にそんな顔をされると悲しみが溢れる。ひと夏は確かに短い時間であったのかもしれないが、少なくとも奏海はこの時間で築かれた二人の信頼と相互の理解に確信があった。
「やっぱり……ダメですか?」
「……。はじめに一つ聞きたいことがあるんだけど」
美波は自分の後れ毛を指で巻きながら尋ねる。
「こんなこと言いたくないけど……私を海に連れてきたのって私を慰めるためじゃなくて、私に竜渦を殺すのを手伝って欲しかったから?」
奏海はがっかりしたような、そして泣きそうな、そんな複雑な表情で美波を見つめた。
「そんなこと……。確かに、私は美波に手伝って欲しいです。でも、そうならちゃんと事前に言います」
「ってことは、結局手伝えってことだよね?」
「……」
「私は誰かを殺すことなんてできない」
奏海はしばらく天井を眺めたあと、美波の方に視線を戻してゆっくりと口を開いた。
「美波は、竜渦が何をしたか知っていますか?」
「だからって……奏海が殺す必要ないと思う……」
奏海は美波の首にかけられた勾玉を手のひらに乗せた。それからそっと囁くように、
「鶴子さんは私達二人のおばあちゃんです。それはもう気づいていますよね? 」
と言った。
「うん……。それは知ってる」
美波は、やっぱりか、とその事実の衝撃に再度驚きながらも特にそれ以上の感情を抱かなかった。鶴子の首に真っ白な勾玉がかかっていた時点ですべてを悟ることができてしまっていたから。出会ってから仲良くなるまで妙にテンポが良かったのは、多少なりとも血のつながりが影響していたのかもしれない。 ただ、今更そんなことを知ったところで、二人の友情に変わりはない、むしろ隠し事が一つ減ったようでより信頼が増したような気がする。美波はそういうふうに奏海のことを信じている。
でも、どこか違和感が。分からない、それがどこにあるかが。
美波の中で膨らむ何かに当然気づくはずもなく、奏海は淡々と話を進めていった。
「私のお母さんが結婚した頃、竜渦は海の国の王に就任しました。おばあちゃんは当時はまだ神社の主でした。私の家の神社の役目は、月白と漆黒の勾玉の保護、そして七色の勾玉の乱用を防ぐことです。だから、おばあちゃんは月白の勾玉を竜渦から守るため、勾玉ごと陸に逃げて行きました」
伝えるべきことの多さに、奏海は頭の中を整理しながら順番に話していった。
「私はまだ生まれていなかったので漆黒の勾玉は存在しませんでした。私は、おばあちゃんの判断は間違ってなかったと思います」
そして鶴子は陸での生活を始め、美波の母を含む三人の子供を産み育て、また月日が流れて美波が生まれた。美波は偶然にも奏海と出会い、それから鶴子は亡くなり、美波は月白の勾玉の所有者になった。
今の美波はこの世に一つしかない月白の勾玉を守り通さなければならない。それに、この勾玉は二人のお祖母ちゃんの形見でもある。だからこそ、奏海は竜渦に月白の勾玉を絶対に奪われたくなかった。そのためには、もう殺すという手段しか残っていない。これは、勾玉の安静、そしてこの世の平和、さらには殺された友達のための復讐という思いも含まれた複合的な殺意であった。「自分のため、そして美波のためでもある」と奏海は何度も繰り返した。
「奏海の気持ちはよく分かるような気がするけど……。私には、その剣で竜渦を殺すことなんてできない」
「……そう言うと思っていました。だから一つ提案があります」
提案……? と美波は慎重に尋ねた。
神社の離れの天井と壁一面大量の絵巻物が掛けられている。例の勾玉伝説を記したもの、海の神であるオト様トト様について記したもの。年季の入ったそれらに囲まれているだけで、美波は少し圧迫されているような気持ちになった。
美波は心が疲弊しているのを自分自身で感じ取れた。大好きだったおばあちゃんの死からほとんど経っていない今、他の誰かの死のことなんて考えるだけで心が壊れてしまいそうだった。奏海の話が現実離れしたようなものとしてしか頭に入ってこなかった。
「私が剣を構えて竜渦に突進します。だから美波はその間私と手を繋いでいてください」
月白と漆黒の勾玉はその存在の貴重さ故、自身を守るための力は他の色の勾玉の何倍も強い。手を繋ぐことによって合わさった二つの力を奏海の短剣に乗せよう、という考えだ。
「だから、手伝って下さい」
奏海は深々と礼をして美波の返事を待つ。しばらくの沈黙の後、美波は蚊の泣くような小さな声で呟いた。
「……めて。もうやめて……」
「どうしてです――」
「もうやめて! おばあちゃんが死んだのにそんなことできる余裕なんてない! 奏海は悲しくないの!?」
奏海は口をきゅっと締めて下を向いた。絞りだすように言葉を紡ぐ。
「それは……もちろん悲しいですよ……。とっても悲しいです。おばあちゃんも、お母さんもお父さんも弟も澪も、みんないなくなって……」
美波は奏海の頬に手を添えて、
「悲しい気持ちを自分の中に閉じ込めちゃダメだよ」
と言った。 奏海はゆっくりと顔を上げる。徐々に視界に入ってくる美波の目尻は潤んでいた。
「一緒に泣けるだけ泣こうよ。そうやって感情を押し殺してると心が死んじゃうから」
奏海は美波に倒れこむように泣き崩れた。美波も、奏海を抱くように腕を回して暖かく包み込む。目から溢れる涙は、水の中だから、地面には落ちず海にそっと溶け込んでいった。
その日の昼下がり。町の方は相変わらず静かだが、日中ということもあって少しばかりの声は聞こえてくる。近所の婦人同士で話が弾んでいるのだろうか。そうだとすると、海も陸も環境は違えど人間という生き物の暮らし方はさほど変わりがないのかもしれない。街の、少し民家からは離れた場所に位置する神社に異変があったのはちょうどそんな頃だった。
「ねぇ、奏海。神社の方から足音がしない?」
離れにいる美波にも聞こえるほどの大きくて乱暴な足音。奏海はびくっと警戒したように、とっさに剣を握った。
「私、ちょっと見てきます」
「あ、じゃあ、私も」
「いいです」
「奏海一人じゃ不安じゃない?」
「美波は戦ってくれないんですよね? それなら来なくていいです」
「足手まといになられても困りますので」と奏海は付け加えて、それを捨て台詞のように扉をぴしゃりと閉めた。残された美波は、悲しいような悔しいような、後味の悪い気持ちになった。
「やっぱり昨日から帰ってきてたのか。部屋の明かりが見えたから、もしかして、と思ってたんだよ。俺の直感もまだまだ健在だな」
「もう。なんですか、それ。それより勝手に家に上がり込む癖、わたしの家以外じゃ泥棒扱いですよ」
「はいはい。分かった分かった。っていうか、陸から帰ってきても相変わらず敬語は抜けないんだな」
放っといてください、と奏海が言ってすぐに、二人は部屋に入ってきた。
少し茶色がかったさらさらの短髪。どこまでも透き通るような青みを帯びた瞳。身長はそれほど高くないけど骨がしっかりしていて、ふくらはぎの筋肉も引き締まっている。その少年、伊織は、何か異物でも見るような目で美波を観察し始めた。
「おい、奏海。こいつ陸の人間か?」
「そうですよ。私を助けてくれた大切な友達です」
「ふーん。そっかそっか。まぁ、一応よろしく。俺は伊織っていうから」
「あ、私は美波っていいます」
「お前も敬語? 奏海のが伝染ったのか? まぁ、なんでもいい。俺は奏海と同い年で幼馴染。家もすぐそこで結構この家には世話になった。でも、さっき奏海からいろいろあったって聞いて、今は内心かなり戸惑ってる」
悲しい気持ちを表に出さないタイプなのか、伊織は指で髪を乱しながら言った。でも、美波がよく見ると、そのブルーの瞳の奥に隠された感情が少し垣間見えたような気がした。
「伊織は昔からずっと私の家に浸り込んでましたからね。たぶん今の私の気持ちが一番分かるのではないでしょうか」
「そうかもな。で、奏海、今まで陸で何してたんだ?」
「竜宮で竜渦に仕えるのが辛くて逃げ出してからはずっと美波の家で過ごしていました」
そうか、と小さく相槌を打っただけで、伊織はそれ以上深いところを詮索しようとはしなかった。ただ、過去のことは聞かなかったが、これからのことに関しては気になるらしく「この先どうすんだ?」と聞いた。
陸にもう一度戻っても、美波は生活できるのかもしれない。でも、奏海には残念な人柄の知り合いさえいない。かと言って海で生活していくにも家族を全員失ってしまった。海に戻ってきたことが竜渦に知られるのも時間の問題だ。そうなれば今度こそ命を奪われてしまう。そこで奏海は考えを練っていた。
「私には作戦があります。一週間後、また竜宮で生け贄の儀式が行われるそうです。その時、私が竜渦を……殺します」
第十二話「もう一人の幼馴染」
おわり




